3/ 26th, 2011 | Author: Ken |
おお!モビーディックだ。
「白鯨」(1851)ハーマン・メルビル。背景は旧約聖書の臭が満ちている。主人公イシュメールはアブラハムが女奴隷に生ませた子供である(創世記)。船長のエイハブは聖書のアハブ(列王伝)、この王はユダヤ教徒と対立し暴君である。また鯨に飲まれ腹中で過ごしたヨナの話もある(ヨナ記)。
おまけに出航前にはイライジャ(エリア)という預言者まで現われる。書かれた時代、ピルグリムの東海岸という場所柄、聖書が深く根を降ろしているのは当然として、エイハブ船長にとってモービー・ディックとは何か。
「仇敵」ならば復讐である。「邪悪の象徴」ならば、巨大な悪に立ち向かう英雄である。「神」であるならば、神の創造に挑戦する人間、自然を克服し支配しようとする人間の傲慢か?それとも人間の愚かな行為か。いやエイハブ船長こそが悪なのか?エイハブの憑かれたような復讐心と狂気は….。エイハブにとってはモービー・ディックは悪意が凝縮した姿としてあり、モービー・ディックを倒すことは、この世の悪を見極め打倒することなのだろうか……いやいや白鯨の意味は何なのか? 白人種の奢りと衰退なのか?そいうえば登場人物も人種は様々である。現実主義者の一等航海士スターバックは白人、全身刺青に覆われた誇り高い銛打ちクィークェグは太平洋諸島人、アフリカ系の黒肌のダグー、アメリカ・インディアンのタシュテゴ、拝火教徒、クエーカー教徒などなど……。
嵐が近づきセントエルモの妖しい火が燃える。そして発見!「潮を吹いている。雪の山のような瘤。おお、モービー・ディックだ」。死闘三日目。銛を打ち込むエイハブ。綱がエイハブの首に巻きつきエイハブは、海中深く引きずり込まれ船も藻屑と消えた。イシュメールだけがクィークェグの作った棺桶につかまり助かる。
「白鯨」は謎が多い小説だ。だからこそ惹かれ読み続けられ歴史的名作と言われる所以だろう。でも、ぼくは象徴とか哲学なんかあまり考えたくない。海洋冒険譚として読むのだ。鯨辞典でもあり帆船時代のワクワクする冒険の面白さだ。そしてとにかく大きい、デカイことは迫力と圧倒性である。ティラノザウルスにしてもブラキオサウルスにしても大きく強いだけで嬉しくなってしまうのだ。まして史上最大の動物である鯨、そして巨大で真っ白で島のごとき抹香鯨ときたら誰だって仕留めたいと思うだろう。単純に言えばそうなるのだが …
だが、現代の世界で見るとアメリカにとって「白鯨とは」アルカイダか? オサマ・ビン・ラディンか? いやいや、根底にネオコンサバティズムやファンダメンタリトであるジョージ・W・ブッシュこそ白鯨か?…….やはり白鯨とは何なんだろう…..。