5/ 30th, 2014 | Author: Ken |
胡乱な話。
最近NHKで「超常現象」や「超心理学」の番組が目に付く。エンターティンメントしては面白いが、真面目に取り上げるほどのテーマなのだろうか。一応、科学を装ってはいるが限りなく「疑似」に属するものだ。SFとしての「超常現象」や「超心理学」はイマジネーションを刺激するし、その不可思議で奇妙な感覚に浸りたいために映像、映画、小説、研究書などをむさぼるのだが…..。現実に返ってみれば「あったらいいな」それくらいで「馬鹿らしいこと」この上ない。胡乱なのである。限りなく疑似科学である。ただ人間は心理の複合体であり「信じる」「信じない」が同居し曖昧模糊としたものだ。DNAか?生い立ち、環境か?様々な要因はあろうが「神」「心霊」「魂」「スピリチャル」… 否定はしてみてもどこかにアプリオリな畏怖や文化としての存在を感じずにはいられない自分がある。
人間とは厄介なものだ…。「超心理学」を信じる人は多いし、もしかしたら人間は本能としてそのように出来ているのかも知れない。それら「超常現象」を否定するものは少数派である。コミュニケーションのために顔では笑っているが内心は腹立たしいのである。そりゃあればどんなに!だから片っ端からそれ系の本を読んでみたのだが、読むほどに阿呆らしい。
真面目な本はないのかと探した。その昔の福来友吉博士の御船千鶴子事件を始め、宮城 音弥の「神秘の世界 超心理学入門」 岩波新書( 1961)これも心理学という「夢」「精神分析」などという「疑似科学」に近いものであった。そして、大槻義彦、茂木健一郎といったタレントによる著作は軽いを通り越して安っぽいことこの上ない。そう、それは科学者を装った芸人である。あの、コリン・ウィルソンも膨大な著作の背景には「そうあればという期待値」が高すぎる。ブライアン・ジョゼフソン「科学は心霊現象をいかにとらえるか」も、ノーベル賞科学者だって「生」「性」「人間関係」「怒り」「悲しみ」などの俗っぽいことに心を悩ますし、敬虔な宗教信者だって沢山いるのだ。それこそが人間であって矛盾の固まりなのだ。米ソ冷戦の時代には「スターゲート計画」という超能力諜報研究を米軍が行っていたという。何たるナンセンス!78年には「フューリー」なんてスターゲート計画に題材を取った映画もあった。そこで新型ソ連原潜を言い当てたと主張するジョー・マクモニーグルのリモート・ビューイング(遠隔透視)があるなら最近の「マレーシア航空の行方不明事件」なぞ一撃のはずなのに……。また、サイコロや○×☆などのゼナーカードを使い、統計学によって、それが起こる確率は何十万分の1だから、ある!と言われても、宝くじに当たる人も、隕石に当たった人だっているのだ。あなたの素である受精卵だって。そう、それも偶然の一部でしかない。
「超心理学」の著者、石川幹人氏は「科学的に説明できないものは信用しない」という態度は残念だ。「信用しない」という信念自体が非科学的だからだ。と主張するが、本を読むと「あるという期待」が文章の隅々に表れている。そこで、「利己的な遺伝子」ドーキンス博士にご登場願おう。彼は言う「無神論者は誇りを持つべきだ、卑屈になる必要はない、なぜなら無神論は健全で独立した精神の証拠だからだ」無神論を無超能力という言葉に置き換えてみればいい。世の中には「水の記憶」「水にありがとう」「ホメオパシー」「ヒーリング」「水子霊」「自己啓発」「EM菌」「波動」などといった言葉が蔓延している。また、それを信じて実践している人も多い。一体、人間とは知恵を持ったが故に「幸せと不幸」を背負った存在になってしまったのか。これって原罪なのだろうか?