6/ 3rd, 2010 | Author: Ken |
時と流れ。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」方丈記:鴨長明
果てしない時の流れのなかで、はかない人の命と崩壊してゆく時代、大火事、旋風、地震、都遷、飢饉、孤独、老い、自問……。
方丈記は時間の作品だ。移ろい行く時を捉えた名文中の名文である。できれば音読し声に出して読めば和漢混淆文のリズムに乗り一気に読み上げられる。言葉を極端に削ぎ取り凝結し時の流れのなかに置く。記憶というドキュメンタリーが蘇り人生という時間が見えてくるのだ。
長明の生涯は不遇だったという。ある才と眼を持って生まれたものは器用な故に恵まれないものである。見える以上何をさせても人並み以上にできてしまう器用貧乏さ。旺盛な好奇心と行動、世間から距離を置きながらどこかで繋がりを求める俗物性。己を見据える己がいる分離した精神による客観性と冷笑、それが金や出世から外れたアウトサイダー的生き方にさせてしまうのである。生き方が下手な男の悲哀である。
また長明は絃楽の達人であったという。音曲とは時間と空間の芸である。紡ぎ出される拍と節と調が次々と生まれては消えていき、その流れに感情が喚起され、音の美の漂いを味わうのだ。音楽が時間芸術と言われる所以である。
秘曲「流泉・啄木」とはどんな曲だったのだろう。ジャズのエリック・ドルフィーが死の間際に吹き込んだ「ラスト・デイト」。そのなかに彼の肉声が聞こえる。「音楽は終わると空中に消えてしまう。もう二度と取り戻すことはできない」と…。過ぎ去ったものは二度と帰ってはこないのだ。
生まれ、生き、去る、生の喜びと際限のない孤独、死とは究極の孤独だから不安なのだ。それを無常というのだろうか。
….知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか
目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。
のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。
枕頭の書とまでは言わないが毎夜寝る前に数章を読む。仕事とはいえ方丈ならぬ小さな事務所、キーボードとディスプレイの前で日がな過ごしている。その間にも時は流れて行く。三尺四方が私の人生の大半なのだが….。
●「方丈記」鴨長明:岩波文庫 ●「方丈記私記」堀田善衛:ちくま文庫 ●「方丈記を読む」馬場あき子・松田修:講談社