6/ 9th, 2011 | Author: Ken |
月は人が見ていないとき存在するのか。
「世の中を 何に例えん 水鳥の. 嘴振る露に 宿る月影」道元禅師
「この世ばはわれ思う故われ在りき去るる後にも月やあるらん」詠み人知らず
移り行く世の中、その中で苦悶する人間、常なるものは何も無く露のようにはかなくいものである。はかない露命の中にも月の光が映っている。いわば全宇宙が露のなかに凝縮されたかのように。
そこでだ。私が見ていないときに月はあるのか。あったりまえじゃん!月は昔からあるに決まっている。….本当にそうだろうか?量子力学によると、われわれが常識的に信じてきた自然像と古典物理学とは非常に違った形相を見せる。いったい「実在」とは何なのだ。
1)我々の外に我々とは別に客観という独立したものがある。
2)そのものは常に決まった属性を持っている。
3)それを我々は認識することができる。
しかし2)は量子力学では否定される。不確定性関係では粒子の位置を測定すれば運動量は不確定になる。現存在と現象の背後にはそれを統一する「本質」が存在し、それは複素数を使ってしか記述できない。「空にかかる月は人が見ていなくても存在するのか? マクロの物体は厳密には近似値でしか存在しない。近似でしかありえない物質は量子力学の性質を示すはずだ。
宇宙、世の中は量子力学の数学という形而上学的記述でしか現せないのだろうか。「それが客観的存在性と認識可能性を持つ」物質ならば必ず運動性を持つ。物質がなければ運動はなく運動しない物質はない。「本質の運動」すなわち波動関数の時間的変化か?これは難しい問題だ。 ジョン・ホィーラーは、「どんな素粒子の現象も人が観察してこそ初めて本物の現象になる」と述べた。デビット・マーミンは、それをこう言い換えた。「誰も見ていないなら、そこに月なんて存在しない」と。 アインシュタインは、インドの詩人・タゴールに会ったときにこう聞いた。「私が見ていないとき、月は存在しないのですか?」「その通りです」とタゴールは答えた。月について、また存在するという時「その事実があったという信念が、それぞれの人の頭の中に存在する」ということになるのではないのか。 「誰もいない森の中で木が倒れたとき、音はしたのかしなかったのか」というのと同じだ。
過去もそうだ。過去はどこかに存在するわけではなくて、記憶の形でしかそれぞれの頭の中にあるだけだ。 ぼくがこの世を去ったら見る事も観察することもできないわけだから「存在」しないのだ。……..「認識」とは「実在」とは何なんだろう。
その「本質」がいかに奇妙なもので受け入れ難くとも、その現象を生じるのが量子力学である。…月は本当にあるのだろうか。
●「量子力学の反乱」町田茂/学習研究社 ●「量子力学入門」並木美喜雄/岩波新書 ●「0と1から意識は生まれるか」橋本淳一郎/早川書房 ●「量子力学の解釈問題」コリン・ブルース:和田純夫・訳/早川書房、他を参考にさせてもらいました。