12/ 23rd, 2010 | Author: Ken |
心をうつした画
「イエズス、我等とともに」イタリアのマリオ・バルベリスの画集は美しい。コンテで描かれ、装丁も簡潔であり、質素であであるがゆえに、敬虔な深情がにじみ出している。心をうつした画そのものである。
序には「神への奉仕に捧げ、同時に兄弟たる人間に奉仕することを、念願とした。彼は、福音書に書かれているイエズスの、超自然性と神秘の面だけでなく、人間の一人としての「彼」を描き出したかった。時々刻々、絶えることのない闘争、困苦、歓喜の中に、イエズスは、我々人間とと共に、我々の兄弟、友人として存し給う。その御声、その涙、その微笑は、そう考えることによって、よりよく理解される。とある。
群衆とともにあわれみ、電車の中で、貧しき人々と、みすてられた人々とともにのイエズスを描いている。直接的な表現だがセピア色のコンテのタッチが画家の純粋な心を表現して余すところがない。この画集は半世紀以上も前に貰ったものだ。わたしは信者じゃないけれどページを繰る毎に優しさと慈愛に満ちた画家の心情を感じてしまうのだ。
●「イエズス、我等とともに」画と文 マリオ・バルベリス 訳 緒方壽恵 ドン・ボスコ社 1951年
しかし必ず死すべき運命にある人間、生きる上での様々な苦悩、生をある自己存在の不安、死という絶対孤独….。それらを慰撫する存在として「神」の概念を創り出した人間、それは素晴らしい文化である。地球上に神のない文化は存在しない。しかし現代の自然科学とテクノロジーというものが「神」存在を脅かしている。この不安感…だからこそそれを超えた超自然や怪しげなことにハマるのだろうか。人間の根源的な心情が生み出した文化としての宗教、哲学としての神、それは認める。….けれど奇跡は信じない。
有神論、理神論、自然神論、不可知論、宇宙科学の人間原理も何か違和感が伴う。むしろ無神論だ。この辺は欧米のキリスト教が文化の根底にある世界と日本人の曖昧無宗教とでは根本的に違う。もちろん八百万の神は神話の類いだし新興宗教や現世利益の神々なんてとても考えられない。街はジングルベル一色である。そして大晦日は百八つの煩悩を払う除夜の鐘だ。一夜明けると「おめでとうございます」これは神道か、十日になると恵比寿さん。いやお稲荷さんも….。インターネットやハイテクが当たり前の現代、しかし人間そのものは数千年、いや五万年前から変わってはいない。この世に於けるうたかたの存在?これは尽きる事の無い人間の業なのだろうか?