9/ 3rd, 2013 | Author: Ken |
「種の起源」とダーウィン。
人類の知性が著した革新的思想の本といえば、古代ギリシャから現代まで無数にあるが、その中でもパラダイムシフトを起こした本といえば、ニュートンの「プリンキピア」、ダーウィンの「種の起源」、アインシュタインの「相対性理論」だろう。・・・は間違っていた!という本をたくさん見かけるが(コンノケンイチさんなんて凄いですね。そのトンデモ度合に嬉しくなります)特に多いのが「アインシュタインは間違っていた」が多い。物理学者にもこの手の手紙が多いそうだ。そこで物理学者は「それを数式で説明してくれますか?」(ちょっとイヤミ)という返信を出したら、絶対に返事はないそうだ。ニュートンやアインシュタインはポパーのいう反証可能性と再現性と実験、数式で証明できるが、進化論となると誰でも進化論者になれる。だから、150年以上論争が続き、いまだに喧々諤々である。
……「種の起原」。今まで引用や部分的にしか読んだことがないからこの際通読してみた。エッどこが? 僕たち日本人にとっては教育のせいもあるだろうが、極めて自然に受け入れられる。やはり背景にある文化が論争を呼ぶのだろう。アメリカではいまだに「進化論」を教えるな!教えるのなら「創造論」も同等に教えろ!とか、科学的を装って「ID・インテリジェントデザイン」だ!と喧しい。「アダムの臍論争」もそうだ。アダムにヘソがあれば母から生まれたのであり、神が作ったものではない!(どうして男にも無用の乳首があるのでしょうね?)と。また気をつけたいのは書店や図書館にこの手の「創造論」の本が鎮座ましましているから気を付けたいものだ(それなりに面白いが最後に某宗教団体の名があるから?ですね)。僕だって花カマキリや木の葉虫の擬態には驚嘆するし、蜂や蟻の社会性、べっこう蜂の戦略、植物と昆虫の適応など、この絶妙とも言える生物の生態はダーウィン説だけではとても説明できるとは思われない。19世紀にはまだDNA二重螺旋もゲノムも知られていなかったけれど…。
しかし、現代がそれを知ったかといってダーウィン説を否定できる証拠もないし、あまりにも未知が多すぎる…..。「種の起源」を読んでみても、今までこんなことに誰も気づかなかったのか!と言う気がする。1859年11月24日はキリスト教社会には激甚の日だったのですね。ダーウィンの「種の起源」の本意を大きく分ければ、
1)進化論そのもの 2)共通起源説 3)種の増殖説 4)漸進説 5)自然選択、性選択 という所だろう。
いまだに論争が絶えないのだが、その中でもリチャード・ドーキンスは「創造論」批判の急先鋒だ。利己的遺伝子論で「自己複製する実体の生存率の差によって全ての生命は進化する」「無神論者は誇りを持つべきだ、卑屈になる必要はない、なぜなら無神論は健全で独立した精神の証拠だからだ」「無神論は進化を理解することの論理的な延長である」と、鼻息が荒い。……まあ、科学と宗教は別次元の話だし、神を信じなくても人生において「哲学としての心の慰め」に宗教は大きな力を発揮する。ぼくは八百万の神々は迷信だし、創造論は神話だし、「原罪」だなんて何のことだかわからない。「ああ、神様!」と言うこともあろうが、ダーウィンからドーキンス(どの本も本当に面白い)の考えに強く惹かれますね。