11/ 10th, 2016 | Author: Ken |
Luftwaffe Bf-109, Fw-190
10/ 28th, 2016 | Author: Ken |
Ki-61 飛燕
キ-61Ⅱ
川崎・キ-61Ⅱ・三式戦闘機「飛燕」を見てきた。液冷エンジンの細っそりとした頑丈な機体にアスペクト比の高い主翼、いかにも高速機らしい精悍さだ。しかし、ダイムラーベンツDB601を国産化したハ-140エンジンは期待した性能を発揮できなかった。クランク軸の硬度やベアリングの精緻さに、我国の工業力では無理だったのだ。最後はB-29に体当たり「震天制空隊」として散った。同時代のロールスロイス・マリーンを装備したスピットファイアやP-51マスタングが活躍したのと比べると、どうしても悲劇の戦闘機と感じてしまう。
●神戸ポートターミナル「川崎創立120周年記念展―世界最速にかけた誇り高き情熱―」展を見て来た。
3/ 26th, 2016 | Author: Ken |
ワレニ追イツク敵戦闘機ナシ・・・飛翔するデザイン
美しくリファインされた設計は高性能を生む。中島艦上偵察機機(C6N1)「彩雲」。前面投影面積を減らすために、誉21型のエンジンカウリウング直径に合せて、細く伸ばした直線的な胴体、そこにはカメラなど装備機器がギッシリ詰まり、母艦のリフト11mに合わせるため後縁が3点姿勢で前傾した垂直尾翼。主翼に層流翼の採用、その80%がインテグラルタンクだ。増槽無しでも3,000kmを飛行でき、700ℓ増槽装備で5300kmという単発艦上機としては世界最大の航続力を持っていた。艦上機だけに前縁スラット、親子式ファウラーフラップ等の高揚力装置、それに合せて水平尾翼の前縁が下がるという、まるでジェット時代を先取りしたようだ。離艦性向上のための3.5m・大直径プロペラ、そのため前方に突き出した長い脚、厚板構造でリベット数は10万本(零戦の22万本)・・・。レシプロ・エンジン機の限界に挑んだ近代性を感じる設計だ。推力単排気管によるジェット効果も計算ずくで、テスト機で350ktを記録、その高速ぶりを発揮した。
「彩雲」その名の通り姿もひたすらに美しい。
昭和19年6月下旬、サイパン島基地への高々度写真偵察の任務に(広瀬少尉・樋口少尉・電信員)硫黄島を発進し、サイパン島を目前に高度8,000mを二速で飛行中、前方に敵P38戦闘機3機と遭遇、距離300m。変針してブースト全開、水平全速・・・、「どうだ」「少し離れたようです」「まだ追いて来るか」「離れたようです」「見えません」伝声管を通しての会話があり、電文を打った。それが有名な「ワレニ追イツク敵戦闘機ナシ」だ。 「彩雲」は艦上偵察機として設計された唯一の機体で、単発艦上機としては世界最大の航続力を持っていた。戦後米軍によってテストされ「彩雲」は高オクタン価の燃料とオイルを使用し、高度6,000mで694.5km/hという高速を記録した。誉れエンジンは推定2200馬力を出した計算になるという。アメリカの燃料とはいえ、機体もエンジンも隠れた能力を発揮したのだ。
11/ 21st, 2015 | Author: Ken |
シャークマウス・Flying Tigers
シャークマウス(シャークティース)、あのフライング・タイガースがP-40の機首に描いたノーズ・アート、アイコンだ。何ともアメリカ的というか戦争道具にコミック的意匠とは!大らかなのである。中国国民党に招聘され、指揮官はクレア・リー・シェーンノート。訓練教官・顧問・参謀としてのお雇い外国人だ。要は傭兵みたいなもので高額の給料を受給し月給プラス敵機を1機撃墜するごとに500ドルを支給されたそうだ。アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group; AVG)とあるが、戦闘機やパイロットは米国政府が用意して、義勇軍の名を借りたアメリカの対日戦闘部隊であった。日米開戦で「義勇軍」の意義もうやむやになり、ビルマでは、あの有名な加藤隼戦闘隊と死闘を繰り広げたという。AVGが使用したのはP-40Cで、その後、エンジン、12.7 mm機銃6挺と強化された新型のP-40Eも使われた。防弾性能に優れ頑丈ではあるが運動性・上昇力に劣り、軽快な日本機には一撃離脱戦法で闘った。空中戦の常であるが撃墜数は水増しが多く、実際はお互いの被害が最も真実に近い数だろう。ビルマの戦いは黒江保彦「あゝ隼戦闘隊」や檜 與平「つばさの血戦」に生き生きと描かれている。
●シャークマウス:このアメリカデザインの象徴ともいえるアイコンは、代々受け継がれ、ヴェトナム戦争ではF4ファントムに描かれ、現代ではウォートホッグことA-10サンダーボルトIIに描かれている。アメリカにはこんな伝統が流れていてゴルフのシーンにも登場した。フライング・モンスターとしてDUNLOP SRIXSONのボールにもデザインされた。
その情報を見て、早速日本でも取り入れた。アメリカではボールだったが、随分と頭を捻った。そうだ!ギフトボックスにしよう。大きな箱なら迫力があるしタイトルはBITE THE BIG SKY「大空を咬破れ」。ゴルフだから強力に飛ぶイメージだ。あのお固い会社が、このアイディアを受け入れてくれるかな?通りましたね。随分と評判になりお客様に喜ばれた。これも子どもの頃から飛行機が大好きで写真やマーキングを集めていたせいだろう。
11/ 17th, 2015 | Author: Ken |
Jagdpanther
Jagdpanther
Jagdpanther 駆逐戦車ヤクートパンター/砲塔を搭載せず避弾経始を考慮した80mm厚30度の傾斜装甲を擁し「パンター車体」に搭載、車体から戦闘室に延びるラインは一体化され優れたデザインとなっている。耐弾性、生産性に優れ、1943年10月に試作車が完成、制式化が行われた。パンターの駆逐戦車型を表す「ヤークトパンター」と名称された。高初速の71口径、8.8cm KwK43砲を搭載、車体後部に機関室、車体中央部に避弾経始に優れる戦闘室、車体前部に変速機、操向変速機を配する。エンジンはマイバッハHL230P30/700hp(ガソリン)。動力は後部機関室内の床下のカルダンシャフトを介して車体前部の変速機へ、減速し操向変速機で左右の起動輪へと配分される。搭乗員は5名であった。
その昔、ロンドンの「 帝国戦争博物館」に行った。T34/85と並んで「ヤクートパンター」があった。そのシンプルなデザインとドイツ的合理性設計の構造美を見た。何かFW190を設計したクルト・タンク技師の設計思想と通じるような気がする。徹底した合理化とシンプルさである。
・・・男の子は「軍艦・飛行機・戦車」が大好きだ。プラモデルの箱を眺めているだけで眼前に大和の勇姿やマスタングの爆音が聞こえるのだ。カッコいいことこの上ない。そして組み立て始めると凝ってしまうのだ。文献をあさり写真で細部を点検し、時代考証や背景を調べ・・・結局、完成しないのだが、その空想の時間が楽しいのだ。そのダイナミズムに震え、いつかぼくも描いてみたい!そして数十年、やっと描いた。
★英国「帝国戦争博物館・Imperial War Museum」「王立空軍博物館・Royal Air Force Museum」を見ても、日本との展示表現の差が感じられる(戦勝国だからか?)全てを「モノ」と展示し、歴史の記録であり、戦争の功罪を声高く叫んでいないことだ。靖国の「遊就館」などは「情緒」が過ぎて居たたまれなくなるのだ。要は「判断するのはあなただ」という視点を持ちたいと思う。歴史とは正しく知り認識するために残された資料を読み解き判断するべきものなのだ。そのためにも勉強しなければ・・・。
2/ 28th, 2013 | Author: Ken |
飛行するデザイン…Shinden Racer
終戦間際に初飛行した「J7W1・震電」。1号機は戦後、アメリカに送られ、現在もスミソニアン・国立航空宇宙博物館の倉庫に眠っている。
ほぼ完成間近にあった2号機はどうなったのだろうか。破棄された。いやこれもアメリカに運ばれた。様々な説があるが、亡霊探し(ゴースト・ハンター)たちが遂に突き止めた。1999年、アメリカ・ユタ州、ソルトレーク・シティ郊外の個人飛行場の倉庫にガラクタやスクラップ機体の下にあるのが発見された。破損は酷く約50%が原型を辛うじて止めていた。個人収集家は亡くなっていたが遺族と交渉の末取得、GAF(Ghost Air Force)と協力し、レストアすることとなった。降着装置、機銃、キャノピー、計器、外板も大きく失われていた。プロジェクトチームの意見は二つに分かれ「完全にレストアする」、「いや一層のことレーサーに改造しリノのエアーレース・アンリミテッド・クラスに出場さすべきだ。
そこで大空を自由に翔させてやりたい」。….失われた大部分を制作する以上、新しい「震電」としてレースを目指す方向に決定した。機体構造、エンジン・延長軸はほぼ揃っていた。全てを分解し各パーツ毎に丹念に修理、失われたものは製作し、剥がれた外板も当時と同じ工法で製作し貼り着けるのだ。分解、掃除、修理、再組み立てが果てしなく続いた。降着装置はベルP63キングコブラの脚を改造代用、最大の問題はエンジンだった。大馬力のP&W R-2800ダブルワスプ、またはライトR-3350サイクロン18に装換したいところだが重量・直径が大きく根本的設計変更が必要となるので諦めた。
そこで三菱MK-9D改(ハ-43-42)を徹底的にオーバーホールして使用することになった。電気・油圧系を刷新、高性能加給機、高オクタン燃料により2450hpを発揮、水メタノール噴射により短時間なら2800hpが可能となった。計画馬力より約2〜4割の増加、MK-9の秘めたる力を引き出した。
ガバナーとプロペラはA1スカイレーダーのスクラップから集めた。直径が大きすぎるので脚を延長。機銃その他装備品が無くなるため重心位置調整には苦労の連続であった。翼内タンクを撤去、胴体内タンク増設、潤滑油タンク、水メタノールタンクの前方移動、先端部にバランサーを設置した。
徹底した重量軽減策により空虚重量は2,950kg、500kg以上の軽減を達成した。サンドブラストで磨き上げた機体、軽い機体に強力なエンジン。…..プロジェクト・チーム発足より十数年が過ぎていた。いま、まさに飛び立とうとする猛禽類を思わせる
「震電」。そのエンジンの咆哮と、銀翼を煌めかし大空を飛翔する勇姿を見るのも近い。P51 、F8F、ホーカー・シーフューリー、スーパーコルセア….。願わくばあの伝説のレーサー、ダリル・グリーネマイヤーの記録と競いあいたいものだ…..。
2/ 25th, 2013 | Author: Ken |
飛行するデザイン…震える空
見よ、紅蓮に染まる帝都上空を高速で翔る異形の翼があった…震電だ!B29のガナーたちも前後が逆になって迫る姿には戸惑った…。
if もしも? 震電が実用化されていたら … その先進的形態にはいかにも高性能・異様の美という魔性の力がある。第二次大戦末期、従来のレシプロ機の限界が見え始めた。エンジンも2000〜2500馬力を超え、これ以上の出力は多気筒化や過給器の改良などをもってしても困難だった。いかに突破するか、設計者は画期的な性能を機体の形態に求めた。各国は様々な試作機を飛行させ、日本海軍も戦争の激化に伴い高々度で侵入する超重爆B29を阻止するために強力な火器を搭載、上昇力と高速の局地戦闘機を求めた。それら数多くの試作機のなかで、一際異彩を放っているのが「J7W1震電」だ。基本計画は海軍空技廠、詳細設計以降は九州飛行機が担当、前翼(カナード)またエンテなどと呼ばれる形式である。小さな前翼は開閉式スロット翼。重心位置のため主翼は前縁で20度の後退角を持つ層流翼。降着装置は前輪式、装備は小さい機体にぎっしりとが詰め込まれ、後部のエンジンからプロペラまでの延長軸、エンジンの冷却という問題を抱えながらも、30ミリ砲4丁という重武装、速度は400ノット(750km/h)を狙っていた。
海軍航空技術廠の鶴野正敬少佐(当時大尉)昭和18年から「前翼機」風洞実験を繰り返し、実証するためにモーターグライダー・MXY6前翼型滑空機でテスト、そして「十八試局地戦闘機」として試作が発令された。「震電」は昭和20年6月に試作機完成、同年8月に数度の試験飛行を行い終戦。ついに実戦には間に合わなかった。その貴重な飛行フィルムが現存しYou Tubeで見る事ができる。VDM 定速6翅(量産型では4翅に予定)推進式プロペラ。そのために緊急脱出の際はハブ内に火薬爆破式のプロペラ飛散装置を備える予定であった。生産性を考慮して構造・工法も合理性を徹底、厚板応力外皮構造、プレス機による外板成型、スポット溶接などを採用した。戦争という極限の時代に各国とも同じような形態を模索したが、成功した機体はほとんど無かった。
もうジェット機の時代が始まっていたのだ。仮に完成し量産させていたとしても空襲で疲弊した工業力、素人による生産技術力では到底、戦力にはならなかっただろう。そして700kmを優に超すP51Hマスタング、P47N、グラマンF8Fベアキャット、P80ジェットまで現れていたのだから…「震電」は夢にしか過ぎなかった。戦争による情報が遮断の時代に技術者たちが必死で考えたことは、不思議にも各国による多地域同時発生という、発想と思考が同調するのは不思議なことだ。…人間、考えることは似たようなものだ。
8/ 30th, 2012 | Author: Ken |
零戦・大和に昂る。…いつか描きたかった。
戦後67年、太平洋戦争はもう歴史である。しかし「零戦」「大和」の人気は衰えない。ますます詳しく細かく図面やデータが揃い出版物も多い。零戦は「十二試艦上戦闘機計画」(昭和12年)に端を発し、昭和15年(皇紀2600年)に制式機となり、その下桁が「0」であるので「レイセン」と呼ばれた。開戦初期には大活躍をしたが後半には敵の新鋭機や戦争の実態の前に苦戦を続け特攻機となって散っていった….。大和も昭和12年に起工、開戦直後の1941年(昭和16年)に就役、世界最大の艦体、最強の主砲を備えたが、戦局に何ら貢献することもなく日本海軍の象徴として1945年4月7日に沈んだ。零戦も大和もその生涯のドラマ性、悲劇性故に日本人の魂を揺さぶるのだ。
僕も少年雑誌の巻頭見開きに興奮したものだ。圧倒的に押し寄せる戦後アメリカ文明の前に、江戸時代の名残を残す日本のショぼい文明、そうブルドーザーの前の鍬、ジープの前の大八車、B-29対竹槍と日本人が自らを揶揄していたのだ。そんな時代に負けたとはいえ「こんな凄い兵器」を持っていたという日本人の誇りのシンボルが「零戦・大和」だったのだ。小松崎茂のダイナミックな絵に「零戦」の爆音と機銃音、「大和」の海を圧する偉容、主砲の炸裂に興奮を覚えた。いつか僕も描いてみたい!授業中によくノートの端に描いたものだ。あれから長いようでほんの一時の刻が過ぎた….。今でも描いてみたいのだ。だから……
小松崎茂:こんな凄い絵は!と絶句したものだ。何てかっこいい!プラモデルの箱絵を見るだけで爆音が聞こえてくるようではありませんか!!! 上田毅八郎:艦船模型の箱絵は小松崎茂と違い「整然として美しい」のだ。
生頼 範義:中世洋画を彷彿させる重々しいリアリズム、ドラマ性、悲劇性に唸ってしまった。70年代だろうか戦国の英雄、秀吉や信長を点描(ひたすらペンのドットでリアルに肖像を描く、恐ろしいほど面倒で時間がかかるのだが、まるでモデルを目の前に置いたようにリアルなのだ。あの何万という墨の点、いまならピクセルと言うのだろうか)。そして「スターウォーズ」のポスター。アメリカ人よりアメリカ的な画風に喝采を叫んだ。
ロバート・T・マッコール:あの「2001年宇宙の旅」のポスターといえば2010年に90歳で亡くなったボブ・マッコールだ。宇宙ものが中心なのだが、1970年のハリウッド大作「トラ!トラ!トラ!」のポスターは彼が描いたものだ。確か週刊プレイボーイだったか「君が描こうとして描けなかった絵」とかのキャッチコピーだった。凄い!雲間から満月がのぞき荒波をかきわけ真珠湾に急ぐ機動部隊、特殊潜航艇を積んだ伊号潜水艦、中央は比叡か霧島か?遠くに飛竜?零戦は映画用に改造したT6・テキサンだから少し寸詰まりだけれど、この迫力、このダイナミズム!それにしてもこの映画は黒澤明監督に撮ってほしかった。その辺の事情は『黒澤明 VS.ハリウッド』( 田草川 弘・著):文藝春秋に詳しい。
こんな絵が描きたかったから、雑誌やプラモデルの箱、本の表紙なんか見つけると切り抜いてスクラップブックに貼って保存していたのだが、いつのまにか散逸してほとんど残っていない。でも忘れないよ。
10/ 11th, 2011 | Author: Ken |
Box Art / Oldies and Goodies アメリカン・ドリーム
パックス・アメリカーナ…第二次大戦に勝利し超大国としてアメリカの全てが輝いていた時代。オールディーズ&グッディーズ、そこには人種問題も?貧困も?格差も?エネルギー問題も?核の脅威も?なく、楽天的陽気と機械文明礼賛とハリウッド的能天気が充溢していた。
敗戦国の少年としてGI(進駐軍)が捨てていった古本の「LIFE」「Seventeen」「McCall’s」「Esquire」「New Yorker」「TIME」などの雑誌は目眩く夢の世界だった。そのカラー刷りの広告にはシズル感たっぷりのステーキや輝くばかりの新車が妍を競って艶やか此の上なかった。まだ日本では木炭車や三輪のバタバタさえ珍しかったのだ。そして「スチュードベーカー」、この響きにはカルフォルニアの陽光とラッキーストライクとバーベキューの香りが立ち上るのだった。やがて冷戦の影が忍び寄り、朝鮮戦争、キューバ危機、ヴェトナム戦争、繁栄の裏側も知られるようになった。60年代、まだ雑誌はきらびやかな広告に溢れていた。
いまは無きPONTIAC・ポンティアック車の広告なんて!AF/VK、アート・フィリッツパトリック(自動車描写)とヴァン・カウフマン(背景描写)のコラボレーションによる イラストレーションはあまりにもカッコ良過ぎた。
http://www.fitz-art.com/home.htm …こんなの見ると僕の絵なんてとても恥ずかしいけれど。Studebaker champion 1950だ。それはアメリカのライフスタイルの理想なんですね。ぼくもこんなイラスト(レンダリングやパース:当時は筆による手描きだった。いまやレンダリングといえばPCの3Dだ)が描きたくって水張りケント紙にポスターカラーで随分努力したのだが…..。とてもとても描きゃしない。だって背景の生活感なんて未知の世界だものね。またDBBによるVW・カブトムシの広告もそのアイディアに脱帽したものだ。日本にもアドバタイジングという言葉が定着してきて広告業界の仕事は憧れの的だった。
…いまは半分後悔しているけどね……いつしかネット時代になり全てはPC作業、デジタルが空中を飛び交う世界だ。ぼくも毎日PCお相手にイラストレーションも大部分はPCで描くが、マニュアルを決して忘れないつもりだ。だってそうでしょう。手や指先で描けない人がどうしてモニターやタブレットやキーボードで描ける?….ぼくって古いのかしら
9/ 26th, 2011 | Author: Ken |
Nose Art/「フライヤーたちのヴィーナス」。
飛行機乗りのヴィーナス。そう、主に第二次大戦のアメリカ軍用機に描かれた美神たちだ。殺し合いの道具にピンナップガールや様々なアイコンを描いたのをノーズアート・Nose Artという。いかにもアメリカ人らしい発想でエスクアイア誌なんかの折り込みページのアルバート・バーガスやピーター・ドライベンが描いたセクシーなバーガス・ガールの絵をみて、ちょいと絵心のあるやつが、そいじゃオイラが描いてやろうと故郷の恋人や女優を機体の愛称にしたのだ。もちろんA-I、A-2やB-3ボマージャックにもド派手なのを描いている。
その下手さ加減が何ともいいんだ。わが帝国陸海軍は「かしこくも陛下よりお預かりした…..」で、とてもそんなものは描けなかったけれど、しかし末期には勇気を鼓舞するために稲妻や矢印、虎の絵なんかを描いている。
古くは第一次大戦のレッド・バロンことリヒトフォーヘンの真っ赤に塗られたフォッカーDr1やギンヌメールのコウノトリが始まりだろう。日本では加藤隼戦闘隊で有名な胸に描きし赤鷲の…か。そしてフライングタイガースの機首に描かれたシャークマウス、これはヴェトナム戦争のF4ファントム、現代ではゴツい地上攻撃機A-10まで続いている。
まあ、殺戮道具に陽気な絵を描く神経は日本人の考えとは相当に隔たりがある。アメリカのエスクアイア誌の初号(1934年)から戦前戦後のバックナンバーの殆ど見た事があるのだが、あの30〜40年代にその贅沢さ、ファッションのカッコ良さといったら…、華麗なるギャッビーを彷彿させるのだ。戦前に豪華な車、冷蔵庫、テレビ、ゴルフ、テニス、イブニングパーティ、カクテル….。フェローズの描くファッション・ページを見ただけで「ああ、こんな国ととても戦争なんてできゃしない」と思ってしまう。当時の日本人のホンの一部を除いてエスクアイア誌なんて知らなかったし(20年代からのモボモガ新青年も30年代になると戦時色に塗りつぶされていく)、たとえ見たとしても「アメリカは贅沢に慣れ怠惰である。色情に溺れ困難に打ち勝つことができない弱兵である…」。
硬直したこんな科白を本当に吐いていたのだから、その世界観たるや。だからB29のノーズアートを見ても、戦争に真面目さが足らん!と怒ったのじゃないだろうか。いまじゃもう、アメリカでSUSIなんか食ってる連中ね、SUSIはヘルシーでオシャレでインテリジェンスがあるなどと宣う。またN.Y.の街や地下鉄は一頃、落書きだらけで恐ろしく汚かった。それもアートだとさ。隔世の感がありますね。