5/ 3rd, 2013 | Author: Ken |
我在ル故ニ骨アリ。… 理性の座はどこにあるのか。
理性の座はどこにあるのだろうか?哲学史上で最も有名な命題と言えば「我思う故に我あり」だろう。1649年スエーデン女王クリスティーナの招きでかの地に滞在、翌年2月デカルトはストックホルムで死去した。遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年フランス・パリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移された。この時、頭蓋骨だけが盗まれスエーデンで保管されていた。….フランス革命の動乱を経て遺骨はサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移された。そして1821年にスウェーデンで発見された頭蓋骨だけはパリの人類博物館にある。… この頭蓋骨にはラテン語の四行詩が書かれている。 … ” 名高きカルテシウスのものなりし小さき頭蓋その胴体は遠く仏蘭西の地に隠されたり されどその才、あまねく地上に讃へられ その魂、今も天球に憩ふ ”…
この数奇な運命の頭蓋骨にまつわる死後の伝記がラッセル・ショート著「デカルトの骨」(青土社)だ。まあ、面白いの何の!「虎は死して皮を残す、デカルト死して骨残す」。その「方法序説」から近代科学観が始まったと言われる哲人ルネ・デカルト。精神と肉体という二元論を提唱し、「近代主義の父」とも呼ばれるが、生前だけでなく、彼の残した骨を巡って引き起こされるミステリーだ。その頭蓋骨の真偽問題、比較解剖学、骨相学、顔学に至まで、まるで二元論を象徴するかのように、精神の宿る頭蓋骨と肉体の骨とが分離した皮肉とも思える話だ。その実体二元論は理性を正しく導き、知識の中に真理をを探究するための「方法序説」岩波文庫(たった500円)だ。この世界には、肉体、物質といった物理的実体とに、形は見えないが、魂、霊魂、自我、精神、思考、意識などの心的実体がある。デカルトの哲学は「精神」と「身体」を分けるものであり、機械論的世界観という側面がある。これは当時支配的だった神学的な世界観に対し、力学的な法則の支配する客観的世界観を展開したもので、ガリレオやニュートンと並んで近代科学の発展にパラダイム・シフトを起こしたのだ。でも一概に「二元論」と割り切れるのだろうか? 彼には神の存在という絶対的背景があるから神・精神・その延長の身体という「三元論」じゃないだろうか。
このデカルト主義に対して70年代後半から80年代にかけてニューエイジ・サイエンシストが盛んに二元論・還元論を攻撃していた。A・ケストラーの「ホロン」に見るホーリズムやF・カプラの東洋思想との融合を説く「タオ自然学」など一世を風靡した。だがね、ライアル・ワトソン(捏造や欺瞞がいっぱいのトンデモ本)など、胡乱な説がカルト主義になり、時代とともに消えていった。でも人間は胡乱神秘を好むもので未だにホメオパシーや「百匹目の猿現象」などを信用している人がいるから気をつけたいものだ。
あのアインシュタインの1905年は「奇跡の年」と言われる。「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。1907年にはE = mc2を発表、1915年には「一般相対性論」を完成。1917年には一般読者用に数式をほとんど使わずに「わが相対性理論」を著した。とても分かりやすく、これこそトマス・クーンの言うパラダイム・シフトだ。
現在、亡霊となってもなおデカルトは裁かれている。「デカルトなんかいらない?」ギタ・ペシス・パステルナーク著:産業図書。原題は「デカルトを火あぶりにしなければならないのか?」と過激だが、内容は現代科学を巡っての対話である。散逸構造のプリゴジンやファイヤーベントなど、錚々たる科学者が登場。…..そして「精神と物資」エルヴィン・シュレーディンガー(工作舎)、ボーアやハイゼンベルグらと量子力学の基本方程式を作った偉大なる科学者だ。1956年にこの様な講話をしていたとは…..。でも、いま読み直してみたら「人間原理」のような記述が多いですね。