2/ 25th, 2013 | Author: Ken |
飛行するデザイン…震える空
見よ、紅蓮に染まる帝都上空を高速で翔る異形の翼があった…震電だ!B29のガナーたちも前後が逆になって迫る姿には戸惑った…。
if もしも? 震電が実用化されていたら … その先進的形態にはいかにも高性能・異様の美という魔性の力がある。第二次大戦末期、従来のレシプロ機の限界が見え始めた。エンジンも2000〜2500馬力を超え、これ以上の出力は多気筒化や過給器の改良などをもってしても困難だった。いかに突破するか、設計者は画期的な性能を機体の形態に求めた。各国は様々な試作機を飛行させ、日本海軍も戦争の激化に伴い高々度で侵入する超重爆B29を阻止するために強力な火器を搭載、上昇力と高速の局地戦闘機を求めた。それら数多くの試作機のなかで、一際異彩を放っているのが「J7W1震電」だ。基本計画は海軍空技廠、詳細設計以降は九州飛行機が担当、前翼(カナード)またエンテなどと呼ばれる形式である。小さな前翼は開閉式スロット翼。重心位置のため主翼は前縁で20度の後退角を持つ層流翼。降着装置は前輪式、装備は小さい機体にぎっしりとが詰め込まれ、後部のエンジンからプロペラまでの延長軸、エンジンの冷却という問題を抱えながらも、30ミリ砲4丁という重武装、速度は400ノット(750km/h)を狙っていた。
海軍航空技術廠の鶴野正敬少佐(当時大尉)昭和18年から「前翼機」風洞実験を繰り返し、実証するためにモーターグライダー・MXY6前翼型滑空機でテスト、そして「十八試局地戦闘機」として試作が発令された。「震電」は昭和20年6月に試作機完成、同年8月に数度の試験飛行を行い終戦。ついに実戦には間に合わなかった。その貴重な飛行フィルムが現存しYou Tubeで見る事ができる。VDM 定速6翅(量産型では4翅に予定)推進式プロペラ。そのために緊急脱出の際はハブ内に火薬爆破式のプロペラ飛散装置を備える予定であった。生産性を考慮して構造・工法も合理性を徹底、厚板応力外皮構造、プレス機による外板成型、スポット溶接などを採用した。戦争という極限の時代に各国とも同じような形態を模索したが、成功した機体はほとんど無かった。
もうジェット機の時代が始まっていたのだ。仮に完成し量産させていたとしても空襲で疲弊した工業力、素人による生産技術力では到底、戦力にはならなかっただろう。そして700kmを優に超すP51Hマスタング、P47N、グラマンF8Fベアキャット、P80ジェットまで現れていたのだから…「震電」は夢にしか過ぎなかった。戦争による情報が遮断の時代に技術者たちが必死で考えたことは、不思議にも各国による多地域同時発生という、発想と思考が同調するのは不思議なことだ。…人間、考えることは似たようなものだ。