6/ 18th, 2019 | Author: Ken |
クラナッハとヴィオニッチ写本の謎?
Lucas Cranach – Voynich Manuscript
ルーカス・クラナッハ展で「ディアナとアクタイオン」を見ていると「ヴォイニッチ手稿」と言う奇書を思いだした。1500年頃の羊皮紙に描かれた絵と文字は何度も解読を試みたが、いまもって謎のままである。暗号か?人工言語か?錬金術か?薬草学か?・・・あの珍奇なコレクションで有名なルドルフ二世が所持していたこともある。・・・裸婦が泉で戯れている図が共通している。またボッシュの「悦楽の園」とも思える。何とも楽しそうですね。温泉を彷彿させるじゃありませんか。・・・澁澤龍彦の世界ですね。
女神ディアナ(アルテミス・ギリシャ神話)が侍女たちと水浴をしていたら、狩りに来たアクティオンがそれを見てしまい、怒ったディアナによって牡鹿の姿に変えら、アクティオンは自分が連れてきた猟犬に食い殺される、というギリシャ/ローマ神話のエピソードを描いています。クラナッハは何か均衡を欠いたフィギュアを描き、そこが独特の雰囲気を作っていますね。
ルーカス・クラナッハ展で一度会いたいと思っていたヴィーナスにお目にかかった。えっ、こんなに小さいの?ちょうどA4くらいか。対をなすルクレッチアもあった。黒を背景に緻密な陶磁器のような肌、肉の薄い何かアンバランスな肉体、申し訳程度の透明な薄物を纏い、少し吊り目で婉然と微笑む姿が妖しげなエロチシズムをかもし出す・・・。同時代、イタリアの陽光に輝くテッツィアーノやジョルジョーネの完璧な肉体と比べると、何か違和感に捉えられるのだ。やはり北方の光はドイツルネサンスに影響しているのだろうか。明るいイタリアの陽光と北方のドイツの薄光とは画家の性格まで変えるかも知れませんね。
2/ 16th, 2017 | Author: Ken |
画狂人、北斎。
北斎神奈川沖浪裏
「すみだ北斎美術館」に行った。北斎のほとんどは版画だから美術館の人ごみで見るより高品質の画集で間近に見る方がいい。何と言っても、遠近法を駆使したそのレイアウトに唖然としてしまう。西欧ではルネサンス頃に始まった遠近法。日本人も知らなかった訳じゃないと思う。しかし、それが取り入れられたのは1740年頃の奥村政信による「芝居狂言浮絵根元」の舞台絵だ。それから北斎に至って極端なまでも遠近法が用いられた。「神奈川沖浪裏」は超ディープフォーカスの広角レンズみたいだ。そして遠くの富岳と手前の波の三角の相似形の極端な比較。また円や半円との対比。北斎はレイアウトを計算し尽くしているデザイナーだ。そして、北斎漫画に於けるデッサンの確かさ!あくまで人間を見据えたユーモアと筆力、90歳で死を間近に「天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし」と語ったとか。まさに画狂人、いやイラストレーターの至高である。世界でもこんな人ちょっといない!ゴヤも晩年に(1746〜1828)Aún aprendo「俺はまだ学ぶぞ!」と。ミケランジェロも(1475〜1564)Ancora imparo 「私はまだ学んでいる」と。北斎(1760〜1849)も「あと10年、いや5年!」と。ぼくも痛切にそうありたい!
3/ 22nd, 2016 | Author: Ken |
光と影のドラマ。
カラヴァッジョ
上野の「ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ
墓碑銘には「自然そのもの以外に比肩しうるもののいない
素晴しい時間を過ごせた。カラヴァッジョ、本当に凄い。
10/ 3rd, 2015 | Author: Ken |
The Lake みずうみ
波がぼくを、この世から、空飛ぶ鳥から、砂浜に遊ぶ子供たちから、岸辺に立つ僕の母から切り離した。・・・
・・・それは9月。夏の終わり。理由もなく悲しみが湧き上がってくる時期だった。
あの夏、湖で遊んだ初恋の少女タリィ、タリィの遺体は見つからなかった。「タリィ!戻っておいで、タリィ!」
ぼくは二人でしたように城をつくった。「タリィ、ぼくの声が聞こえたら、お城の半分を作るんだよ」。
それから10年が過ぎた。ぼくはハニムーンでこのみずうみに来た。その旅行も終わりに近づいた日、救命員が灰色の袋を抱いて
ボートからおりたった。「こんなおかしなことははじめてだ、死んでから十年にもなる」。
私は一人きりで渚を歩いていた。その水際に半分完成しただけの城が・・・。湖からちいさな足跡が・・・。
「残りはぼくが作ってあげるよ」。・・・私は砂浜にあがった。そこには・・・
レイ・ブラッドベリ「みずうみ」/ウィアードテールズ誌1944:5 ”Dark Carnival”
彼の作品のなかでもいちばんに好きな一遍だ。何回読んだだろうか。初めては’60年代のMens’ Club誌だったと思う。
6/ 13th, 2015 | Author: Ken |
霧
8/ 13th, 2014 | Author: Ken |
れくいえむ
8/ 8th, 2014 | Author: Ken |
遠い日の戦争、そして戦争画。
むろん、わたしは戦争を知らない。ただ子どもの頃、大人たちからたくさんの話を聞いた。子ども用の本も無い時代だから大人向けのカストリ雑誌を含め大量の実録ものを読んだ。貧しく飢えた世代には勇ましくも悲惨で、残酷で、恐ろしく、映画にしても学校から引率されて授業として鑑賞させられた。映画というものを初めて見たのが「きけわだつみの声」であった。砲弾が炸裂する丘に死した兵たちが幽鬼のように立ち上がるラストには戦慄を覚えた。そして「原爆の子」「ヒロシマ」「二十四の瞳」これらも学校から見にいったのだ。また「人間魚雷回天」「戦艦大和」「ひめゆりの塔」「沖縄健児隊」後には「雲ながるる果てに」「雲の墓標」など、昭和30年代はまだ戦争の影を大きく引き摺っていたのだ。
戦争が覆い尽くした時代、作家も画家たちも前線に赴き従軍画家として多くの絵を描いた。それらは戦後GHQによって没収されアメリカ本国に送られ、1970年に「無期限貸与」として日本に帰り、東京竹橋にある「東京国立近代美術館」に保管されている。日本画・洋画あわせ153点の戦争画はすべてが公開されていない。前々から見たいと願望していたのだがその機会がなかった。
この封印されていた絵画を初めて見たのは京都だった。藤田嗣治の「アッツ島玉砕」。実際にはこのような白兵戦があったわけではない。からみ合いうねり地獄草紙のような兵士の群れ、昏く陰惨な死闘、歯を剥き出して銃剣を揮う兵士、ここにはとても「玉砕」という美しい響きはない。また「サイパン島同胞臣節を全うす」は後にバンザイクリフと呼ばれるマッピ岬に追いつめられた日本軍と民間人の最後のシーンである。鬼哭啾々というかそこには滅びゆく静的な美がある。
軍は戦意高揚のプロパガンダとして「国民の士気を鼓舞するため写実的な絵」と画家たちに下していた。戦後フジタは戦争協力者として非難の声を浴びる。しかしあの時代は誰もが愛国者であり日本が勝つことを熱望していた。戦争指導者や狂信的軍部は別として、あの時代と空気の中で描いた画家たちを誰が非難できよう。わたしもあの時代に生きていたなら・・・・これらの絵画を現代の眼で見ると、これは反戦絵画と映る。軍歌にしてもそうだ。歌詞にしてもメロディーにしても哀調を帯びたマイナーなのである。日本人というのは切羽詰まった悲劇的、悲壮的な状況でこそ奮い立つ心理がある。状況が困難であるほど「俺が」という涙こそが行動原理なのだ。
記録映画にある「帽ふれ」という見送るもの全員が帽子を振っての出撃シーンがある。〜送るも征も今生の別れど知れと微笑みて・・・何と日本的別離の心情なのだろう。決死、いや必死という言葉が背景にあるのだ・・・・。昭和18年10月21日「出陣学徒壮行会」の悲壮感漲る映像は異様な迫力を持って迫って来る。雨に煙る神宮外苑を「抜刀隊」の行進曲に合わせて行進する学徒。水たまりに逆転像が写り、「歩調を取れーっ!」の号令、濡れながら拍手で迎える白いブラウスの女子学生たち・・・答辞:「生等いまや見敵必殺の銃剣をひっさげ、積年忍苦の精進研鑚をあげて、ことごとくこの光栄ある重任に捧げ、 挺身をもって頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。」
そして「海行かば」の合唱「海行かば水くかばね、山行かば草むすかばね……」勇壮なはずが、このような悲劇的な演出になる、やるせない程の日本人、日本的心情。私にもそれがあるだけに辛く重い。
学徒出陣
姫路市立美術館であった「美術と戦争展」で日本画家、小早川秋聲 の「國之楯」を見た。黒の背景に寄せ書きの日の丸で顔を覆われた兵士が横たわる。これは軍から受け取りを拒否されたというが、名誉の戦死というより、死そのものの無惨さと哀しみがある。そして、戦後描かれたものであるが、香月泰男の「シベリア・シリーズ」の顔、顔、顔。浜田知明「 初年兵哀歌」。古くはルネッサンス期にエッチングで描かれたジャック・カロの「戦争の惨禍」、そしてゴヤによる「戦争の惨禍」。・・・人間とは・・・・
機会があればぜひ出向いてもらいたい美術館がある。埼玉県にある丸木美術館、丸木位里・俊夫婦による「原爆の図」。酸鼻そのもの、亡霊のような夥しい人々の群れ、何か恐ろしく重いものがのしかかり絵の前から動くことができなかった。
余談だがピカソの「ゲルニカ」を見ても、マスコミが喧伝するそこに、怒り、悲惨、慟哭、反戦などは何も感じなかった。これが本当に名画なのだろうか? また、長野県上田市にある美術館、戦没画学生の遺作を集めた「無言館」、決して巧みな絵ではない。しかし、最後の燃え尽きる生が絵画に乗り移ったような何かがあり知らずに涙を流している自分があった。
今年の正月に「東京国立近代美術館」にジョセフ・クーデルカの写真展を見に行った。その時にまた藤田嗣治の「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」を見た。凄い絵である。彼の最高作ではあるまいか。
3/ 25th, 2014 | Author: Ken |
名も無き絵
この絵に初めて出会ったのは十年ほど前だった。
友人の切り絵作家が「カルヴァドスを美味しく飲ませる店があるから….」と。
その時カウンター横の壁に架かってあった。セピアを基調とした憂いを帯びた女性の顔なのだが、何かダ・ヴィンチを彷彿させる
古典的な様式だった。「誰の絵?」「分からないのですよ。銘も何もないのです」。よく見ると髪や衣服、背景は素早いタッチで
現代的なのである。俯向き加減の顔は微妙な陰翳によって描かれ…..スフマート(Sfumato・イタリア語で「煙」を意味する
フモ(fumo)という言葉)技法だろうか? 深み、ボリュームを色彩の薄い層を何度も塗り重ね「くすんだ」階調が素晴らしい。
ダ・ヴィンチ風だと思ったのは『聖アンナと聖母子』と角度が似ているからだ。ルーブルにある『聖アンナと聖母子』より、
ナショナル・ギャラリーの黒チョークで描かれた方が好きだ。その慈愛の微笑みと超絶技巧のデッサン力に見とれ
小一時間も佇んでいただろうか…..。
ダ・ヴィンチやミケランジェロの素描には驚嘆する。まさに天才のなせる技だ。油絵のように塗り重ねるのではなく、
対象を見て取って頭の中でイメージを作り、それが腕や指の動きとなって紙の上に写しとる。
その動き、スピード、圧力、デッサンの方が迫力と生々しさをもって迫るのだ。
人間だけが成せる技だ。天才たちの頭脳のイメージが創りだしたものだ。
●
この絵を飾ってあったお店が閉めることになった。「この絵はどうなるの?」「よろしかったらお持ちください」
「えっ!大事にお預かりします」。
どなたかこの絵の由来を知らないだろうか?
3/ 13th, 2014 | Author: Ken |
オンディーヌ … 名も無きセーヌの少女。
●
毎日僕がその前を通りすぎる石膏店の、入り口の横に、二個のマスクがかけてあった。一つは死体収容所でとった若い溺死女の顔だが、なかなかの美人で、しかもその顔は微笑していた。自分で微笑の美しさを意識しているような虚飾の笑い方だった。マルテの手記 (新潮文庫) : リルケ/大山 定一/訳 リルケは続いてベートーヴェンのマスクに移るのだが…。これは1880年頃、セーヌ川で自殺した少女のものと言われる。「名も無きセーヌの娘」…名前はおろか年齢も身元も一切が不明である。いや、ある職人が自分の娘のライフマスクを採った、それであるとか…..。世界一美しいデスマスクと言われるその顔は、愛らしく、あいまいで、神秘的で、その細く小さな身体に悲しみに満ちた不幸を感じるのは何故なのだろう。まるで水の精オンディーヌのように….。微笑みと言えばダ・ヴィンチの「モナリザ」の神秘の微笑みが超有名だが、この少女の微かな微笑みが、かくも不思議に迫るのだろう。(僕は本物のデスマスクは見たことがないのだが、写真を参考に赤チョークでデッサンしてみた。お笑いを)20世紀初頭には複製品が拡がり、その謎めいた微笑に魅せられた文人たちの居間を飾ったという。あの「異邦人」のアルベール・カミュも所持していたそうだ。
●
話は展開し1960年代に心肺蘇生法の訓練用マネキンに彼女の顔が使われ、「レスキュー・アン」と呼ばれ世界各地で何万体と製造された。よって「世界で一番キスされた顔」として、現代に蘇ったのだ。水に漂う女性ならハムレットの「オフィーリア」となるのだが、有名なラファエル前派のミレー「「オフィーリア」だろう。ずーっと前にこの絵の前で立ち尽くした覚えがある。そして、何と言ってもビル・エヴァンスとジム・ホールの「アンダーカレント・暗流」(1962)だ。まずジャケットに魅せられた。LPジャケットには、大きさ、重さ、質感、期待と想像力を刺激するものがある。音楽が一枚のディスクに込められ、人間大のアナログの暖かさがある。針を落とした時に最初に流れる音の響きと美しさ……。不思議な写真だった。トニ・フィリセルという女性フォトグラファーがファッション雑誌、ハーパーズ・バザーに載せるために撮影されたものだ。伝説の編集者、ダイアナ・ブリーランドがいた頃だろうか。あの頃はファション誌が写真アートを牽引していた。さまざまな試みと冒険とアヴァンギャルドと…。レコードの内容も素晴らしいのだが、このカバー写真の美しきインパクトがエヴァンスの叙情性と相まって、より「暗流」を名アルバムにしたのは間違いない。「暗流」とは人の心の奥底に流れ漂う「生と死」の あわいのイメージなのだろうか。
●
「デスマスク」人生の最期の瞬間を型採った石膏面は「生と死」「現実と虚構」「生々しさと不気味さ」、そして本人が決して見ることができない顔のフェイク物。…僕たちの想像力はその固形化された顔に、その人の人生やドラマを見て取る故に異様な胸騒ぎを覚えるのか? 「デスマスク」に関する本や映画を思い出してみると…
●「デスマスク」岡田温司:岩波書店 ●「屍体狩り」小池寿子:白水Uブックス ●「とむらい師たち」野坂昭如(1968)そして映画のとむらい師たち( 1968) 大映/ 監督:三隅研次 主演:勝新太郎。高度成長期において人の「死」と「葬儀」が隠蔽され、荘厳さや凄みが無くなったと嘆く隠亡の息子であるデスマスク師の”ガンめん”(勝新太郎)は、葬儀のレジャー産業化を図る葬儀演出家たちと70年に迫る万博に対抗して「日本葬儀博覧会」を目論み執念を燃やす。”ガンめん”が地下から這い出すと原水爆戦争で焼け野原、その破滅的な世界を見てつぶやく….「これがほんまの葬博やー」。おどろおどろしくもシニカルなユモーアの傑作である。
4/ 9th, 2013 | Author: Ken |
廃墟の美。… 滅ぶからこそ美しい。
人は何故廃墟に惹かれるのだろう。最近では長崎半島の沖に浮かぶ「軍艦島」や神戸にある「摩耶観光ホテル」などが有名だ。栄枯盛衰、興亡と光芒、かってが栄耀栄華が壮大であるほど廃墟は沈積した寂寥を漂わせるからか。人も死ねば廃墟となるのか…。
「平家物語」は滅びの美を語り、「方丈記」は時の流れの無情さを写す。また…. 鎌倉時代の「九相詩絵巻」には美しい女性が死に体が腐敗風化していく順に九相が描かれている。変色し、膨張し、腐敗し、鳥がついばみ、獣が喰い、ついには白骨の野ざらしになる。
…いろは歌も涅槃教も諸行無常と…..。谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」には、美しい妻を失った老大納言が、未練を絶つために都の外れに行き 死体を眺める。それは不浄観という修行で、いかに美しくとも死んで朽ちればば醜くなることを 悟ろうとするものだ。
…一度生を享け、滅せぬもののあるべきか …されば、朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。…野外に送りて夜半の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
廃墟に拘った画家としては16〜17世紀のモンス・デジデリオだろう。夢の中の宮殿、崩壊する神殿、地獄の炎、時間が凍り付いた建築物はいかなる幻想から生み出したのか。同時代のピーテル・ブリューゲル「バベルの塔」を何度も描いている。18世紀イタリアの画家・建築家であるジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージもローマの古代遺跡の版画で新古典主義の建築に大きな影響を与えた。その流れがナチの建築家アルベルト・シュペーアだ。ニュルンベルグ党大会の会場設計と演出、これはリューヘンシュタールの「意志の勝利」に見る130本のサーチライトによる光の大聖堂。彼は「廃墟価値の理論」を持ち込み、ローマの廃墟のように1000年後の遺跡さへも美しいという巨大な建築群を建てたが敗戦とともに愚行と嫌悪の声に埋もれた。そしてドイツロマン主義を代表するカスパー・ダーヴィト・フリードリヒだ。古代の巨石墓、崩れた僧院、墓地、枝がのたくる樫の木、荒涼と静寂、その風景は宗教的挙崇高さへ感じる。
映画監督のA・タルコフスキーの描く廃墟も美しい「ストーカー」「ノスタルジア」、それらは記憶、魂と救済へのオマージュだ。人は何故廃墟に惹かれるのか? 死への不安か? …人は必ず去らなければならない無常観か?… 時の鑢が現世を削るペシミズムか?
土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲「荒城の月」〜 今荒城の夜半の月 変わらぬ光誰がためぞ 垣に残るはただ葛 松に歌ふはただ嵐〜
詩人立原道造は「優しき歌」の「薄明」で
…はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!…と。何かシューベルトが聞こえてきそうですね。