4/ 19th, 2010 | Author: Ken |
どうして僕はここにいるのだろう。
桜も散った。ドッペルゲンガーじゃないが自分で自分を見ていることがある。青二才でもあるまいが自分とは何かと考えてしまう。
果たして「心」というものがあるのだろうか。美意識、洞察、愛、憐憫、判断…これらは計算不可能なものである。この水とタン
パク質のジェリーみたいな脳のどこかに「心」が存在しているのだろうか。
私とは何だ?…親から受け継いだDNAと肉体をベースとして、私とは記憶である。記憶喪失になれば自分が自分で無くなるのだか
ら当然だろう。じゃ記憶とは何か?….脳のニューロンとシナプスで化学物質のキャッチャーが増え固定されると記憶になる。
また海馬では経験は核感覚器官で感知された電気信号を一時的に記憶すると説明してくれる。じゃ物質の化学変化なのか?
じゃ、考えるとは、意識とは、クオリアって何だ?
面白い仮説がある。数学者・数理物理学者ロジャー・ペンローズの「量子脳」だ。要は量子論における「重ね合わせ」から「客観的
な波動関数の収縮」(objective reduction・OR)から意識が生じると。彼は脳のニューロンにあるマイクロチューブルにおいて、
意識を支えるのに要求されるような性質を持った「OR」が起っているいると提案している。マイクロチューブルはチューブリン
(微小管)と呼ばれるタンパク質のサブユニットから構成され、チューブリンのなかで量子力学的な重ね合わせ状態が出現し、その
ままコヒーレント(波動関数の位相が揃った)な状態に保たれる。ある質量・時間・エネルギーの「しきい値」に達するまで、他の
チューブリンの波動関数を巻き込んでいく。こうしたプロセスの結果、システムが「しきい値」に到達したときに、波動関数の自己
収縮「OR」が起こる。コヒーレントな重ね合わせ状態を「前意識的プロセス(計算状態)」、波動関数の収縮を「一つの離散的な意
識的イベント」と見なし、このような「OR」が次々に起る事によって「意識の流れ」が生ずるのである。
….ほんとうにそうなのだろうか、ぼくの細胞は原子で構成され、ある秩序を持ってぼくがある。極端な「汎精神主義」をとった場合、
意識はすべての物質が持つ性質なのだろうか。それとも物質も心もマクロの観測するものがいるから存在するというのだろうか。
紛れも無く物質でできたぼく、「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」と言うが、花もぼくの身体も日々代謝し変化し、動的
平衡にある流れが生命であり、ぼくなのだろうか。 …….心から心にものを思わせて身を苦しむるわが身なりけり 西行
●「心は量子で語れるか」ロジャー・ペンローズ 中村和幸/訳 講談社:他にも「皇帝の新しい心」「心の影」林一/訳 みすず書房
●「ペンローズの〈量子脳〉理論」ロジャー・ペンローズ 竹内薫・茂木健一郎/訳・解説 ちくま学芸文庫