9/ 12th, 2013 | Author: Ken |
華氏451度
火の色は愉しかった。ものが燃えつき、黒い色に変わっていくのを見るのは、格別の愉しみだった。……. 何十年ぶりに何度目かの「華氏451度」を読んでみた。時代が何か画一化され、ネットだスマホだゲームだ。「風立ちぬ」だ、「倍返しだ!」「あまちゃん」だ「東京オリンピック」だ…..。先日も「花は咲く」が流れ始めたのでTVを消すと、愚息が「オヤジ、人前ではせん方がええで」と抜かしやがった。電車の中で小難しそうな本を開いたり、ぼくはこんな本を読んでいますとは言い出せない。だからブログで吐き出しているんだ。別に「花は咲く」が悪いんじゃない。そのお手軽さと、”いかにも”が気持ち悪いんだ。ほら、”音楽エイドとか ”愛は地球を救う”なんて…..言葉だけでご勘弁をと言いたくなる。それを毛嫌いする奴は反社会人だ!のイメージ。………ぼくだって「阪神淡路大震災」で相当な….。大阪市長「中年H」の言動、「ヘイトスピーチ」の醜悪さ、嗚呼!「腹立ちぬ、いざ怒りめやも」だ。
本を持っても読んでもいけない社会。国旗や国家を強要する社会。権力が威張る社会。「自分」という眼を閉じる社会….。華氏451度(摂氏233度)は紙の燃えはじめる温度である。本書は、Fahrenheit 451(1953)はレイ・ブラッドヴェリのベストスリーに入るのではないだろうか。当時のアメリカに吹き荒れていたマッカーシズム、赤狩り、その忌まわしさと恐怖が書かせたのだろう。
「禁書」権力が有害と見做した書籍、いや、国民に知恵と理性による疑問を持たせないために政府が仕組んだ陰謀である。かって歴史には度々行われ、特にナチによる1933年の映像は有名である。これは記録フィルムで見ることはできるが「インディ・ジョーンズ」でもこのシーンを再現していた。火炎の持つ異様な興奮と高揚、ぼくもあの場にいたら思わずジーク・ハイル!と言ったかも………。
小説ではサラマンダー(火蜥蜴)のシンボルを戴く焚書官(ファイアーマン・fireman)である。蔵書や読書が反社会的であり、焚書官は本を火焔放射器で焼き尽くすのが任務だ。密告が奨励される相互監視社会である。家庭で人々は3DTVを彷彿させる映像に浸り「家族」と呼ばれる番組が主婦を虜にしている(あの….流ドラマを思い出しますね)。耳には海の貝と呼ばれるイヤホーンを四六時中差し込んで….。権力者は国民が馬鹿であるほど好都合なのだ。知らず、聞かず、語らず、考えず、自由を求めず、与えられたものだけで満足する愚民こそが必要なのだ。ディストピア(反ユートピア)の近未来を描いている。権力者が作った虚妄の番組で、思考停止にさせ、 戦争という危機を煽る社会なのだ。かって、ハックスリーの「素晴らしき新世界」があった。オーウェルの「1984」があった。日本でも現実として治安維持法があり思想的書物を持つ人たちを特高や憲兵が残酷に取り締まった。戦争中には「大本営発表」という捏造で人々を煽りながら、書
物による個人の直感、洞察力、認識力の高まりを抑えたのだ。非国民!と叫んでね。
そうそう、TVが始まった頃に「一億総白痴化」という言葉が流行りましたね。いまならネットで「七十億総白痴化」か!…..使い方次第だと思うけど。北朝鮮や中国ではネットを規制しているけれど….。「私たちにはキングもエンペラーもいらない。…..緩やかなアクセスと動いているコードがあるだけだ」。
「書物」とは知的財産なのだ。活字(いまはフォントといいますね)を文法というルールに従って並べれば文章というものになり、そこには想像力という映像(クオリア)を見る。なぜ記号の羅列から「喜び、好奇心、泣く、笑う、同情、怒り」などという情動が喚起されるのだろう(ぼくは古いのかモニターで見ても頭に残らない。消した瞬間に大半は忘れる。想像や感情が湧かないのだ。なぜなのだろう?)。「数学」は物理現象を記号で書き表し、「音楽」は楽譜という記号から美と快感と情動が起こり、「映像」は視覚記録と幻影を作りだした。いまや、すべてはビットという単位で作られ、データという電子で構成されている。
このウェブ時代に入りPCや携帯電話もたかがここ十数年のことなのだ。スマートフォンは携帯PCだし、どこまで行くのだろう。面白いことに、かって勤勉のシンボルであった二宮金次郎の銅像ね。背には薪を背負い、寸暇を惜しんで読書している。〜手本は二宮金次郎〜だ。でも街を歩いたらバックパックを背負いスマホを見ながら歩く人々が多い。あれっ?二宮金次郎と同じ格好だ。