11/ 27th, 2017 | Author: Ken |
Men’s Wear/1965
Barn archive/物置アーカイブ:メンズファッションの世界に入って、右も左も分りゃしない。その頃手にしたのがMen’s Wear誌の特集(1965)だった。ウーン、こんな歴史があったのか!当時、トラディショナルやオーセンティックなんて言葉を憶えたばっかりだったから、英語もよく分らないのにボロボロになるまで眺めましたね。・・・そういえば親父の戦前の写真なんかソフトに三揃え、靴はサイドゴアブーツ、お袋の髪は二百三高地(ほら与謝野晶子の髪型)だ。笑っちゃいますね。隔世の感を禁じ得ませんね。
11/ 27th, 2017 | Author: Ken |
GQ/Gentlemen’s Quarterly
Gentlemen’s Quarterly
物置を整理していたら懐かしいものが出てきました。GQ1959〜だ。「Gentlemen’s Quarterly」は、何と1931年にアパレル・アーツとして創刊だって。「Esquire」より古いんだ。業界誌だったのですね。僕が手にしたのは60年代に古書店で手に入れたものだった。「Men’s Wear」「Esquire」「GQ」マッコールズ、ライフ、セブンティーン、ボーグ・・・その写真、イラスト、何もかもがカッコ良くてネ・・・異文化への痛烈な憬れだったんですね。頭でっかちの高校生でした。お恥ずかしい。
10/ 31st, 2017 | Author: Ken |
Wonder Blazer
ブレザーよ永遠なれ!「ワンダー・ブレザー決定的20の着こなし」。ブレザーの可能性を求めて・・・”CROSS EYE ” Cross Toshiyuki and DunMasters Model : Tsutomu Irie Blazer:Cross & Simon
11/ 29th, 2011 | Author: Ken |
モンティの古マント…..ダッフルコート。
コートの季節である。さてコートにも色々あるがダッフルコートとは不思議なものである。厚手のウールでフード付、止めは奇妙なトッグルと呼ばれる漁網の浮きである。ループは麻縄とくれば当然として漁師の防寒着だ。初めて見たのは「第三の男」でトレヴァー・ハワード扮する少佐であった。ベレとダッフルコート、いかにも英国の将校らしく映画を引き立てていた。その次は「ナヴァロンの要塞」だ。終わりのシーンで任務を果たしたD・ニーヴェンとG・ペックが駆逐艦艦上で着ているのだ。
あのコートは何なのだ。いつも疑問に思っていたのだが、あのVAN JACKETが発売したのだ。うーん、これか!とネイビー色を愛用していたのだがどうも雰囲気が違う。本物が欲しいルーツが知りたい…。ダッフルという言葉は毛織物の町オランダのデュフェルと知った。その頑丈な素材を漁師が着たことからこのコートが生まれたとも分かった。いつしか時が過ぎロンドンの古着屋で見つけた。とてつもなくヘビーで無骨なものだった。色はキャメルのみ。問いただしてみると第二次大戦時の英国海軍のユニフォームだった。それが戦後余剰物資となって民間に流れたものだ。なるほど、やっと納得がいった。そして厳寒のシェットランドへ着ていった。
吠え狂う海、ブリザード、さすがはノースランドの知恵だと最初はダッフルコートを楽しんでいたのだが、雪は染み込むは、重いは、冷たいは、で、こりゃナイロンやポリエスターの方が優れているナと思い知った。…だがダッフルコートには歴史とドラマが染み込んでいるのだ。あの冒険活劇小説の白眉、アリステア・マクリーンの「女王陛下のユリシーズ号」。そのヴァレリー艦長や勇士達を思い起こすではないか! これは対ソ連援助物資を、凍てつき吹き荒ぶ北海をムルマンスクまで運ぶ輸送船団と男の闘いなのだが、下敷きはPQ18コンボイの悲劇だ。Uボートの群狼作戦、ユンカース爆撃機の襲撃、戦艦ティルピッツの出動と極寒の闘いに手に汗握る展開だ。冒険小説の最高と讃える人も多い。「ナヴァロンの要塞」もマクリーンが原作だ。
そしてエルアラメインの戦いで有名なモントゴメリー将軍がダンケルク撤退時に漁師から贈られ、彼のトレードマークとなり「モンティの古マント」と呼ばれた云々…。こういう話を聞くと嬉しくなってしまう。
…かってDunMastersという会社でダッフルコートを作ることになった。もちろんノウハウはたくさん仕入れてあるから「モノ」そのものの高い完成度を作る自信はある。しかし後発の我々が市場で勝負できるのか?値段だって特別高いし….。英国のG社や国産でも多くのメーカーが競っているしね。…….そこで無い知恵を絞った。そうだダッフルバッグに詰め込み、それらしいドラマをタグで語ろう。ちょうどカーキの防水生地が余っているしベルトだって。そしてステンシルでそれらしき内容をバッグにプリントした。いかにもヘヴィーデューティだぞ!と。………一瞬で売り切りれましたね。つまり男物のファッションとは「男にだけ解る」楽しみの提供なのですね。
10/ 23rd, 2011 | Author: Ken |
彼は赤いジャケットで走り去った。
一着の着古したジャンパーがある。なぜか捨て去ることができないのだ。McGregor Drizzler:ドリズラー。この不思議な響きはDrizzle(霧雨)に対応するウォーターリペレント素材の名でゴルフ・ジャッケットであった。縦糸はレーヨンフィラメント、横糸ははコットン、織地はバックサテン。ゴルフ好きのアイゼンハワー大統領も着たことだろう。通称ドリズラーと呼ばれるのは両サイドのポケットにコードを入れたパイピングが施され、それが大きな特徴であり魅力なのだ。
それを一躍有名にしたのが1955年、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」だった。Leeのブルージーンズに真っ白なTシャツ、これはHainsだろう。そして真っ赤なドリズラーだ。映画ではNylon Anti-freeze・ナイロン・アンチフリーズだった。アウターシェルはナイロン・オックスフォード、ライニングはアクリルのボア。そのスタイルが生意気、ひねくれ者、ぞんざい、何ともカッコ良かった。アメリカ文化の象徴であり青春の蹉跌ですね….。
パックス・アメリカーナを謳歌していた50年代、そして冷戦とヴェトナム戦争の影が忍び寄る60年代、ジョージルーカスの「アメリカン・グタフィティ」は最後の輝きだろうか….。それをVAN Jacketがちゃっかり頂いてスウィングトップ(ゴルフの上着)名付け大当たりした。石津謙介先生、くろすとしゆき先生、やりますね。今はジャンパーと言う言葉も使われなくなり、フランス語のブルゾンとか、スポーツ系はウィンド・ブレーカーだ。
でも「理由なき反抗」も「エデンの東」も「ジャイアンツ」もジミーの映画は好きじゃなかった。何かコマしゃくれた面が厭でね。「暴力教室」のほうがずっと鮮烈だった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を聞くだけで興奮しますね。
One, two, three o’ clock, four o’ clock rock. Five, six, seven o’ clock, eight o’ clock rock.
Nine, ten, eleven o’ clock, twelve o’ clock rock. We gonna rock around the clock tonight.
そうそう当時、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」もどこがいいのかよく分からなかった。今読み直していると、若者が「大人になって読んでは駄目だ!その年代で読まなくちゃ」。..… ウーン、多分ライ麦パンを食べ過ぎ、ライ麦ビールを飲み過ぎたせいだろう。
10/ 17th, 2011 | Author: Ken |
Duster Coat…世間という塵、人生という寒風に…。
世紀の塵を払って、いま蘇るダスターコート。
時は1930年代、当時のダンディ達はドライブに出かけるのも大変だった。
ダスターコートにゴーグルの重装備、ピクニックバスケットには、まあワインとサンドウィッチ。
それだけに夢もあった、ロマンもあった。時間もゆっくりと流れた。
ダスターコートには軽く機能的で防塵、防寒、最新の知恵が込められていた。
そして「これは素敵だ」と街でもビジネスにも着るようになった。
時代が忙しくなり、エアーコンディションが当り前になると忘れさられていった・・・。
だが、そんなコートが今あれば!という男が、どこかの蚤の市(たぶんポートベロー、
いやクリニャンクールか)で見つけてきた。そこで細部まで当時そのままに復活させた。
…祖父が残していてくれたらという人に、屋根裏の古いトランクに入っていたらという人に。
半世紀以上前そのままの姿で、洗いをかけた、まっさらの古着だ。
….だなんて。昔こんなコピーでコートを作ったのです。
実はポートベローで古着を物色していたら妙なコートがあった。無双仕立て(リバーシブル)、スカーフを止めるタブだの、ボタンを外しても前が広がらない仕掛けだの、コートの裾の内側に脚を通すベルトだの不思議なパーツがいっぱいついている。こんな汚い古着のくせに値段を聞くとトンでもなく高い。たぶん熱心にさわりまくっていたから足元を見られたんだろう。….一体なぜこんな仕掛けが?それを着て、とあるカフェで一杯飲っていたら、人の良さそうな爺さんがコートを指差し「ダスター・コート!あれは30年代だったぞよ。わしが若い頃このコートを着てマイバッハ・ツェッペリンやデユッセンバーグ、トライアンフ、ノートンに跨がってウェールズやノルマンディーの海岸を走り回ったもんじゃ」。とのたまう。ふーん、それでか!閃きましたね。ダスターコートか!日本に帰ったら早速…。爺さんに一杯奢ってやったら、お若いの「これは世間という塵、人生という冷たい風を防ぎ、愉しみを包むコートだ。大事に着なされ」。と詩人のような言葉でワイングラスを差し上げた。やるじゃない!…このアイディアを生かしてプロダクトした。なかなかでしたよ。何着ももっていたのだが、かろうじて一着だけいまも大事に取ってあるんだ。 ブランドはDunwood・Dunlop Masters製だ。
4/ 3rd, 2010 | Author: Ken |
共和国から帝国へ、そして…。
BANANA REPUBLIC 「バナナ共和国」。いまもブランドはあるがこれは別世界のことだ。ぼくが好きなのは、あのカーキースで埋まった店のことだ。まず仰天した。入り口は象牙のブッ違い、店内には巨大なアフリカ象、傾いたジープ、岩が転がしてあり、天井からはゼブラ模様のセスナが吊り下がっていた。商品棚は竹と厚板で藤蔓で縛ってあり、それにサファリ・ジャケットやチノス、バッグや帽子がいっぱい置いてあるのだ。ここまでやるか!という面白さなんだ。
これはパトリシアとメル・ジーグラー夫妻が70年代後半に始めた店だ。そして、カタログのコピーが何とも人を食った文章だ。ブリティッシュ・アーミー・ショーツには、「まだ英帝国が創世記のころ、ただの一兵卒でも士官やジェントルマンのような服を着ていた。なぜかと言うと最高の仕立てはキュッカンバー・サンドイッチのようにブリティシュであるからだ…」(キュッカンバー・サンドイッチなんて英国の上流階級?しか食べないし美味しくない)、とか。
ポロシャーツには「ぼくは前から胸に鰐(ラコステ)を飼っていたのだが、近所の人たちを食べ始めたから止めた。胸にポニーを走らせているやつ(ラルフ・ローレン)、ぼくはそんな家柄じゃないし….、だから何もついていないポロシャーツがほしい」。
そして「夢見る人に、冒険家に、専門家に、 ディレッタントに、父さんに、母さんに、…ユニークな人のために、他にする事があって服なんてどっちでもいい人のために」なんて書いている。
服を売っているくせにね。この考え方に唸った。ふーん、知的お遊びなんだ。これを分かる人が笑いながら買うんだ。その考え方気に行った!とね。世界中にバナナを真似した店が出来たけれど、みんな大したことなく消えた。上ッ面だけ真似してコンセプトまで真似できなかった。…そしてバナナ共和国は全米に店を出し帝国を築き上げた。でも大きくなるとGAPに会社を売っちゃった。
名前は残ったけれど、当たり前の店と服になってしまった。時代の波だ、共和国の終焉だ。ぼくはもう着ないけれどバッグやカーキなんかを物置に大事にしまってある。
1/ 6th, 2010 | Author: Ken |
蘇るフラーイヤー魂。
革の匂いがセクシーだと? 男の匂いなんだよ。Type A-2フライング・ジャケット。時は1931年、その頃はまだオープン・コックピットでパイロットたちは白いスカーフをなびかしていた。それは馬革で作られ、風と寒さを防ぎ、動きやすく操縦士に好評を持って迎えられた。そして第二次大戦にはB17やマスタング、サンダーボルトに跨がった男たちのシンボルだった。出撃の守り神ピンナップガールなんかを背に描き、これが何ともポップでキッチュなんだね。アメリカ人というのは戦争の道具に鮫のジョーズやヌードや恋人の名前なんか描いたりしてスポーツ感覚なんだね。ノーズアートとって言うんだが、これが楽しい。わが帝国陸海軍なんかは、畏れれ多くも陛下より…。こんな神経では無理というもんだ。でもフクちゃんや千里の道を往って千里の道を還る、という虎なんか偵察機の尾翼に描いている。まあ、撃墜マークなんかも各国共通だ。戦いのなかにもロマンあり、第一次大戦の撃墜王リフィトフォーフェンも愛機フォッカーを真っ赤に塗って赤男爵と呼ばれた。日本人バロン滋野もフランスのコウノトリ飛行大隊のエースとして活躍した。パイロットには空を駆ける夢みたいなものがある。男の子なら誰だって憧れるもんだ…。これはANA創立45周年にA-2の復刻版を作ろうという企画があってぼくも手伝った。メーカーも米国で唯一空軍への供給を許されているクーパー・スポーツウェア社で、特別にこだわって作り限定販売だった。OFFICIAL U.S.ARMY AIR FORCE TYPE A-2。思い出のアイテムだ。
12/ 26th, 2009 | Author: Ken |
ボタンダウン。
ボタンダウンが好きだ。というよりシャツといえばボタンダウンになってしまう。きっかけは、ほら、あのVANですよ。最初に知ったのは。それから風聞に、やはりブルックス・ブラザーズが本物だよ。などと聞くうちにいつかナ!と思い込むようになった。
当時はそんなの手に入れるのは夢だったよね。横浜の「ポピー」にあるゾ、と行ったこともあるね。伝説ではポロ競技中に衿がバタバタしないように、ボタンで衿を止めていたのを見てJ・ブルックスが考案したというが、さて。初めてアメリカに行った折、ニューヘイブンのJ・プレスのやN.Y.のブルックスでやっと手にいれた。当時は隣が「アバクロンビー&フィッチ」「ポール・スチュアート」と感激したネ。してシャツはどうだったか?ウーン、アメリカ人の大柄にあわせてボディがやたらと太い。パジャマみたいだ。
いつしかメンズウェアの企画やデザインをするようになって、ヨシ!本当のボタンダウン・シャツを作ろうと頑張ったこともあった。輸入品でも何でも簡単に手に入るようになり、あの夢も薄れちまった。UNIQLOだって良くできているよ。オックスフォードの感じといい値段といい、製品としてはね。でも何か心に迫るテイストが感じないんだ。だからRLかBBを着ているんだが、あの熱い情熱で着た頃のほうが本当に愛していたんだね。もちろん今だってボタンダウン・シャツと聞くと一言、言いたくなるんだが。
12/ 22nd, 2009 | Author: Ken |
Kind of Blue
藍は藍より出て藍よりも青し、この藍染めのパンツ、ジーンズ誕生130年。カルフォルニアの金鉱堀の衣服がいまや世界を席巻した。
リーバイスだけで35億本以上生産したと言うから、その総数たるや恐るべし。歴史云々は今更なのでお調べいただくとして、かって国民服、人民服などのユニフォームがあったが、ジーンズは地球服だろう。何と言ってもジーンズは衣服の概念を変えたことが一番大きいのではないだろうか。それは「新品より着古した自然体が良い」という概念の転換だ。最近は最初からバイオ・ストーンワッシュなどでエイジング仕上げをしたのが高額で販売されている。これってどうなんだろ?ゴアゴアの木綿を繰り返し洗濯し、色が褪せ、洗い晒し、履き慣れ古びた方が美しい。破れや傷み具合が独特のテイストとなり自分の鋳型を作って行くのだ。あの洗い上げたジーンズに脚を通す感触、これは快感だ。ブルージーンズ、「愛着」という言葉に一番相応しい衣服だ…。
いまやジーンズはあまりにも当たり前の衣服になったが、時代の流れとは面白いものだ。かってジーンズで一流のホテルには入れなかった。こんなエピソードがある。私の姪が関西のお嬢様学校?と言われている神戸女学院に通っていた。ジーンズをみんなが愛用しだした。アメリカ人の女性教師が怒って「あなたたちはレディでしょう!それがジーンズなど野蛮な物を履いてくるなんて!」彼女は怒ってアメリカに帰ってしまった。頑なWASP精神の持ち主だったのだろう。隔世の感がありますね。
…しかしジーンズを作っているのは今じゃアメリカではない。アジア地域の少女たちが縫製しているのだ。その賃金たるや…。地球規模の格差なんですね。そのドキュメンタリーを見ていると複雑な気分になった。ジーパン・Gパン(三島由紀夫の「雨のなかの噴水」だったかジンパンと書いているね)アメ横や大阪の鶴橋に軍の放出品(ステンシルの文字がプリントされていた)、GIの古着を買いに行ったり、割れ物のクッションとして(浮世絵も茶碗なんかのクッションとして大量に海外に行ったそうだ)ジーンズが輸入?されたりしたそんな時代もあった。ブルージーンズ。Levi’s 501、クラシックの名こそ相応しい永遠のアイテムである。