12/ 10th, 2009 | Author: Ken |
心は脳のどこにあるのか?
「生存する脳」(原題デカルトの誤り)アントニオ・ダマシオ著/田中三彦・訳 1848年夏、一人の男が事故にあった。爆破作業中、
鉄棒が左頬から前頭前野部を貫いたのである。フィネアス・P・ゲージ、彼は助かった。しかし人格が変わってしまった…。著者はデカ
ルト的「心身の分離」「脳と身体の分離」という今主流の脳科学、認知科学の暗黙の前提「唯脳主義」に対して挑戦する。そしてソマテ
ィック・マーカー仮説を唱える。「情動」「感情」脳は身体との相互作用により生きているのだ。喜び、悲しみ、恐れ、怒り、嫌悪…
それらは「前もって構造化されている」身体的状態の反応の特徴に対応している。そうした情動に身体が従っているとき、人間は感情を
持つ。ウーン、たしかに「ガラス瓶の中に浮かぶ脳」を考えると一切の身体というセンサーが無いのであるから、その脳は情動も感情も
持たない。それは生きているという自己認識があるのだろうか。また脳を全てスキャニングンしてHDやメモリーに保存できたとしたら、
ぼくがそこにいるのだろうか。…………….ぼくはなぜここにいるのだろう?
「脳と心の正体」ワイルダー・ペンフィールド著/塚田祐三・山河宏・訳 もう30年以上前の本だが、あのペンフィールドが数多くの開
頭手術の実例から導きだした心の正体を探る。人間の心とは何だろう? 一元論による最高位の神経中枢の活動と精神の働きは一つの同
じものであるし、同じものの異なった面である。心は単に脳の働きに過ぎないのか?それとも脳はハードウェアでソフトウェアとしての
心を走らすことか? 二元論の言う「脳」と「心」はそれぞれに関連し合った二つの基本要素であるとするのが正しいのか。ペンフィール
ドは語る。人間は二つの基本的な要素からなるという説明を受け入れる方が、率直ではるかに理解しやすい。と。 ……..どうも「われ思う
故にわれあり」という言葉は正しいのだろうか? それとも「われあり故にわれ思う」なのか?
ハードウェア、ソフトウェア、そして人間の脳はミートウェアだ。