7/ 22nd, 2010 | Author: Ken |
太陽がいっぱい
Plain Soleil ….最高の気分サ….。メロディーの美しさ故に胸が締め付けられるような哀愁と切ななさ、ニノ・ロータの音楽に美貌のトム(アラン・ドロン)。ルネ・クレマンのサスペンス満ち冴えわたる演出、あまりにも青く眩しいアンリ・ドカエの地中海と太陽・・・。
マルジェ(マリー・ラフォレ)の倦怠感と神秘性を漂わした風貌、金持ちの傲慢と尊大さフィリップ(モーリス・ロネ)。映画「太陽がいっぱい」1960年。あのころはフランス、イタリア、ヨーロッパ映画が輝いていた。ハリウッドにない洗練と皮肉、成熟した文化や芸術性とも言っていい魅力があった。小さいプロットにもそれらが散りばめられている。マルジェの論文テーマは修道士フラ・アンジェリコの絵画だ。そしてあのヨットの食事シーン。「フォークとナイフは金持ちに見せたければこう持つんだ」…..屈辱から殺意が芽生える…。
原作はパトリシア・ハイスミス「The Talented Mr. Ripley」。これにも金持ちを象徴するのにフィリップの父親がトム託す物、それはブルックス・ブラザーズの製品だ。これだけでその時代、その階級が分かる。
(余談だが同時代の軽妙さで鳴らしたヘンリー・スレッサーの短編「怪盗ルビー・マーチンスン」赤毛でドジな犯罪者なんだが、やはり宝石泥棒ではブルックス・ブラザーズのスーツにピンクのピンナップ・カラーで決めている。ウン、分かるよワカル…。貧しい日本の高校生としてはB・ブラザーズなんて遠い国の夢と憧れでしかなかった。ましてフィリップのクローゼットにあるストライプのブレザーなんてね…エスクアイヤーの世界そのものなんだから…)。
閑話休題、1999年にはマット・ディロンで「リプリー」が作られた。原作が同じというだけで別の映画だから比較するのもおかしいが、どうしても比べてしまうんだ。そりゃ、ドロンには憧れや卑しさも秘めた水も滴る美貌がある。ディロンの猿面じゃ勝負あり!
こちらの方が原作に忠実だし、時代性を考慮してモダンジャズをフィーチャー。でもね、悲しみがないんだよ。せつない青春がないんだよ。嫌らしい面が出過ぎるんだよ(アイラ・レヴィンの「死の接吻・赤い崖)1956年、1991年にはマット・ディロンでリメイク。これも最初のロバート・ワグナーの方がはるかによかったね。つまり、ラスコーリニコフやジュリアン・ソレルなんだよ観客が期待しているのは。
セオドア・ドレイサーの小説「アメリカの悲劇」の映画化、モンゴメリー・クリフトの「陽の当たる場所」。これも貧しい若者がはい上がるために…似ているね。まあ、大藪春彦の「野獣死すべし」伊達邦彦も同じ人種なんだ。時代ですよ。第二次大戦で価値観を喪失したり、また死をたくさん見てしまった人たちなんだ。年齢的にはバロウズ、ギンズバーグ、ケアラックなんかと同じビート・ゼネレーションなんだ。マイク・ハマーだってあのサディズムは戦争が作ったんじゃないかな。..ああ、話が横へそれてしまった。
お許しを。…それにしても今年の暑さはどうだ? 太陽がいっぱい過ぎるから、毎夕生ビールがいっぱいだ。