6/ 22nd, 2011 | Author: Ken |
Black Swan
久々におもしろい映画を見た「Black Swan」。バレリーナが至高の芸術を目指して苦闘し、極めるお話かと思っていたのだが、何のなんの心理サスペンスでありサイコスリラー映画だ。……..バレェ「白鳥の湖」のプリマドンナを目指すニナ、清楚潔白、最高技能、そう、ホワイト・スワンなら完璧なのだが、「君は官能的で邪悪さを持ったブラック・スワンは無理だ」。と演出家に宣言される。
ここから彼女の苦悩が始まる。娘に自分の夢を託す母親(どこかキャリーの母に似ているね)、そして重圧と葛藤で精神崩壊を起こして行くのだ。ヒッチコック的盛り上げなんだが、ヒッチならもっとお上品でユーモアがある…。この映画は生々し過ぎるのだ。
老いて去って行くかってのプリマの無惨さ、置き換わる新しいプリマとしての自分。ブラックスワンを演じるためあえて危険な行為も厭わない。….幻覚と幻影、現実との交差、自らの肉体を自傷させる自虐性。そうとうにスプラッターだ。
…最後はライバルと争い殺人を犯すのだがだが….情熱的に、蠱惑的で、挑戦的で、完璧に踊り切ったブラックスワン。満場の喝采に包まれて、そして………この辺はE.A.ポーのウィリアム・ウィルスンみたいだね。多分…..そうじゃないかな。
主演はナタリー・ポートマン(あのレオンの女の子)振付師をヴァンサン・カッセル、監督はアダーレン・アロノフスキー。あの「π・パイ」、「レスラー」筋書きのあるドラマを演じる老いたプロレスラー、いいネ。…..それにしても我が国の映画は…無言。
8/ 7th, 2010 | Author: Ken |
The Road
垂れ込める暗雲、草木は枯れ果て、雨、雪、寒さ、飢え、すべてが灰に被われ、荒涼と廃墟の世界、襤褸の防寒着を纏いショッピングカートを押しながら父と子が行く。核戦争か小惑星の衝突か、天変地異が起った後の核の冬を彷彿させる死の世界だ。
その災厄の日に産まれた息子、10年が過ぎ母は自ら死を選んだ。一緒に死んで欲しいという母の言葉を拒絶し、少年と父親は生き延びるため南を目指す。道には人を獲物とする「人狩り」食人集団。父は1発だけ残った拳銃を少年に渡し「食われる前に銃口を口に入れ引き金を引け」と教える。そして自分たちは「善きもの」であり「魂の火を運ぶもの」であるから決して人肉は口にしないと…。
この神さえ死んだ絶望の世界で子どもの純真さだけが救いなのか?
ストーリーやドラマ性もさることながら、必見は映像である。CGを極力控え押さえることでドキュメンタリー的リアリズムを持たし、灰色に汚れ荒廃した世界が、優れた報道写真のような美しさへと転化される。今まで原作を超える映像の映画は無い「風とともに去りぬ」が唯一越えた映画だ。との伝説があるが、それは小説という文字の配列、読みから喚起され想像し、作り上げる自分だけの幻想と映像だからだ。だから他人が作ったものには違和感があって当然だ。しかし「ザ・ロード」は原作に忠実であるとともに、私の場合はデジャヴュのように共感でき再現された映像だった。それは規模は局地的かもしれないが「神戸大震災」で実感したからか?…
そして思わず前に読んだ「天明の飢饉」を想像してしまった。火山の降灰と寒い夏に、荒廃した土地を捨て人肉を食し彷徨する飢えた人間を….。飢渇、人間最大のタブーである食人、想像するだけで悍さに身震いするが、一線を超えれば常体と成りうるのも人間だ。
また少年があまりにも無垢に描き過ぎではないかと少し不満を感じたが。
あの「方丈記」にある養和の飢饉では「その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける」。とある。
愛し合う夫婦は、その愛情が深いほうが必ず先に死んだ。なぜなら、わが身より相手をいたわるので、ごくまれに手に入った食べ物も相手に譲るからだ。だから、親子となると、決まって親が先に死んだ。…確かにこれが「善きもの」であり「魂の火を運ぶもの」である人間の人間たる崇高さなのだろう。
愛する者のための自己犠牲は変わらないが、理解としてはキリスト教文化の欧米人と私たちは微妙に異なるとこだ。
●原作「The Road」コーマック・マッカーシー(2006年)ピューリッツァー賞を受賞。早川書房。
●映画「The Road」John Hillcoat 監督 ヴィゴ・モーテンセン、コディ・スミット=マクフィー、ロバート・デュバルほか出演。
★よくある終末物テーマで、「マッドマックス2」それをヒントに「北斗神拳」、父と子とショッピングカートで冥府魔道を彷徨うのは「子連れ狼」そのものじゃないか。関東地獄地震後の「ヴァイオレンス・ジャック」とか、他にも「オメガマン」等など…。
8/ 3rd, 2010 | Author: Ken |
Beautiful Islands
映画「ビューティフル・アイランズ」監督・プロデューサー・編集 – 海南友子を観た。気候変動による海面上昇や高潮の影響で水没の危機にある島々を描いたものだ。南太平洋の小国ツバル、イタリアのヴネチア、アラスカのベーリーング海峡を望むシシマレフ。
3年がかりの取材によるドキュメンタリーだ。人々の普通の暮らしに焦点を当て、音楽もナレーションも無く、自然の音や人々の会話を通してありのままの生活を見せる。伝統、祭り歌、狩り、文化気候も文化も異なる島で生きる人々。….それらがいま失われようとしている。「気候変動で、私たちが一体何を失うのか」と。その想いが詰まっているのだが….。
正直に映画は退屈だった。美しい映像もあるのだが何か訴えてくるものがない。「映してきました。どうぞご覧になってこの危機を感じてください」と言われても想いとは裏腹に「ああ、そうですか、こんな映像TVで見ましたよ」と。つい最近「不都合な真実」も映像や本で見たことだし、映画とは映像の説得性と深さの問題だ … 例えばコヤニスカッツィの映像の美意識、カット1つの完成度、凄い….。
(観客は15人、その半数は知ったひとだった。なんだ自主上映みたいじゃないかと。終了後、監督との懇談会があるので待っていたが、都合で来られなかった。お詫びとしてトートバッグを頂いた。だからあんまり辛口批判はよしておこう。いや、こういう映画をより多くの方々に見て欲しいから文句もいいたくなるのだ。シネコンにもかかりにくいマイナー映画だけれどぜひ見てほしい)
実は海面上昇についてもよく分かってはいない。紀元前1万6千年前に氷河期が終わり、その頃の海面は現在より100mも低かった。紀元前1万2千年前頃に上昇を始め、紀元前4千年前頃に最高に達し、現在より数メートルも高かった。また17〜18世紀は寒く小氷期であった。それから温暖化が始まり現在へと続く。地球規模の気候などまだまだ人間の知恵では計り知れない。
だからといって温暖化を放置するのではなく、その可能性を今から押さえておくのは重要だ。転ばぬ先の杖より沈まぬ先の予防だ。30年も前になるが「コヤニスカッツィ・平衡を失った世界」アメリカ大陸の原住民ホピ族の言葉でバランスを失った世界などを意味するを観た(最近またDVDで)。監督ゴッドフリー・レッジョ、撮影ロン・フリッケの高速度撮影と微速度撮影の映像が素晴らしい。
全篇をフィリップ・グラスの音楽が通奏低音となって響く。現代社会の現実、物質文明の極限を音と映像だけで描いたドキュメンタリーだ。大地、雲、海。ゆったりとしたテンポでそれらが淡々と流れ、やがてテンポがアップし、ビルが建ち古びれば爆破し、車がレーザー光線のように走り、膨大な人々が超高速で行き交い、めまぐるしく展開する。気ちがいじみ、分離し、バランスを失いつつある文明都市に巨大な月が昇る。エンディングにはコヤニスカッティの示す5つの意味が象徴的に提示される。私たちはそろそろ生活や生き方を変える必要があるのではないか?と自分が問われているのだ。
続編として1988年の「ポアカッツィ」、人間とは?労働とは?ガリンペイロを執拗に追うオープニング…。そして「ナコイカッツィ」。人間・自然・テクノロジーの関係を違った視点・観点から追っていく。地球に、環境に、人間に、伝統に関心ある方はぜひ見て欲しい。
7/ 22nd, 2010 | Author: Ken |
太陽がいっぱい
Plain Soleil ….最高の気分サ….。メロディーの美しさ故に胸が締め付けられるような哀愁と切ななさ、ニノ・ロータの音楽に美貌のトム(アラン・ドロン)。ルネ・クレマンのサスペンス満ち冴えわたる演出、あまりにも青く眩しいアンリ・ドカエの地中海と太陽・・・。
マルジェ(マリー・ラフォレ)の倦怠感と神秘性を漂わした風貌、金持ちの傲慢と尊大さフィリップ(モーリス・ロネ)。映画「太陽がいっぱい」1960年。あのころはフランス、イタリア、ヨーロッパ映画が輝いていた。ハリウッドにない洗練と皮肉、成熟した文化や芸術性とも言っていい魅力があった。小さいプロットにもそれらが散りばめられている。マルジェの論文テーマは修道士フラ・アンジェリコの絵画だ。そしてあのヨットの食事シーン。「フォークとナイフは金持ちに見せたければこう持つんだ」…..屈辱から殺意が芽生える…。
原作はパトリシア・ハイスミス「The Talented Mr. Ripley」。これにも金持ちを象徴するのにフィリップの父親がトム託す物、それはブルックス・ブラザーズの製品だ。これだけでその時代、その階級が分かる。
(余談だが同時代の軽妙さで鳴らしたヘンリー・スレッサーの短編「怪盗ルビー・マーチンスン」赤毛でドジな犯罪者なんだが、やはり宝石泥棒ではブルックス・ブラザーズのスーツにピンクのピンナップ・カラーで決めている。ウン、分かるよワカル…。貧しい日本の高校生としてはB・ブラザーズなんて遠い国の夢と憧れでしかなかった。ましてフィリップのクローゼットにあるストライプのブレザーなんてね…エスクアイヤーの世界そのものなんだから…)。
閑話休題、1999年にはマット・ディロンで「リプリー」が作られた。原作が同じというだけで別の映画だから比較するのもおかしいが、どうしても比べてしまうんだ。そりゃ、ドロンには憧れや卑しさも秘めた水も滴る美貌がある。ディロンの猿面じゃ勝負あり!
こちらの方が原作に忠実だし、時代性を考慮してモダンジャズをフィーチャー。でもね、悲しみがないんだよ。せつない青春がないんだよ。嫌らしい面が出過ぎるんだよ(アイラ・レヴィンの「死の接吻・赤い崖)1956年、1991年にはマット・ディロンでリメイク。これも最初のロバート・ワグナーの方がはるかによかったね。つまり、ラスコーリニコフやジュリアン・ソレルなんだよ観客が期待しているのは。
セオドア・ドレイサーの小説「アメリカの悲劇」の映画化、モンゴメリー・クリフトの「陽の当たる場所」。これも貧しい若者がはい上がるために…似ているね。まあ、大藪春彦の「野獣死すべし」伊達邦彦も同じ人種なんだ。時代ですよ。第二次大戦で価値観を喪失したり、また死をたくさん見てしまった人たちなんだ。年齢的にはバロウズ、ギンズバーグ、ケアラックなんかと同じビート・ゼネレーションなんだ。マイク・ハマーだってあのサディズムは戦争が作ったんじゃないかな。..ああ、話が横へそれてしまった。
お許しを。…それにしても今年の暑さはどうだ? 太陽がいっぱい過ぎるから、毎夕生ビールがいっぱいだ。
6/ 25th, 2010 | Author: Ken |
北北西はスリルの方位。
「北北西に進路をとれ」これは何を意味しているのだ? たぶんヒッチ独特のオトボケで意味なんてないのだろう。サウスダコタのラシュモア山はニューヨークやシカゴからは西で北北西じゃない。ノースウェスト航空だとかハムレットが気の狂った振りをして言う台詞 I am but mad north-by north-west.(私の気が狂うのは北北西の方から風が吹くときだけだ)とか諸説紛々である。
まあ、お固いことは言いっこなし。まずソール・バスのタイトルから素敵だ。斜めの線が交差してタイトルが映り、それがビルのガラスの壁面に変わる。プラザホテルのラグジュアリーな雰囲気(当時ケイリー・グラントはプラザに住んでいたので演技じゃないそうだ)。そしてあの見渡す限り真っ平のプレアリーというバス停留所でのシーン、飛行機に追いかけられ真昼の大空間が密室化するわけだ。冒険に次ぐ冒険でラシュモア山の大統領の顔の上でのアクション。巨大なモニュメントと小さい人間の対比がより緊張感をそそる。「逃走迷路」の自由の女神と同じ発想だね。ああもう墜落する….ロジャーがイブを引上げたと思ったら、それは寝台車の上段ベッド、列車がトンネルに入りエンドマーク。実際にこんなドラマは現実にある訳はないし、荒唐無稽のホラ話なんだが「嘘でいいんだよ!…映画なんだから」と大人の童話なんだ。上品でウィットが利いて、皮肉でユーモラスで、贅沢で美しく、
そして観客をハラハラ、ドキドキさせて喜ばす。ヒッチコック先生、あんたも人が悪すぎる…。
6/ 22nd, 2010 | Author: Ken |
さあ、気狂いになりなさい。
ヒッチコックほど観客を手玉にとる人はいない。計算し尽くしているのだ。プロットの中に巧みに地雷を潜ませておいて、観客の苛立ちと不気味さが頂点に達する時に爆発さすのだ。突発的ショックである。
会社の金を持ち逃げしたマリオンが、執拗にパトカーに追け回されたり、母親の話になるとにわかに目つきが変わるノーマン。剥製、雨、不気味な家から女性のわめき声。突如、シャワー、カーテンに影、顔、シャワー、ナイフ、悲鳴、足、排水口、血が吸い込まれていく。恐怖、ショック、エロティシズム、残酷、このカット割りの見事さ!おまけに主人公であると思わせていた人物が死んでしまうから観客は宙ぶらりんになってしまう。つまりサスペンスなんですね。
このシャワーシーンはタイトルデザイナーのソール・バスの絵コンテに基づくそうだ。そういえばアメリカ映画の制作背景には徹底した絵コンテ(まるで劇画そのもの)があるのだ。「間違えられた男」の絵コンテなんてそれはもう!ヒッチコックはシナリオにいっぱい書き込み、光と影と表情まで計算され尽くされ、映画を作る前に「絵」「カット」「演技」「流れ」によって紙の上で出来上がっているのだ。わが国では黒澤明監督の絵ぐらいしか知らないが、この辺が違うのだ。
最近の邦画やTVはレンズの性能が上がりデジタルなのでベタ光線、何ともツマラない陰翳の表情のない平面的画面ばかりだ。制作者の美意識の劣化は眼を背けたくなる。見ていてこちらが恥ずかしくなるから、まず映画館には足を運ばないし、こんなものに金を出したくない! あの黒澤明、小林正樹、木下恵介の素晴らしいシナリオと映像は何処へ行ってしまったのだ。くたばれ!頭の悪いお子様ランチ日本映画め!…..スマン、スマン、つい激昂して。
…..閑話休題、そして映画には感情同化作用があるので、ついノーマンに同化してしまい、あの車を沼に沈めるシーン。沈んでいくと途中で止まる。オイオイと観客に思わせて一呼吸おいてまた沈む。心憎いね。そして探偵が突如襲われ顔のアップから階段を転げ落ちるショッキングさ。….最後のシーン、ノーマンの気味悪い顔に母親の木乃伊、骸骨の歯が重ねられる。恐さが余韻を引くのですね。
ヒッチコック先生、ここまで観客を嬉しくも、いたぶり、なぶりものにするのか! 裏でおとぼけヒッチの顔が浮かびますね。
6/ 19th, 2010 | Author: Ken |
ヒッチ賛。
サスペンス神様、スリラーの巨匠、プロットの天才、映像の魔術師、スリラーの帝王、おとぼけとマクガフィン…。
いくら賞賛の言葉を羅列しても映画を見りゃ納得する。大統領の顔の上を逃げ回り、鳥の群が襲い、裏窓から覗き見をし、列車から貴婦人が消え、高所恐怖症にさいなまれ、間違えられて危機一髪!…。ハラハラ、ドキドキ、イライラ、ゾクゾク、ワクワクなど、心理的オノマトペアが盛りだくさん。
そう、サスペンスとはズボン吊りのサスペンダーと語源は同じ。宙ぶらりんの状態に置くと言う事。ヒッチコック先生、あんたはエンターテインメントの王様だ!イギリス時代の古い作品は別として何回繰り返して見ただろう。「独断と偏見」という思い上がった厭な常套句を使わせていただくとして、そこで私なりの順位をつけてみる。
1.「サイコ」1960:ロバート・ブロック原作、結末は喋るな!と箝口令。シャワーシーンのゾクゾク感、たまりませんね。
2.「北北西に進路をとれ」1959:完成度は一番。タイトルはあのソール・バス。突如飛行機に襲われ、これは007の「ロシヤから愛を
こめて」が頂いていた。そしてラシュモア山の大統領の顔の上で…。恐いですねー。カッコいいですねー。お洒落ですねー。
3.「鳥」1963:T・ヘドレンの背景のジャングルジムに烏が一匹、また一匹…。おい気がつけよ!カメラがパンすると真っ黒に。
4.「裏窓」1954:動けない。カメラの視点で裏窓を覗いていると。….アイディアの勝利。
5.「見知らぬ乗客」1957:あのライターが排水溝に落ちて拾おうとするシーン、イライラ、ゾクゾク、ヒッチの笑い顔が眼に浮かぶ…。
6.「めまい」1958:話は上手すぎるけれど、当時は精神分析が大流行だった。カウチに寝そべって催眠術なんか..。あの頃ヴァンス・パ
ッカードの「隠れた説得者」やスキンナーのネズミの実験、マズローの欲望の段階なんかの心理学が人気の時代でしたね。
7.「逃走迷路」1942:自由の女神のトーチでのアクション、高所恐怖症には刺激が強すぎる。「北北西に進路を取れ」の原点ですね。
8.「ロープ」1948:知的サスペンスそのもの。まるで舞台劇を見るような…。
9.「海外特派員」1940:あの、こうもり傘が群がるシーンだけでも必見。
10.「バルカン超特急」:これはジョディ・フォスターの「フライトプラン」がそのままパクっていましたね。
いや、「泥棒成金」も「白い恐怖」も「引き裂かれたカーテン」も「ダイヤルMを廻せ」も「レベッカ」も「救命艇」も、みんなみん
な…。品性があってユーモアとおとぼけ、シルバースクリーン(銀幕と言ったほうが)の中だけに存在する美女、映像の美しさ、カメ
ラワークの見事さ、そして光と影の絶妙さ!すっとぼけたヒッチのメタボのシルエットが何とも素敵だが、テリブル・シンドロームは
もっと素晴らしい。アルフレッド・ヒッチコック先生に乾杯!「ヒッチコック・マガジン」「ヒッチコック劇場」…ぼくの青春だった。
5/ 29th, 2010 | Author: Ken |
Yes, Sir ! Aye, Sir ! … 兵士になるということ。
「ONE SHOT ONE KILL・兵士になるということ」映画を見た。海兵隊の新兵の12週間にわたる訓練ドキュメンタリーなのだが、いままでに「フルメタル・ジャケット」「ハートブレイク・リッジ」「GIジェーン」とかたくさんのアメリカ製戦争映画を見て来たので、いまさらブーツキャンプ映画を見てもああこんなものかと。
ドキュメンタリーでありのままを淡々と描き、判断するのは観客だ。と言われても正直に映画は退屈だった。入隊、軍曹が怒鳴りまくり48時間眠らさない(旧日本軍では娑婆っ気を抜くとビンタ)、マーシャル・アート(昔ベニー・ユキーデという格闘家がいたね)。ライフル射撃、演習風景が延々と続く…。マイノリティやカラードの貧しい階層の若者が軍隊をステップとして上昇したい、自分を試したい。そんな普通の若者を「戦争機械」として作り上げる軍隊という機構、彼らは次により専門的訓練を受け、ジャーヘッドでレザーネックの殺しのプロフェッショナルとして海外の戦場に行く。そして殺し殺され傷を負い悲劇が連鎖していく。この映画に出演していた若者もいま沖縄やイラク、アフガンにいるのだろうか。死んだ者もいるのだろうか。
…私が子どもの頃には戦争から帰った大人がまわりにいっぱいいた。戦争の自慢話、虐殺の話、内務班の陰惨な虐め(野間宏の「真空地帯」、五味川純平の「人間の条件」に克明に描かれている)ビンタやバッターでぶん殴られた話。飢餓の話、ラーゲリの話…。それがどこにでもいる普通のオジさんたちであった。
「御国のために」「天皇のために」「国防」「平和と正義のために」…..。美しい言葉と同時に「人間は自分の属する社会や組織に対する忠誠のために喜んで人を殺すのだ」。裏でそれを平然と命令し煽り立てる人間がいる。「最近の若者はだらしない。軍隊に入れて鍛えればいい」こんな発言をする爺さんや企業家がいる。地獄の特訓だとさ。その若者は君の息子じゃないか!
「愛国とは悪人の最後の逃げどころ」とは真実を突いている。… 国体護持という名目のためにどれだけ多くの兵士と市民が死んだのだろうか。国体とは何なのだ?兵士と市民の死を犠牲にして権力を謳歌し、武器で儲け、戦争で儲け、自分とまわりだけの幸せを願う。勝手なものだ人間は。
●ONE SHOT ONE KILL…兵士になるということ...藤本幸久/監督、製作・著作/森の映画社
●「兵士に聞け」「兵士を見よ」「兵士を追え」杉山隆男 小学館文庫:自衛隊の兵士の立場から見、密着したノンフィクション。
3/ 6th, 2010 | Author: Ken |
おお! 降るような星空だ。
そのころ2001年は遠い未来だった。あと30年以上も…。1968年、大阪・OS劇場の湾曲した巨大スクリーンに呑み込まれていた。この映画のために作曲したかとも思えるリヒャルト・シュトラウスの「ツアラトゥストラはかく語りき」。それだけで魅入ってしまった。宇宙船がダンスを踊るように優雅な「美しき青きドナウ」、神秘に誘うハチャトリアン、リゲティの音楽。それまでのSFを稜駕するどころか陳腐化してしまった。ピカピカのV2号のような宇宙船、電子音、電球が点滅するコンピュータや計器類。そんなものが消し飛んでしまったのだ。まさに頭脳に一撃だった。アーサー・C・クラークとキューブリックの眼も眩む斬新さに酔った。これぞハードSFだ。そのために科学考証に耐えうるか、間違いかの論争がいまだに絶えないが、それは出来が良過ぎるからに過ぎない。確かにソ連は崩壊していないし、PANNAMも消えた。モニターはブラウン管だし、TV電話はあるが携帯電話もパソコンも出てこない。しかしこの映画のために作ったフォントは今だって現役だ。まだCGもない持代だからワイヤーフレームも手描きだそうだ。ストーリーはシンプル、アゥストラピテクスからホモサピエンス、そして超人類へと….。クラーク永遠のテーマだ。ただ、あのバロック調の部屋のシーンは少し頂けないと思った。あれが無きゃ完璧なのに…。キューブリックの趣味なのだろう、後に17世紀を舞台にしたバリー・リンドンを作ったことだし…。とにかく今でも色あせないSF映画の金字塔だ。今まで何回見たのだろうか? …いつのまにか2010年になってしまってはいるが。
2/ 23rd, 2010 | Author: Ken |
Twilight Zone
ほら、耳を澄ませてごらんなさい。聞こえてきませんかあの音が。…光と影のはざまにある世界、科学と未知の境、人間の持つ最も奥深い、恐怖と叡智の境に横たわる、想像の羽ばたく世界、それがトワイライトゾーン。かってこんなに面白い番組があったのだ(歳がバレますが)。ほんとうに不思議な気持ちになって眠れなかった。
「遠来の客人」荒涼とした土地で一人で住む女性。屋根裏に奇妙な音がした。UFOが墜落していた。そして小さな異性人が。女は斧でUFOとロボットのような異星人も壊す。UFOにはアメリカ空軍の文字が…。巨人の国だったのだ。オチに相当無理があるがなかなかの物だった。
「33号の漂流」ニューヨークへ向う33号機乱気流にあう。管制塔にも無線が通じなくなる。マンハッタン島が見えた。島や河は見えるのにニューヨークの街がない。そこには恐竜が見えた。時間の裂け目に迷い込んだのだ…。
「火星人はだれだ」湖に空飛ぶ円盤が落ちたと州警察に通報があり警官が現場にやってくる。足跡が残され、たどって行くと街道沿いのカフェに続いていた。マスターと客7人がいた。バスの運転手と乗客だ。運転手によると客は6人だったという。しかし店にいる乗客は7人。みんなは疑心暗鬼になる、誰かが宇宙人?バスは発車した。乗客のひとりがカフェに戻ってきた。男は3本の腕でコーヒーを飲む。火星から偵察に来たと…。マスターは帽子をとり三つ目を見せ、自分は金星からだ…。
まあ、こんな調子なんだが、特撮はチャチだが面白いの何のって。ロッド・サーリング、リチャード・マチスン、チャールス・ボーモントの原作が多いが、60年代の最高の書き手がシナリオ作りをしたのだから面白くないはずがない。
トワイライトゾーン、逢魔が時だ。後にスピルバーグが映画化したが原作は越えられなかった。やはりアイディアの新鮮さこそが生命なのだ。この全シリーズをDVD化してほしいね。おや?外を見るともう黄昏だ。ブログを置いて飲みにでも出るか。
トワイライトゾーンへね。