1/ 13th, 2011 | Author: Ken |
百億の昼と千億の夜
寄せてはかえし寄せてはかえし かえしては寄せる波の音は何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた…。
時というどうしようもない存在。それがあらゆるもの宇宙さえもすり減らし崩壊させてゆく。絶頂を極めた科学文明も宇宙都市も星間技術もあまりにも儚いものであった。ある種族はおのれを一片のデータとして乗り越えようとした(人を、DNAを、脳を、1000億のニューロンを、記憶を、それらをスキャニングしシュミレートすると10の17乗桁の二進法メモリーを必要とするというが……)。
デジタルの夢? これも生物か? これが生きていると言えるのか? 幸せなのか? 人間なのか? また仏教でいう三千大千世界、弥勒は56億7000万年後この世に下生し衆生をことごとく救済すると言うのだが….。その時は山や谷もなく鏡のように平坦であるという。これはエントロピーの無限の増大、すなわち宇宙の熱的死なのか。…..そして無窮の空間も絶対ではあり得ない。いや宇宙は永遠に生滅を繰り返し、それを司るが『シ』であると。滅ぼすもの『シ』と抗う「阿修羅王」。絶望という言葉さえ虚しく響く終わりの無い戦いに挑み続けるのだ。….
一切は流転し縁起即ち相対的関係の変化だけが存在を決定させる。固定的実体は無く変転そのものが実体であり相なのだ。
自我即空、色即是空なのだ。…おのれを空しゅうするところに思惟はあっても感覚はない、感覚のないところに認識はない。「だが解らぬ、すでに肉体に帰着するはなく、しかもなお眼前の非情は何ぞ!」。
….あの天平時代に名もなき仏師が作った興福寺の阿修羅像、少年を思わせる顔貌、その憂いをおびた眉、彼の眼は何を見つめているのだろうか。永劫の時の流れの向こうに存在するかもしれない何かのおぼろげな姿を見つめているのだろうか…….。
……『シ』はどこにあるのか、真の超越にいたる道はいったいどこにあるのか。とつぜんはげしい喪失感があしゅらおうをおそった。
進むもしりぞくもこれから先は一人だった。すでに還る道もなくあらたな百億の千億の月日があしゅらおうの前にあるだけだった。
●「百億の昼と千億の夜」光瀬龍の描く宇宙叙事詩は壮大だ。漠々渺々の時空を硬質の文体が構築していく。阿修羅王、悉達多太子、弥勒、ナザレのイエス、そしてプラトン(おりおなえ)が繰り広げる世界観は、東洋哲学的でありながら、世の東西を越え何かジョン・ミルトンの「失楽園」を彷彿させる。神々の超次元宇宙を統治するする創造神ヤハウェに反逆するルシファー。しかし反乱軍は敗れルシファーは宇宙の果ての星たちの墓場(光さえ失われたというからブラックホールか?)に堕される。漆黒の闇を漂いながら新たな叛乱を目論むのだ。そしてルシファーの人間に対する嫉妬、謀略により人間は楽園追放に至る。しかし人間はその罪を甘受し楽園を去る。
….それ以来、知恵、知識を持った人間、ここ百年足らずの間にも、おのれすら、人類すら絶滅させれる核兵器を作り上げた。同類への不信のために?おのれの過信のために?知恵は知識のなかに埋没し、絶対悪である核兵器すら誇示しているのだ。…..愚かさの極みである。