3/ 13th, 2014 | Author: Ken |
オンディーヌ … 名も無きセーヌの少女。
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毎日僕がその前を通りすぎる石膏店の、入り口の横に、二個のマスクがかけてあった。一つは死体収容所でとった若い溺死女の顔だが、なかなかの美人で、しかもその顔は微笑していた。自分で微笑の美しさを意識しているような虚飾の笑い方だった。マルテの手記 (新潮文庫) : リルケ/大山 定一/訳 リルケは続いてベートーヴェンのマスクに移るのだが…。これは1880年頃、セーヌ川で自殺した少女のものと言われる。「名も無きセーヌの娘」…名前はおろか年齢も身元も一切が不明である。いや、ある職人が自分の娘のライフマスクを採った、それであるとか…..。世界一美しいデスマスクと言われるその顔は、愛らしく、あいまいで、神秘的で、その細く小さな身体に悲しみに満ちた不幸を感じるのは何故なのだろう。まるで水の精オンディーヌのように….。微笑みと言えばダ・ヴィンチの「モナリザ」の神秘の微笑みが超有名だが、この少女の微かな微笑みが、かくも不思議に迫るのだろう。(僕は本物のデスマスクは見たことがないのだが、写真を参考に赤チョークでデッサンしてみた。お笑いを)20世紀初頭には複製品が拡がり、その謎めいた微笑に魅せられた文人たちの居間を飾ったという。あの「異邦人」のアルベール・カミュも所持していたそうだ。
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話は展開し1960年代に心肺蘇生法の訓練用マネキンに彼女の顔が使われ、「レスキュー・アン」と呼ばれ世界各地で何万体と製造された。よって「世界で一番キスされた顔」として、現代に蘇ったのだ。水に漂う女性ならハムレットの「オフィーリア」となるのだが、有名なラファエル前派のミレー「「オフィーリア」だろう。ずーっと前にこの絵の前で立ち尽くした覚えがある。そして、何と言ってもビル・エヴァンスとジム・ホールの「アンダーカレント・暗流」(1962)だ。まずジャケットに魅せられた。LPジャケットには、大きさ、重さ、質感、期待と想像力を刺激するものがある。音楽が一枚のディスクに込められ、人間大のアナログの暖かさがある。針を落とした時に最初に流れる音の響きと美しさ……。不思議な写真だった。トニ・フィリセルという女性フォトグラファーがファッション雑誌、ハーパーズ・バザーに載せるために撮影されたものだ。伝説の編集者、ダイアナ・ブリーランドがいた頃だろうか。あの頃はファション誌が写真アートを牽引していた。さまざまな試みと冒険とアヴァンギャルドと…。レコードの内容も素晴らしいのだが、このカバー写真の美しきインパクトがエヴァンスの叙情性と相まって、より「暗流」を名アルバムにしたのは間違いない。「暗流」とは人の心の奥底に流れ漂う「生と死」の あわいのイメージなのだろうか。
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「デスマスク」人生の最期の瞬間を型採った石膏面は「生と死」「現実と虚構」「生々しさと不気味さ」、そして本人が決して見ることができない顔のフェイク物。…僕たちの想像力はその固形化された顔に、その人の人生やドラマを見て取る故に異様な胸騒ぎを覚えるのか? 「デスマスク」に関する本や映画を思い出してみると…
●「デスマスク」岡田温司:岩波書店 ●「屍体狩り」小池寿子:白水Uブックス ●「とむらい師たち」野坂昭如(1968)そして映画のとむらい師たち( 1968) 大映/ 監督:三隅研次 主演:勝新太郎。高度成長期において人の「死」と「葬儀」が隠蔽され、荘厳さや凄みが無くなったと嘆く隠亡の息子であるデスマスク師の”ガンめん”(勝新太郎)は、葬儀のレジャー産業化を図る葬儀演出家たちと70年に迫る万博に対抗して「日本葬儀博覧会」を目論み執念を燃やす。”ガンめん”が地下から這い出すと原水爆戦争で焼け野原、その破滅的な世界を見てつぶやく….「これがほんまの葬博やー」。おどろおどろしくもシニカルなユモーアの傑作である。