1/ 13th, 2011 | Author: Ken |
百億の昼と千億の夜
寄せてはかえし寄せてはかえし かえしては寄せる波の音は何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた…。
時というどうしようもない存在。それがあらゆるもの宇宙さえもすり減らし崩壊させてゆく。絶頂を極めた科学文明も宇宙都市も星間技術もあまりにも儚いものであった。ある種族はおのれを一片のデータとして乗り越えようとした(人を、DNAを、脳を、1000億のニューロンを、記憶を、それらをスキャニングしシュミレートすると10の17乗桁の二進法メモリーを必要とするというが……)。
デジタルの夢? これも生物か? これが生きていると言えるのか? 幸せなのか? 人間なのか? また仏教でいう三千大千世界、弥勒は56億7000万年後この世に下生し衆生をことごとく救済すると言うのだが….。その時は山や谷もなく鏡のように平坦であるという。これはエントロピーの無限の増大、すなわち宇宙の熱的死なのか。…..そして無窮の空間も絶対ではあり得ない。いや宇宙は永遠に生滅を繰り返し、それを司るが『シ』であると。滅ぼすもの『シ』と抗う「阿修羅王」。絶望という言葉さえ虚しく響く終わりの無い戦いに挑み続けるのだ。….
一切は流転し縁起即ち相対的関係の変化だけが存在を決定させる。固定的実体は無く変転そのものが実体であり相なのだ。
自我即空、色即是空なのだ。…おのれを空しゅうするところに思惟はあっても感覚はない、感覚のないところに認識はない。「だが解らぬ、すでに肉体に帰着するはなく、しかもなお眼前の非情は何ぞ!」。
….あの天平時代に名もなき仏師が作った興福寺の阿修羅像、少年を思わせる顔貌、その憂いをおびた眉、彼の眼は何を見つめているのだろうか。永劫の時の流れの向こうに存在するかもしれない何かのおぼろげな姿を見つめているのだろうか…….。
……『シ』はどこにあるのか、真の超越にいたる道はいったいどこにあるのか。とつぜんはげしい喪失感があしゅらおうをおそった。
進むもしりぞくもこれから先は一人だった。すでに還る道もなくあらたな百億の千億の月日があしゅらおうの前にあるだけだった。
●「百億の昼と千億の夜」光瀬龍の描く宇宙叙事詩は壮大だ。漠々渺々の時空を硬質の文体が構築していく。阿修羅王、悉達多太子、弥勒、ナザレのイエス、そしてプラトン(おりおなえ)が繰り広げる世界観は、東洋哲学的でありながら、世の東西を越え何かジョン・ミルトンの「失楽園」を彷彿させる。神々の超次元宇宙を統治するする創造神ヤハウェに反逆するルシファー。しかし反乱軍は敗れルシファーは宇宙の果ての星たちの墓場(光さえ失われたというからブラックホールか?)に堕される。漆黒の闇を漂いながら新たな叛乱を目論むのだ。そしてルシファーの人間に対する嫉妬、謀略により人間は楽園追放に至る。しかし人間はその罪を甘受し楽園を去る。
….それ以来、知恵、知識を持った人間、ここ百年足らずの間にも、おのれすら、人類すら絶滅させれる核兵器を作り上げた。同類への不信のために?おのれの過信のために?知恵は知識のなかに埋没し、絶対悪である核兵器すら誇示しているのだ。…..愚かさの極みである。
12/ 4th, 2010 | Author: Ken |
正史 vs. 乱歩
横溝正史と江戸川乱歩。この二人の対決は金田一耕助対 VS.明智小五郎とも言える。二人とも戦前戦後にわたってライバルであった。
金田一は雀の巣みたいな頭にお釜帽、褪せたセルの袴に下駄履きといっただらしない出で立ちで、推理に集中すると頭をグシャグシャかき回す。……方や明智は最初はダサイ書生スタイルであったが洋行してからS・ホームズの影響かスーツ姿の紳士になった。サヴィルローで作ったのか?探偵を比較するのも楽しいがやはり両者とも日本生まれであるから西欧的合理主義と帰納的かつ演繹的推理は泰西の探偵に比べれば甘い気がしますね。だって状況証拠じゃ裁判に勝てないもの…。
そして怪人二十面相はリュパンのイメージそのもだし、少年探偵団はベイカーストリート・イレギュラーズからのいただきだ。まあ文句はこれくらいにして乱歩の面白さは発想・アイディアの斬新さである。思いつくままに「人間椅子」暗闇で厭な感触のものに触れたような不快感と何か生理的にザワザワさせますね。「屋根裏の散歩者」覗きの世界と快楽。「火星の運河」深閑とした暗い森の奥に黒く重い池、その真ん中の島にいる私。体を切りさむ運河のような傷口から鮮血の赤。この妖しき耽美的自虐美。「虫」ウェーッ!」「芋虫」陰残、最近の映画の予告編を見ただけでげんなり、何か制作意図がポルノでたぶんに反戦なんてクサいものを持ち込んだんだろう。見ていないので偉そうには言えないが映画の金を払うのは俺だぜ。……「鏡地獄」いまならCG、3Dでもっと凄い。
「押し絵と旅する男」蜃気楼のような異次元とフェティシズム。「パノラマ島奇談」今のテーマパークに乱歩が行ったとしたらこりゃパノラマ島以上だ?「防空壕」東京の夜間空襲下、ネロ皇帝が見たような都市の炎上、その興奮と美。逃げ込んだ防空壕での出来事、奇妙な味の短編である。ああ切りがない…..乱歩の功績として海外ミステリーのアンソロジーが素晴らしい。「世界短編傑作集・1〜5」世界の珠玉の短編セレクトの眼、さすが乱歩。ウォルポール「銀の仮面」なんてこれで知った。
そしてミステリー歴代20傑(エラリー・クイーン編20傑もいいですね)納得です。横溝正史となると「本陣殺人事件」「獄門島」「八墓村」「真珠朗」….その他短編も結構読んでみたのだが何か記憶に留まらないのですね。やはり正史には生真面目さがあって乱歩のような奔放な飛躍がないのですね。でも日本の田舎の因習や人間の欲望とおどろおどろ感、ネクロサディズムと極彩色の美、…..仮面に隠れた本当の顔は?….映像的ですね。
このあいだ「乱歩と正史」の講演会に行った。…..もうぼくは乱読の楽しみだけにしておこう。あの人たちの詳しさと豊富な資料、作品の読み込みには所詮敵いっこないんだから。
11/ 30th, 2010 | Author: Ken |
乱歩と正史
横溝正史生誕地碑建立6周年記念イベントがあった。主宰は神戸探偵小説愛好曾、代表の野村恒彦氏、講師として名張市から探偵小説研究家の中相作氏が「横溝正史と江戸川乱歩」について語った。まあ、その詳しい事!よくそんなことまで調べましたね!ぼくも自称探偵推理小説なら少しはと身を乗り出すのだが、とてもとても…。
乱歩と正史、読んで字のごとく乱歩の作品は揺れが大きくて乱れている。方や正史は正当派探偵推理小説を目指していた。乱歩の方が一回り年長で、お互いが友人でありライバルであり批判家であり戦前・戦後に亘り巨頭であった。乱歩はアイディアにすぐれ独特のエロティシズム、サディズム、マゾヒズムと異端の美意識や不気味な味を狙った。それは大正から昭和初期にかけてのエログロナンセンス、モボモガの時代風潮、戦争の足音が近づく束の間の享楽の時であった。正史も時代の児である。ネクロサディズムや腐乱死体、屍体愛好癖の犯人など残虐嗜虐趣味の作品が多い。両者とも屍体、義眼、奇形、異常人格など人間に潜む異様性を好んだ。
正史は特に日本の地方田舎にまつわる因習やおどろおどろした不気味さを背景に、日本的陰残さと美意識を根底とし独自の世界を創り上げた……。
また明智小五郎と金田一耕助、この二人の探偵もS・ホームズを始めとする欧米の合理的で怜悧な脳細胞探偵とは少し趣きが違う。それは背景としての文化の違いで、日本では密室なんて設定は難しいし、論理より情緒、普遍性より因習、乾より湿、洋服より和服、靴より下駄の時代であったから「日本的あいまいさの文化」にスタイルを載せたのである。また欧米の推理小説自体がほとんど翻訳されていなかったし、洋行なんてホンの一部の人しか出来なかった。しかし乱歩や正史は洋物を翻訳し読んでいたからこそ、日本風土にあわせた独特の推理探偵小説世界に遊ぶ事ができたのだろう……。誰か戦前に於ける探偵文化論を書いていないだろうか?
写真の二銭銅貨煎餅は乱歩誕生の地名張のお土産である。講演の後みんなで横溝正史生誕地碑を見にいった。夕闇迫るなかメヴィウスの輪からヌエのような怪鳥の叫び、サーカスのジンタの響きが聞こえた気がしたが、気のせいか、果たして……。
10/ 16th, 2010 | Author: Ken |
アッシャー家の崩壊 … ポー賛/4
重苦しく雲が低くかかり、もの憂い、暗い、寂寞とした秋の日もすがら、私はただ一人馬にまたがり妙にもの淋しい地方を通りすぎて行った。そして黄昏の影があたりに迫ってくるころ、ようやく憂鬱なアッシャー家の見えるところへまで来たのであった。… 私は眼の前の風景をながめた。… 阿片耽溺者の酔いざめ心地….日常生活への痛ましい推移….夢幻の帳のいまわしい落下 … といったもののほかにはどんな現世の感覚にも例えることのできないような、魂のまったくの沈鬱を感じながら。心は氷のように冷たく、うち沈み、痛み、…どんなに想像力を刺激しても、壮美なものとはなしえない救いがたいもの淋しい思いでいっぱいだった。…ほとんど眼につかないくらいの一つのひび割れが、建物の前面の屋根のところから稲妻状に壁を這さがり、沼の陰気な水のなかへ消えているのを、見つけることができたであろう。
エドガー・A・ポーの「アッシャー家の崩壊・The Fall of the House of Usher」1830。
この話を知ったのは小学生の頃、姉がラジオの朗読で聞いたのを語ってくれた。最後の「血のように真っ赤な月が…」。何と言う表現だろう眼前に赤い月が見え戦慄を憶えた。それ以来ポーには心酔している。あまりにも有名でいまさらストーリーや解説をしても始まらないが、冒頭の一節だけで寂寥とした風景描写にこれからの物語に没入させてしまうのだ。陰鬱な屋敷、その微かなひび割れの描写が最終節に大きな意味を持たせているのだ。この巧妙な計算!….そしてアッシャーの譚詩バラッド、これはおのれの人格が崩壊していく様を詠っているのであろう。
… 王なる「思想」の領域にそは立てり!そして狂気に堕ちいるいる様を….かくて今この渓谷を旅ゆく人々は 赤く輝く窓より、調べ乱れたる楽の音につれ 大いなる物の怪の踊り狂い動けるを。また蒼白き扉くぐりて 魔の河の奔流のごと恐ろしき一群走り出いで、高笑いす、―されどもはや微笑まず。
…叡智に輝いていた二つの窓、怪しき赤き窓とは双眼のことなのだろう。そして終節に至って…このその輝きは、沈みゆく、血のように赤い、満月の光であった。月はいま、その建物の屋根から稲妻形に土台までのびている、たあの亀裂を通して輝いているのであった。…幾千の怒濤の響き、長い、轟々たる、叫ぶような音が起った。―そして、私の足もとの、深い、どんよりした沼は、「アッシャー家」の破片を、陰鬱に、音もなく、呑のみこんでしまった。ポーの素晴らしさはスプラッターになりがちな恐怖譚を知的で美意識に満ち、芸術にまで高める品性である。以後のおびただしい他の恐怖譚と一線を画しているのだ。ぼくはポーの素晴らしい作品群のなかでも「アッシャー家の崩壊」が最高作と信じている。
10/ 14th, 2010 | Author: Ken |
赤死病の仮面…… ポー讃/3
“The Masque of the Red Death”「赤死病の仮面」1842年。純粋な想像力は美しさあるいは醜さから、今まで化合されたことのないものでもって作られる…..この精神の化学作用において…..醜いものからさえもそれが想像させる唯一の目的であり、同時にまた想像力の不可避的な験である….(想像力)。
…..美しさを製造することにおいてポーはこのように語る。光輝、燦爛、峻刻、幽玄、怪異、人工美、技巧、計算。「赤死病の仮面」の精緻さは特別である。まずおどろおどろしい赤い死、僧院の閉鎖空間、青、紫、緑、橙、白、菫、この色彩の氾濫のなかを豪華絢爛な仮面舞踏会の渦がある。艶やかで、夢幻的で、グロテスクで、奇異で….、そして真っ黒な天鵞絨のタペストリーで被われた第七の部屋を赤の瑠璃玻璃を通した篝火が揺らめく。黒檀の大時計が時を告げ、その時オーケストラもワルツに興じる人々も一瞬動きが止まる。ここに経帷子の赤い死が現れるのだ。…..「それは夜盗のように潜入し、宴の人びとは一人また一人と彼らの歓楽の殿堂の血濡れた床にくずれ落ち、その絶望的な姿勢のまま息絶えていった。そして黒檀の時計の命脈も、陽気に浮かれていた連中の最後の者の死とともに尽きた。三脚台の焔も消えた。 And Darkness and Decay and the Red Death held illimitable domini
あとは暗黒と荒廃と「赤死病」があらゆるものの上に無限の支配権を揮うばかりだった」。八木敏雄/訳
ポーが想像した恐怖と人工美の極みである。この短編はゴシック・ロマンスだが二世紀近い時を経てもこれを超えるものは知らない。
音楽では、Andre Caplet作曲:ハープと弦楽四重奏のための「赤死病の仮面」があるが、ぼくの趣味ならバロックからロココの明るい宮廷音楽にしたい。弦楽のさざめきとチェンバロの音色。それに時おり、重々しい大時計の真鍮の肺臓から深暗な音が鳴り響くのだ。
10/ 10th, 2010 | Author: Ken |
「メエルシュトレエムに呑まれて」… ポー賛/2
SF、サイエンス・フィクションは科学的背景を基盤にイマジネーションを広げるから空想科学小説と言われる所以だ。荒唐無稽の冒険譚と言ってしまえばそれまでだが、いかに面白く、いかに驚異であるかに技巧の術を凝らすのだ。
エドガー・A・ポーの「メエルシュトレエムに呑まれて」緻密な計算と絶妙の技巧、その素晴らしさに思わず引き込まれてしまう。冒頭に白髪の老人と崖上から海を眺めながらダイナミックに変化する模様が描写される。崖上は烈風が吹きすさび、腹這いで灌木にしがみつく描写には思わず高所恐怖に襲われる。….そして白髪の漁師の体験が語られるのだが、大渦に呑まれ、めまぐるしく旋回する船上でパニックと冷静な観察眼の二律背反の眼で話が語られるのだ。咆哮と鳴動の大渦、漏斗の内部は眼の届くかぎり四十五度の傾斜の壁であり滑らかに輝く黒檀であった、底なしの深淵に揺らめき喘ぐ水蒸気、それに時と永遠への架け橋の虹が架かり月光が照らす。何と言う幻想的で美しい情景だろう。叫喚と静寂の対比だ。めまぐるしい動きのなかで漏斗の渦の壁に見る形状による沈下速度の差、ここには物理的な観察眼があり、恐怖と美と詩的でありながら、数学的ともいえる落下風景をアンチノミーで見せる。そう、ポーの視覚的描写は、眼前の出来事のように映像を喚起させるのだ。 ポーは映像作家だ。精緻な計算が夢を見ている時に感じる現実性と恐怖を読者にイマジネーションとして創り出させるのだ。人工的、技巧的、幻想美、彼の頭蓋のなかにはどんな世界が交錯しているのだろう。そしてこれが書かれたのは約180年前だ。ポーの近代性は時を越えている。アーサー・C・クラークが宇宙のメエルシュトレエムを描いたのも頷ける。
…余談だが「一夜にして髪が真っ白になった」とよく聞く。それは恐怖や心理的ストレスによるのだという。ポーの時代にもそんな噂話はあったのだろう。しかし私が思うにこの「メエルシュトレエムに呑まれて」が発表され、世界に翻訳され、我が国ではポーに心酔していた江戸川乱歩によっても「一夜にして白髪」話が書かれ、人口に膾炙していったのではないか?生理的には恐怖のあまり髪の毛が逆立ち、その時毛根に空気が入り白くなるというのだが(本当のところはメラミン色素が作られなくなる)….。同窓会なんかで何年も会わないかった知人に会うと、頭が真っ白で驚くことに出くわすが、これも記憶と時間の錯覚がもたらすのだろう。私も両鬢に白いものが目立って来た。
…白頭掻けば更に短く…か…歳を取る…恐怖だ恐怖だ。
10/ 4th, 2010 | Author: Ken |
The Raven「大鴉」……ポー賛/1
Once upon a midnight dreary,
while I pondered, weak and weary,
Over many a quaint and curious volume of forgotten lore,
While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping.
As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.
” ‘Tis some visitor, “ I muttered .
” tapping at my chamber door, Only this and nothing more. ”
むかし荒凉たる夜半なりけり
いたづきみつれ黙坐しつも 忘郤(ぼうきゃく)の古學のふみの奇古なるを繁(しじ)に披(ひら)きて
黄(こう)ねいのおろねぶりしつ交睫(まどろ)めば 忽然(こちねん)と叩叩の欸門(おとない)あり。
この房室(へや)の扉(と)をほとほとと ひとありて剥啄(はくたく)の聲あるごとく。
儂呟(われつぶや)きぬ 「賓客(まれびと)のこの房室(へや)の扉(と)をほとほとと叩けるのみぞ。
さは然(さ)のみ あだごとならじ。」
日夏 耿之介
“Lord, help my poor soul.” 主よ、哀れな魂をお救いください…。エドガー・アラン・ポー最後の言葉だと言われる。この耽美的、神経的、憂鬱症、幻想、幻影、ネクロフィリア、アルコール中毒、闇にひっそりと浮かびあがる美しい女、心を震憾させる想像の風景、イマジネーションの宇宙。……の男はあまりにも感性が強過ぎる人物と思われているが、実際は論理的で計算に優れ冷徹な科学者のような頭脳を持っていたのだろう。「ユリイカ」「ハンス・プファールの無類の冒険」「シェヘラザーデの千二夜の物語」「メルツェルの将棋差し」などを始めその小説や評論の背景には当時の最新の科学知識に基づいて創作されている…SFの父だ。
史上初の諮問探偵を創り「黄金虫」は暗号解読、「使い切った男」はサイボーグだ。「ウイリアム・ウィルスン」は二重人格だし「群衆の人」は現代の孤独を先取りしている。なんという凄い直感と頭脳だ。そしてあまりにも美しく音楽的で静謐で奇怪不思議に満ちた詩の数々…..底なしのイマジネーションの深淵を覗く。….ぼくの英語力では深く理解することができないが、原文で読むより翻訳が素晴らしい。日本語の曖昧で多彩な語彙と表現。日夏 耿之介は格調高く(難解だが優美)ゴシック的な耽美の世界だ。
●「アッシャー家の崩壊」谷崎精二/訳:あの嵐の夜にアッシャーがリュートで弾き語る即興詩なんて…嗚呼。
●「大鴉」昔、古本屋で何気なく見つけた詩の本、それが上記の写真。挿絵がギュスターブ・ドレ、夢幻への耽溺だ。
●「黒夢城」写真家サイモン・マースデンのエドガー・A・ポーの世界。崩壊の古城、深閑の墓地….廃墟がひたすらに美しい。
7/ 17th, 2010 | Author: Ken |
すべては太陽のせいだ!
梅雨が開けた。太陽の季節である。太陽がいっぱい、こんなに暑いのも、やる気が起らないのも、すべては太陽のせいだ!
強烈なコントラストに目眩がしそうだ。別に山や海に行きたい訳ではなし、休暇を取りたいとも旅行に行きたいとも思わない。無感動人間になってしまったのだろうか。
…..子どもの頃は違った。夏休みを待ちかね日がな遊びに没頭した。一日が、、一週間が一ヶ月が、恐ろしく短かった。そして生意気な高校生の頃だ。その時代の流行というのだろうか、ブームだったのだろう。
強烈に鮮烈にアルベール・カミュが「異邦人」で現れた。「今朝ママンが死んだ。昨日かも知れない…」。不条理という言葉を知った。「ペスト」「シジフォスの神話」「太陽の讃歌」「反抗的人間」等々、いま思い出すと恥ずかしいのだが、分かりもしないくせに分かったような顔をして浸りこんだ。
…人にはそれぞれ運命があるにしても人間を越えた運命はない。…..人間は日々の主人は自分であると知っている。この行為の連続を凝視し、彼の運命は彼によって創り出されるのだ。……頂上にむかう闘争、そのものが人間の心を満たすのだ。幸福なシジフォスを思い描かねばならない。「すべてよし」と。
…でも、人生は不条理だ!と言われても何が不条理か高校生の頭には理解できなかった。そして西欧人の抱く「神」の概念、文化、絶対性。そんなものは日本人には根本として希薄だから理解が違うのだ。….久々に読み直してみようと思う。
…そしてルキノ・ヴィスコンティの映画「異邦人」1968が来た。マストロヤンニとアンナ・カリーナだった。また60年代にはアルジェ独立を舞台とする映画の秀作があった。アルジェなんて古くはデュヴィヴィエ「望郷」のペペルモコくらいしか知らなかったけれど。
「アルジェの戦い」監督:シロ・ポンテコルボ。徹底したドキュメンタリー手法で、目撃者の証言、記録、写真から、ニュース映画のただ一コマも使わず、実写以上のリアルさを再現した。
「ロスト・コマンド/ 名誉と栄光のためでなく」監督:マーク・ロブソン 原作:ジャン・ラルテギー アンソニー・クイン/アラン・ドロンほか、なんて映画も見た。フォーサイスの「ジャッカルの日」、ドゴール暗殺未遂に続いていく訳だ。
5/ 23rd, 2010 | Author: Ken |
アルカディアを求めて。
最近知り合ったユニークな方に著書を頂いた。「イギリス的風景」…教養の旅から感性の旅へ…中島俊郎:NTT出版。これが実に興味をかき立てる。
イギリス的風景とは人工的な幾何学形から非対称、矩り蛇行し、非整形の美である。これはイングリシュ・ガーデンとして今も人気である。この美はどこから醸成されたものか。これは絵画と風景の合一であるピクチャレスクから始まった。また自然美に、ただ綺麗であるだけではなく、そこには荘厳、崇高、雄大、優美といった従来と違った美を見つける感性誕生の物語でもある。
そして18世紀の英国貴族たちがヨーロッパ文明の源流と理想の地・アルカディアを求めてローマに旅するグランド・ツアーの話…。歩くという行為から詩想を求め英国の牧歌的田園を行くペデストリアン、ワーズワス、コウルリッジ、キーツ、スティヴンソン…。
それはロマン派詩人たちに詠われ、廃墟の美学へと発展する。その点、日本人には彼らにはない美を早くから発見していた。水墨画による蛾々たる山容や老松、名も無き一輪の花に見る「もののあはれ」、そして「侘び寂び」。12世紀には歌人西行、17世紀には俳人芭蕉と、短い詩の中に鋭い感性とともに風景、人生、内面、哲学までを詠み込んだ優れた作品を残した。精神としての美である。
幕末・明治に来訪したイギリス人が日本に絵のようなピクチャレスクとアルカディアを見つけたのもうなずける。もう日本人は歩かなくなったし、全国の国道沿いは醜悪さの博覧会である。
著者は「歩く」ということにこだわりを持ち、その研究も面白い。日本人はつい近代まで移動手段は歩くことだった。お伊勢参り、お遍路、物見遊山、膝栗毛、股旅である。そういえば、数百万年ほど前アフリカに二足直立歩行する猿人が現れた。とんでもない好奇心と雑食性を持ち、10万年ほど前にスエズを越え、世界中に散らばっていった。1万年程前には凍てついたベーリング海峡を渡り、ロッキー山脈、パナマの狭隘部を歩き、アンデス山脈、最後に南端フェゴ島までたどり着いた。われわれのご先祖は歩く人だったのだ。
偉大な思想、発想、詩作、作曲は散策から生まれるという。ヴェートーヴェンの田園だね。
…ぼくも明日から早朝歩きでもするか。
5/ 20th, 2010 | Author: Ken |
予言
オルダス・ハクスリーの「素晴らしき新世界」1932年とジョージ・オーエル「1984」1949年を読み直してみた。両方とも近未来のSF小説なのだが、「素晴らしき新世界」はまるで現代のバイオテクノロジーを見るようだ。当時、核酸にはDNAとRNAの2種類あることは発見されていたが、DNAが遺伝物質であることが確認されたのが1952年、そして1953年、J・ワトソンとF・クリックが二重らせん構造を明らかにした。1996年にはヒツジのクローン、ドリーが誕生した。
小説では人間は受精卵の段階から培養ビンの中で製造・選別され、α、β、γ、δ、εと階級ごとに知能も容貌も体格も違う。まるで遺伝子操作によるデザイナー・ベイビーのようだ。彼らは睡眠時教育で自分の階級、社会に全く疑問を持たないように教育され、人々は個々の生活に完全に満足している。落ち込んだときはブロザックのような「ソーマ」と呼ばれる薬でハイになれるし、人々は常に安定した精神状態であるため、社会は完全に秩序を保っているている。「すばらしい世界」は「愚者の楽園」である。そのなかでβでありながら蛮人保存地区で生まれ育つたジョンは文明社会に行き、挫折し自殺する….。 現にいまぼくたちが食べている肉も野菜も遺伝子による選別がなされている。ES細胞、iPS細胞の研究も進んでいる。遺伝子の螺旋階段を登るのように「すばらしい新世界」を目指してきた人間、その「天国への階段」の先にはどんな未来が待っているのだろうか?
「1984」は偉大な兄弟・ビッグ・ブラザーのもと、見ざる、聞かざる、言わざるの安定した社会である。「偉大な兄弟」は国民が敬愛すべき対象であり、到る所に「偉大な兄弟があなたを見守っている」(BIG BROTHER IS WATCHING YOU) というスローガンともに彼の写真が張られている。国民は毎日、テレスクリーンにより監視下に置かれ、私的生活は存在しなくなっている。それに疑問を持つ事は許されないのだ。
戦争は平和である (War is Peace) 自由は屈従である (Freedom is Slavery) 無知は力である (Ignorance is Strength)と。
まるで現代のマスコミとインターネット社会を彷彿させる。知らなきゃ幸せなんだよ。ほらケータイとゲームで遊びなさい。でも毎日、知らないうちに監視カメラに写され、高速道路でも、免許証、保険証、パスポート、ドメイン、GPS、他にもいっぱいいっぱい、個人情報なんて集めようと思えば幾らでも…。それにしても優れたイマジネーションは未来を予言する。
行く末はユートピアか、それとも反ユートピアか?
●「すばらしい新世界」オルダス・ハックスリー、 松村 達雄 訳:講談社文庫
●「1984年」ジョージ・オーウェル、新庄 哲夫 訳:ハヤカワ文庫
●「未来世紀ブラジル」1985 監督・脚本テリー・ギリアム(あのモンティパイソンのメンバー)。1984やカフカが下敷きにある。
音楽:マイケル・ケイメン、Bachianos Brazil Samba。これを書いていると「神戸祭」でオフィスのまわりが無茶苦茶うるさく騒がしい。何がサンバだ。
….率直には喜べない。祭りとは民族の、民衆の、庶民の、人間の、畏怖の、喜びの、土着の、長い時間から生 まれたアニミズムみたいなものが「心」だろう。無理に行政とその取り巻きが作り上げた祭りとは…。