7/ 18th, 2011 | Author: Ken |
果てしなき道 ・ “Every Step of the Way”
カルロス・サンタナを知ったのは映画「ウッドストック」だった。ぼくは生意気にもそれ以前にモダンジャズの洗礼を受けていたからロックはどうも…(ほらいるでしょう、ジャズの方が知的で音楽性が云々、ポップスを小馬鹿にする輩。ビートルズなんかヘンッ!
その手合いだったのですね、お恥ずかしい)…だった。ファッションはスクエアなトラッドにはまっていたからイージー(カジュアルという言葉がまだ無かった)な格好やパンタロン(ラッパズボン・懐かしいね)、ロングヘヤー、トンボメガネは好きじゃなかった。でも同時代の空気を吸っていたからこの映画に新しい時代を感じたものだ(マルチスクリーンによる映像が典型だった)。あの頃のロックの単調な8ビートは退屈だったし、妙なメッセージ性が鼻につき、また和製フォークなんぞに喜ぶ同年齢の奴らが?だったからだ。 まあ、ジミー・ヘンドリックスも何か嫌みに感じたしジャニス・ジョプリンの凄絶なまでの狂乱ぶりは面白かったけれど…..。
サンタナはサウンドが厚く複合リズム、即興性、楽器中心の音楽であり、ジャズ的で何か他とは違っていた。そして「天の守護神」だ。まずジャケットに参った。マイルス・デイビスの「ビィチェズ・ブリュー」を描いたアブドゥル・マティ・クラーワインだ。その超現実の不思議な絵に吸い込まれそうになった。もちろん”ブラック・マジック・ウーマン”は率直に喜んだヨ。
60年後半から70年代初期はエネルギーに満ちた混沌、混乱の時代だった。泥沼のヴェトナム戦争、反戦を契機にニューエイジが盛んになり、これが東洋思想・瞑想に繋がり、サンタナもシュリ・チンモイの宗教への傾倒していく。アメリカの空港や街に黄色い衣のクリシュナがたくさんいたし、ヒッピーやコミューンがムーブメントだった。。日本でもその影響によるフーテンやカウンターカルチャー、アングラなんぞが大流行だった。そしてあの陰惨で猟奇的な連合赤軍事件があり、映画「エクソシスト」73年、「オーメン」76年、オカルトやニューエイジもあの時代だったからこそ流行ったのだ。現代文明を享受しながらその矛盾に絶望し、一部の人々はスーパーナチュラルに傾倒していった…。マイルスを始めジャズも面妖なオカルト系のタイトルが多かった。リンボーだとかソーサラーとか。
1973年にヴォーカルにレオン・トーマスを迎えて初来日。それからだサンタナが来日する度にライブに行った。「哀愁のヨーロッパ」の泣きギター、うねるようなギターに「セクシー」と言った女性もいた。あのリズムに身を委ねる快感、サンタナ・サウンドに酔ったのだ。73年ジョン・マクラフリンとの「魂の兄弟たち」…コルトレーンの至上の愛を、76年「アミーゴ」、まあぼくも70年代末までは新譜やライブにつきあったのだが、時代が替わり、いつのまにか聴かなくなってしまった。
そうだ、1981年復帰したマイルス・デイビスを聴いた。大阪扇町プールを干した特設ステージだ。足を引きずりながらのショボいサウ
ンド….痛々しかった。ああジャズも時代も終わったと。サンタナが傾倒していたマイルスも亡くなり…….。それからサンタナの健在を知ったのがバルセロナ・オリンピックの時だ。パコ・デ・ルシアとサンタナ(ドミンゴとフリオ・イグレシアスの舞台もあった)。
いまyou tubuで見るとあの頃の微かに熱を持った残り香が込み上げてくる。 じゃ、サンタナ最高作は何だろう? ぼくは1972年に発表された「キャラバンサライ」だ。インストゥルメンタル中心で、よりフュージョン化し複雑で抽象性へと進んでいく。マイルスやジャズへの拘泥、スピリッチャルへの傾倒、多様な打楽器陣の複合リズム、キーボード、激しい息遣い、これぞサンタナサウンドだ。
音楽とは時代そのものを呼吸しているのだ。ぼくも歳を喰ったせいか、悔しいがあの時代に聴いた熱さは二度と還ってこない。