4/ 16th, 2012 | Author: Ken |
深淵を覗く。
こどもの頃、鏡を床に置いて覗き込んだり、表や森のなかで地面に置いてみた事がある。日常とは違う異次元に迷い込んだ気がしたものだ。古池や古井戸を覗くのも奇妙な不安感に襲われる。底のほうの暗い水面から私を見つめる者がいる。たしかに自分の顔が写っているのだが異界から視られているような、苛立たしいというか恐怖さへ憶えるのだ。だから古井戸にまつわる恐怖譚や小泉八雲の「茶碗の中」に言い知れぬ不気味さを感じるのだろう。いや、それは偽りだらけの自我と人生の自分を見据えるもう一人の自分なのだろうか?私とは脳の情報である。脳の情報の現れが私であるなら、じゃ、私という脳は、自分自身を理解しているのだろうか?脳が総ての情報を含んでいるという前提に立てば、脳は私を理解しているのだろうか?ああ、ややこしくなって来た。無限連鎖に陥ってまるで合わせ鏡の奥を覗いているようだ。
我思う、故に我あり・ego cogito, ergo sum。デカルトの有名な言葉だ。皮肉屋のA・ビアスは「我思うと我思う、故に我ありと我思う」と言った。いや唯物論者なら「我ある、故に我思うと」言うのだろうか。スピノザは「我は思惟しつつ存在する・Ego sum cogitans.」と。小難しく言うなら「観念に対応する実在とはいかなるものか」となるのであろう。私が普段見て感じる実在とは本当にあるのだろうか? … すべては心に映る幻影、または脳の中で作り上げた虚像なのではないか。私が見ているものと他人が見ているものは果たして同じものだろうか? … そう、夢を見ている時は明らかに実在であるのに、目覚めれば幻覚である。(といってフロイト心理学、あれ疑似科学じゃ無いの? 何がエディプス・コンプレックスだ。何が抑圧された性だ。勝手なたわごとじゃないか!)。と、いうことは「心」というものだけがあり、実在とは幻想であり客観的な存在ではない。
…これは唯識論だ。東洋の知恵は数千年ほど前からそれを探求してきた。唯識論によると個人にとってのあらゆる存在が、ただ、八種類の識によって成り立ち、五種の感覚、眼識・視覚、耳識・聴覚、鼻識・嗅覚、舌識・味覚、身識・触覚、意識、2層の無意識である未那識、その根本である阿頼那識と説く。
あらゆる諸存在が個人的の認識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、即ち「空」であり表彰・イメージに過ぎない。色即是空、空即是色だ。この世の色(存在・物質)は、ただ心的作用のみで成り立っていると…「意識が諸存在を規定する」とするのだ。でも意識を作り出しているのは私だろう。
それは還元的には原子 → 素粒子→ クォークである。物質が私と心を作り出しているのだが。
…「空」ね。でも旧約聖書で有名なヴァニタス・ヴァニタートゥム・Vanitas vanitatum omnia vanitas.「空は空なるかな、すべては空しい」の空ではない。これは死に至る人生の「空」であり、唯識の「空」は、宇宙の摂理の根本の「空」を説く。もっと理性的で客観視した「空」である。…そうして現代科学は量子論を生み出した。真空とは「何もない」状態ではなく、常に電子と陽電子の仮想粒子が対生成と対生滅を起こしていると…。真空はエネルギーに充ち満ちているのだと。まあ、ディラックの海やヒッグスの場理論までというと私にはとても説明できないが…。
だからといって「科学と唯識」は同じであると、こんな本が多いが、これは疑似科学だし、ニューサイエンスやスピリチャルになってしまう。
●「フロイト先生の嘘」ロルフ・デーゲン著/赤根 洋子:訳・文春文庫…よくぞ言ってくれました。どっちでもいい学説とたわごとの夢分析、いまだにその信望者の偉い先生が疑似科学を垂れ流している….。痛快な本です(痴の欺瞞:アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著: 岩波書店。これも痛快極まる)。
●「唯識入門講座」横山紘一:著/大法輪閣 ●「わが心の構造」(唯識三十頌 に学ぶ) 横山紘一:著/ 春秋社…非常に分かりやすい。
●「心の仕組み」著者:スティーヴン・ピンカー /山下 篤子 訳 : NHK出版….進化的適応の結果として人間は心という器官システムを
持った。よって人間の心の思考は、自らの認知的能力の働きについての本質を認知できない….。
●「豊穣の海」三島由紀夫/大乗仏教の唯識を根底に緻密華麗な文章で輪廻転生を描く。「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の四刊に三島美学が…天人とて五衰の腐臭が生じ…三島も高齢化が恐かったのだ。だから…。