4/ 1st, 2013 | Author: Ken |
僕はここにいます。… 記憶と時間
ぼくが僕であるためにはぼくが僕を認識しなければならない。つまりセルフ・アイデンティティ:自己同一性と言う訳だ。アプリオリのDNAや肉体はあるとして、ぼくが僕であるのは記憶というものがあるからだ。記憶喪失になれば自分で自分が分からなくなるから記憶が私を作っているのだ。じゃ、記憶って何なんだろ?それをいままで得て来た時間って何なんだろうか?
「記憶とういうものがあるのは分かっているのだが、あらためて聞かれると分からなくなる」….時間についてのアウグスティヌスの有名な言葉と同じである。頭の中にあるのは確かなのだが、実態はないし極めて曖昧な霞のようなもので、脳のハードウェアはタンパク質や脂質、水、神経繊維や微量の化学物質と微弱電流等々である。…つまりミートウェアだって訳だ。こんな物質で出来たものからどうして記憶、思考、意思、判断、喜怒哀楽、空想、あるいは情報が生まれるのだろうか?コンピュータのように1と0のデジタルじゃないし、どんな形で記憶を貯蔵しているのだろう? ニューロンの回路が形成されて、それが記憶になる?いやペンローズの仮説ではチューブリンの中で量子力学的な「ゆらぎ」があり、脳はその不確定性を用い、これが「判断、意志、心」であるというが … 。
ぼくたちは色々な本を読み、映像を見、音を聞き、匂いや触覚を覚え、雰囲気を感じる。それら様々な体験が一方向に記憶量を増加させている。ということは過去・現在・未来という「時間の矢」に乗っているのだ。記憶があるから過去、記憶が無いから未来なのか。ぼくたちは食物というエネルギーを取り込んでネゲントロピー資源によって生きている。これは熱力学第二法則に反している訳だが、記憶も秩序性をもたらすのだからこれもエントロピーの減少なのだろうか?
本を読んでも詩を読んでも、映画を見ても、見ている傍から忘れてしまう。もちろん言葉や映像は微かに朧にあるのだが、実態は掴めない。試験勉強みたいに無理矢理覚えても、それは記号を覚えているだけだ。ただ記憶というそれらが薄らと積み重なり人格になり、思い出や追憶という過去へ飛び、未来や空想という飛躍の糧になっている。… 僕にとって少年の頃や過去はこの脳のなかに実態無く存在している。写真や過去の道具を見る度に、それは確かに有ったのだが、しかし過去とはとっくに無くなったものだ。あたかもあるように覚えるのは脳が作り出している幻だ。記憶とは幻想にしか過ぎない。時というのも錯覚だろう。時計があるから「時」なんだ。よくビデオを逆回しすると、映像的には割れたガラス片がグラスになり過去に戻る。映像タイムマシンだ。だが待てよ、それが10秒の映像なら僕の時計では10秒の時間が過ぎて未来に行っているんだ。記憶や時間って何なんだろうか?
虚空から一粒の砂がわき出し微細な流れとなって落ちて行く。砂時計のくびれた部分が現在だ。そして静かに降り積もり降り積もり、今は過去を背負い今は未来を……。