2/ 19th, 2010 | Author: Ken |
ゆきゆきて…
「生涯観た映画の中でも最高のドキュメンタリーだ」マイケル・ムーア監督。リップサービスだろうが頷ける。神戸有馬街道沿いの荒田町界隈だったか、手書きの巨大看板と、これも看板だらけの街宣車を見た。奥崎謙三の店だ。
天皇パチンコ玉事件は新聞で知っていたし「ヤマザキ、天皇を撃て!」の本も読んだことがあった。原一男監督のドキュメンタリー「ゆきゆきて神軍」が封切りと言うので梅田の奥にある映画館まで出かけた。彼は酸鼻を極めたニューギニア前線の生き残りである。その上官による部下射殺事件と食人事件の真相を求め、執拗に食いつき追求するのだ。
手段は過激そのもの、聖なる目的のためなら嘘も暴力も厭わない。どうぞ逮捕してくださいと自ら警察に電話する始末だ。ここまで確信犯だと誰も手が出せないのだ。飢餓地獄のニューギニアを生き残った者には恐れる事などないのだろう。
しかし、ドキュメンタリーとはこちら側にカメラ、監督、スタッフがいるのだから、彼はどうしても演技をしてしまうのだ。カメラの眼があるからこそ、高揚し、激昂し、泣き、滑稽でもあり、醜悪でもある。正直にドキュメンタリーの凄みはあるし面白かったが、アブノーマルの悲しみと白けを感じた。
ノンフィクションでは岩川隆「神を信ぜず」BC級戦犯の墓碑銘、フィクションでは結城昌治「軍旗はためく下に」など理不尽な戦争を描いた作品もある。戦争を知らない世代にとって太平洋戦争とは何だったのだろうか。…せめて史実や本や映像で学びたいと思う。
2/ 4th, 2010 | Author: Ken |
審判
「The Trial・審判」1963 原作:フランツ・カフカ 監督:オーソン・ウェルズ 出演:アンソーニー・パーキンス、ジャンヌ・モロー、ロミー・シュナイダー、エルザ・マルチネリ。奇才、異才、鬼才、怪優、怪演、オーソン・ウェルズがカフカの世界にトライした。画期的な「市民ケーン」以来、「偉大なるアンバソン家の人々」「上海から来た女」など細部には眼を見張るところがあるが映画としては失敗作だ。しかし「審判」は彼の才能が遺憾なく発揮されている。カフカ的悪夢の世界だが、オープニングは「城」から始まる。法という城門に男が入ろうとする。彼は入ろうとするのだが堂々巡りするだけだ。そこには誰も来なかった。そこは彼のための法の城門だったからである…。ジョゼフ・Kは普通の男である。ある朝検察官が刑事とともにやって来た。Kは罪に問われたと言う。何の罪かは検察官にも解らない。法廷、インチキ裁判、叔父、弁護士、女、裁判所所属の画家。誰もKを救う事ができない。夜明けにKは逮捕され、荒野のような空き地で犬のように殺された。
不条理、ナンセンス、蛇が自分の尻尾を飲み込むウロボロスのような終わりのない苛立ち。Kは何故、不条理にも殺されなければならないのか。…. 近づく全体主義の不安か?ナチスの軍靴の音か? 官僚機構のがんじがらめの社会か?
映画はモノクロームのコントラストを強調して美しい。廃駅ガール・ドルセー(現オルセー美術館を使ったセットなど驚くほどの凝り方だ)。音楽は自らを音楽貴族と呼んだディレッタント、トマゾ・アルビノーニのソナタ(アダージョ)が効果をあげている。
しかし、バロック音楽というと必ず取り上げられる名曲だが、アルビノーニの作ではない。レモ・ジャゼットという音楽研究家が、ザクセン国立図書館から受け取ったアルビノーニの自筆譜の断片をもとに編曲したというが、アルビノーニの証拠はどこにもなく、「ト短調のアダージョ」は完全なジャゾットの作である。でも、99%の人がアルビノーニと信じている。(僕もそうだった)
(松田優作の「野獣死すべし」にも使われていたがひどいものだった。アルビノーニに失礼だろう)。
このカフカの不可思議な小説を巡って様々な論があるであろう。しかし、この映画はオーソン・ウェルズの「審判」だ。理解しようとするほど理解できない仕組みである。彼の最終作「フェイク」は現実かマジックかが混在し解らないのがフェイクという、人を食ったやり方。そこがウェルズだ。彼の哄笑が聞こえてくるようだ。
1/ 31st, 2010 | Author: Ken |
拳銃無宿
「銃はただの道具です。斧やスコップと同じように使う人間次第で良くも悪くもなる」シェーン。マリアン「銃なんて一丁も無ければみんなが幸せに暮らせるのに…あなたの銃も含めて」。シェーンにこんな台詞が出てくる。マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」じゃないが、この台詞は現在のアメリカ社会においても切実な問題だ。アメリカに行ったらスポーツ店で拳銃やライフルがゴロゴロ置いてあってひどく違和感を感じたものだ。
男の子は拳銃が好きだ。ぼくも肥後の守(懐かしいね)で木切を削って拳銃をこしらえた。ガンベルトも作って随分と抜き打ちの練習をしたもんだ。手製拳銃を作って紙火薬で撃ったり(今なら警察ものだ)危険な遊をした事もある。戦後、西部のガンマン、ケニー・ダンカンなんて妙な芸人が日本に出稼ぎに来て曲撃ちを劇場で披露した。考えてみると、映画館の舞台でぶっ放したら危なくてしょうがないよね。空砲と手品みたいなもんだったんだろう。ぼくは見に行きたいと痛切に願ったがかなわなかった。
そして大藪春彦大先生が「野獣死すべし」「凶銃ワルサーP38」「ルガーP08」と、やたらと銃器に詳しいんだ。その頃ヒッチコック・マガジンというお洒落な雑誌があって「拳銃特集」、これにハマったね。ホローポイント、ショートリコイルやブローバック、9mmパラベラムという有名な弾丸なんて言葉をこれで憶えた。このパラベラムとはラテン語の格言から来ている。Si vis pacem,para bellum.(汝平和を欲するなら戦争に備えよ)だとサ。
……まあ、アメ横・中田商店のモデルガンなんか持っていたけどいつのまにか他人にあげちゃった。人を撃つ以外に使い道のない殺人道具に興味がある訳でも好きなわけでもない。その形態とメカニズムに憧れているだけなんだ。
最後に「ダーティー・ハリー」だ。また台詞もいい Go ahead. Make my day.(やってみな。楽しませてくれよ) you’ve got toask one question:”Do I feel lucky?” Well do ya, punk!(賭けてみな、“ 今日はツイてるか? ”どうなんだクズ野郎!)」。
特に2作目は拳銃ファンにとって垂涎ものだ。題名から凄い「マグナム・フォース」だ。廃棄空母での戦いで、殺し屋が暗い艦内ではイェローのレイバンに替え、357マグナムで迫るシーンは涙ものだネ。そうだ44オートマグは何作目だったっけ?
1/ 29th, 2010 | Author: Ken |
奇妙な味の映画
観終わったあと奇妙な感触が残り忘れられない映画がある。「泳ぐ人」もその一つだ。導入部から奇妙なのだ。夏の午後アッパーミドルクラスのプールサイドで人々が談笑している。林をかき分け水泳パンツ一つの男が入ってくる。筋骨の逞しさを誇る肉体の持ち主だ。
皆が噂する「ぜんぜん変わらないね」「元気かい、娘さんたちは?」「ああテニスをね」。彼は眩しそうに空を見上げ「そうだ!泳いで帰ろう」。友人たちのプールを泳ぎ巡って家まで…。
かって彼に彼に憧れていた少女が、両親がかまってくれない裕福で孤独な少年、空のプールを泳ぐ真似をして渡る、ヌーディスト主義の夫婦、成金のパーティ真っ盛りのプール、プチブルたちの虚栄。….だんだん男のヴェールが剥がされてゆく、ウェイターも邪険に扱う、昔の愛人のプール….相手にされない、嘲笑される。男の裏面と過去が暴露されるにつれ内面が浮かび上がってくる。ハイウェイを渡り公営プールにたどり着く、入場料がない。出入りの食料品屋が蔑んだ眼で出してくれた。「脚を洗え!」監視員が命令する。屈辱的だが言葉に従いプールに入る。
食料品屋が毒を含んだ嘲笑を浴びせる「なんだ偉そうに!ジャムはフランス製でないとなんて言ってやがったくせに…」。人混みのプールを泳ぎ渡り、裏山の岩壁を登り家にたどり着いた。そこは荒廃し庭もテニスコートも寂れ放題だ。廃屋の匂い。嵐がやって来た。深閑とした家には人の気配もない。「寒い」… 雨に打たれながらドアにすがりつき呆然とうずくまる…。奇妙な味が後を引く映画だ。
「泳ぐ人」THE SWIMMER(1968) 監督:フランク・ペリー、主演:バート・ランカスター 原作:ジョン・チーヴァー(1964)
1/ 24th, 2010 | Author: Ken |
MJはアンドロイドの夢を見るか
アンドロイド、ヒューマノイド、サイボーグ、マイケル・ジャクソンにはそんなイメージをもっていた。もちろん「Beat It」「Thriller」「Bad」はMTVで楽しんでいたし、アル・ヤンコビックのパロディ「Eat it」「 Fat」には大笑いした。インド製のスリラーもなかなか楽しめた。
最高に傑作なのは「セレブリティ・デスマッチ」有名人のクレイ人形がプロレスをするのだがハチャメチャ残酷。これにマイケル・ジャクソンvs.マドンナがあった。リングの廻りは塩酸プールだ。マドンナがマイケルを投げ込むと「オッ!みるみる顔が溶けていくぞ、400万ドルもかけた顔が!」なんて解説している。まあ、怒りなさんな所詮ドロ人形のお遊びなんだから、と…..。
THIS IS ITを見た。マイケルを誤解していたようだ。これはプロ中のプロだ。己を叩き上げ錬磨に錬磨を重ねたサイボーグだ。スポーツ選手が激しい鍛錬で肉体改造を行い、筋肉増強剤まで使う以上に凄い。エンターテナーとしてより高みに登ろうとして整形手術さえ行う究極のプロ魂だ。あのダンスにしても人間業とは思えない肉体を酷使し磨き抜いた技だ。そしてそのなかには人間マイケルがいる。心の内を誰が知り得よう、ヴァーチャルのスーパースターだってね。永遠のエンターテナーだ。
1/ 21st, 2010 | Author: Ken |
フィルム・ノアール
フィルムノアールと言えばジャズが聞こえてくる。50〜60年代のフランス映画に興奮したものだ。その日本名がよかったね。「殺られる」「墓にツバをかけろ」「現金に手を出すな」なんて。そして音楽がジャズなんだ。「危険な関係」「大運河」映画そのものは大したことはなかったけれどMJQの透明な響きとヨーロッパ的洗練が随分とお洒落だった。
そのなかでも「死刑台のエレベーター」若干25歳のルイ・マル監督、これは映画の面白さを堪能させてくれた。これぞヌーヴェルヴァーグだ!完全犯罪を企てたがエレベーターに閉じこめられる。その悪あがき、焦燥。そうとは知らないジャンヌ・モローがパリを彷徨う。バックにマイルス・デヴィスのトランペットがむせび、すすり泣く…。
現像液から二人の写真が浮かび上がる … FIN。
ぼくはジャズ少年だったから無理をしてトランペットを買ってマイルスをコピーしたね。ああ恥ずかしい。もう指使いも忘れてしまったが…。映画が映画であった時代だね。… Je t’aime
黒い映画も最近は見かけなくなったと思っていたら、ありました。「あるいは裏切りという名の犬」監督・脚本:オリヴィエ・マルシャルだ。ジャン=ピエール・メルヴィルを彷彿させますね。フィルムノアール健在なりだ。
「死刑台のエレベーター」監督・脚本:ルイ・マル 原作:ノエル・カレフ 撮影:アンリ・ドカエ 音楽:マイルス・デイヴィス 出演:モーリス・ロネ ジャンヌ・モロー リノ・ヴァンチュラ
1/ 18th, 2010 | Author: Ken |
鬼火
何かの拍子に心に沈積する澱みたいなものが微かにかき乱され、無意識の底から立ち上る憂鬱の痼りというか、ふと面妖な気持ちになることってありませんか。群衆のなかにいながら急に孤独感に襲われるとか、深夜の雨音とか、酔った体で人気の無い街を歩いている時とか、エリック・サティの旋律を聞くとそんな気持ちになるのですが…。
グノシェンヌ、これはグノーシスなんでしょう。古代ギリシャ語で認識・知識を意味する言葉で、自己の本質が神の認識に到達することを希求する思想だそうだ。…1890年作曲。拍子記号も小節線もなく、音と時間を考えさせられる。
「鬼火」Le Feu follet (ゆらめく炎)ルイ・マル脚本、監督。 サティの印象的な旋律を背景に、抑制の効いたモノクロームの画面がアルコール中毒の男が死に至るまでの48時間を描く。…友人に会いに行く。所詮、他人は他人、みんな日常という俗物になっている。喧噪と雨の夜のパリを彷徨う。背景にサティの音楽、彼を救うことは誰もできない。ドラマもない、感動もない、何も無い、僕はみんなを愛したかった。誰も愛してくれなかった。「僕は死ぬ。君に愛されず、君を愛さなかったから。お互いの間が緩んだから。死ぬことで、僕の烙印を君に残そう」銃口を胸に引き金を…。…確かATGで見たのだろうか?40年も前だ。
12/ 16th, 2009 | Author: Ken |
憑依
「ルーダンの憑依」ミシェル・ド・セルトー/矢橋徹訳 みすず書房
1632年9月末、フランスの地方都市ルーダン、ウルスラ会修道院長のジャンヌ・デ・サンジュに悪魔が憑依した。… 悪魔はほんとうに現われたのか? 神学者=歴史家の著者セルトーは、厖大な原資料から冷静な眼で読説き、集団憑依事件の「真実」を浮かび上がらせてゆく。猛威を振るったペストの恐れか? 宗教戦争による根底的な社会不安か?医学、神学、科学革命を目前に過渡期の懐疑主義の揺れか? 宗教的時代が終わりを迎え、近代が始まろうとする歴史転換期の不安か? 修道院という閉鎖的集団による性の抑圧か?憑依者=修道院長デ・ザンジュ、魔法使い=主任司祭グランディエ、裁き手=男爵ローバルドモン、悪魔祓い師=神父シュランが演じる悪魔劇だ。役者、観衆という舞台で演技してしまう人間。多重人格、催眠術なども術者と被験者との無意識の演技ではないのか。… 幕末のお陰参り、ナチズム、一億特攻、現代にもカルト集団など情報閉鎖された社会に起きうることだ。
「尼僧ヨアンナ」ヤロスラフ・イヴァシュキェヴィッチ/関口時正訳 岩波文庫
ルーダンで実際に行われた悪魔裁判を題材。中世末期のポーランドの辺境の町ルーディン、修道院の若き尼僧長ヨアンナに悪魔がつき,悪魔祓いに派遣された神父は … 。
「尼僧ヨアンナ」監督・脚本:イェジー・カワレロウィッチ
原作:ヤロスラフ・イヴァシュキェヴィッチ 撮影:イエジー・ウォイチェック 出演:ルチーナ・ウィンニッカ、ミエチスワフ・ウォイト1961年ポーランド映画。ぼくはアート・シアター・ギルドの会員だった(大人びてみたい時期ってあるでしょう)。その第一回目の作品ではなかったか。地下にあった大阪北野シネマだった。モノクロの映像が美しかった。ただキリスト教という絶対的なものを持たない日本人には
悪魔の概念がどうもよく分からない。狐憑きなら何となく分かる気がするのだが。
12/ 2nd, 2009 | Author: Ken |
第三の男 The Third Man
“第三の男”あのチターのメロディーが……。荒廃した「維納(こう書きたいね)」ウィーンを舞台に米英仏ソの四カ国による恊働管理下。
廃墟、荒んだ人間、東欧諸国やハンガリーからの難民、心まで荒廃したブラックマーケットに暗躍する悪人。
建物に巨大な風船売りの影が伸びる、足元にじゃれつく猫、一瞬の光のなかにハリー・ライムの不適な顔、モノクロの光と影がこれほど効果的に捉えられた映像はちょっとない。それもそのはずカメラはあの「意志の勝利」や「民族の祭典」を撮ったレニ・リューヘンシュタールの恋人だったハンス・シュニーバーガーだ。またアリダ・ヴァリの顔のショットでは決して白い歯を見せない。いつも影なのだ。それが神秘的な美しさをより引き出している(お歯黒もその美の強調?)。そしてプラーター公園の大観覧車。
ハリーがうそぶく「ボルジア家30年の圧政はルネサンスを生んだ。スイス500年の平和は何を生んだ?鳩時計さ」(これは英国19世紀の画家ホイッスラーの言葉だそうだ)。地下水道の追跡、マンホールから指だけがもがく…。中央墓地、哀愁のチターが流れる、アリダ・ヴァリは待ち受ける男に一瞥もくれずに歩き去る…。アントン・カラスのチターが枯葉とともに … 忘れがたいシーンである。
名画中の名画だろう。グレアム・グリーンの原作では「彼女の手は彼の腕に通された」とあるが。映画の方がはるかに深い印象を残す。グリーンも「結果は彼リードの見事な勝ちだ」と認めている。1949年制作、監督キャロル・リード、音楽アントン・カラス。
※ダッフルコートにベレ。トレヴァー・ハワード(モントゴメリー将軍もこんな格好していた)も忘れ難い。
12/ 1st, 2009 | Author: Ken |
何でも十傑……戦争映画編
1.「西部前線異常なし」レマルク原作、監督 ルイス・マイルストン。1930年アメリカ製映画。鉄条網に突撃してくる敵を機関銃がなぎ倒すシーンは凄絶だ。そして休暇、学校、前線復帰、静かな塹壕、蝶に手を伸ばす。……..その日、西部前線異常なし。
2.「人間の条件」五味川純平原作、小林正樹監督。全6部の総上映時間は9時間31分。戦争における人間性とは。かっては日本でもこんな映画が作れたのだ。TV版は加藤剛主演。戦争を越えた世代が少なくなっていくいま、もう戦争映画は作れないだろう。
3.「人間魚雷回天」松林宗恵監督。…「僕たちは何て時代に生まれたんだ」「Es ist Gut これでいいんだ」その言葉を残して出撃。
4.「二十四の瞳」監督木下恵介。海の色も、山の姿も、昨日につづく今日であった…。出征兵士を送る打ち振る旗の列、軍歌。白木の箱の帰還。戦争シーンはないが重い戦争の影が覆っている。「この写真だけは見えるんや」そして仰げば尊し…木下監督は歌が好きだ。歌が時代の大きなうねりの中の人間を描いている。同監督の「陸軍」この最後の約10分に凝縮されている。遠くに進軍喇叭が…母が駆け出す…歓声と人の波…〜軍靴の響き地を圧し血潮溢れて出ゆくぞ〜…息子を探す…顔を見つめる…兵士が去って行く…手を合わす。武運長久を願ったのか? 否、子の母である。これが敗色濃い時代に陸軍省からの声で作られた映画とは!田中絹代の表情の移り変わりだけでの表現、言葉はいらない
5.「Uボート」監督W・ペターゼン。駆逐艦に制圧され、息を潜めながらソナー音と爆雷、閉所恐怖症には耐えられない。
6.「フルメタルジャケット」監督S・キューブリック。フルメタルジャケット・軍用被甲弾、それは真摯だ。弾は相手を選ばない。MICKY MOUSE MICKY MOUSE MICKY MOUSE
7.「僕の村は戦場だった」監督タルコフスキー。1枚の写真、最後まで敵を睨みつけているイワンの顔があった。詩情、映像美。タルコフスキーだ。
8.「独立機関銃隊未だ射撃中」監督谷口千吉。ソ満国境、トーチカで迎え撃つ兵。佐藤允の農民出身兵、その遺書、たどたどしい平仮名で「とったんは、いま…」。生き残った兵が花に手を伸ばす…。うろ覚えだが、本来は日本兵の屍を越えてソ連軍が「自由のために」「ウラー」などと叫びながら軍靴が踏越えて行くはずだったのだが、さすがにそれはカットしたそうだ。そんなことを読んだ記憶がある。
9.「アタック」監督R・アルドリッチ。ジャッ・クパランスが「神よ!お願いです。1分間だけ生かしてください!」の絶叫。
10.「地獄の黙示録」原作コンラッド「闇の奥」、監督F・コッポラ。前半100点、後半0点。チョッパーの襲撃、鳴り響くワルキューレ、この音楽を使った映画は日映の記録フィルム「落下傘部隊メナド・クーパン降下」のシーンが初めてだと思う。連合軍コンボイとUボートの死闘を記録した「大西洋の戦い」にも使われていた。それにしてもコッポラは何を言いたかったんだろうね。・・・「恐怖だ、恐怖だ」。
プラス1.「かくも長き不在」監督アンリ・コルビ、脚本マルグリット・デユラス。パリで小さなカフェを営む中年の女、かってドイツ軍に連れ去られた夫にそっくりな浮浪者に出会う。彼は記憶喪失者だ。「何も…本当に何も…覚えていないの?」「ノン」。
「誰も…たったひとりだけでも…?」「ノン」。アリダ・ヴァリが哀しくも美しい。…ソフィア・ローレンの「ひまわり」も。
戦争映画にしても小説でも負けた側の眼から見みたものに名作が多い。1万メートル以上の高空から爆弾を落としても罪の意識はあまり感じられないだろう。誰もが戦場に行けば、その悲惨さや残酷さは実感できるだろうがそうもいかない。報道写真や映画で多くの人たちが見ることにより少しでも感じることができれば…。
「ヒロシマ」「原爆の子」「ひめゆりの塔」「沖縄健児隊(鉄血勤王隊)」「火垂の墓」もう一度見たいとは思うのだが辛くて見れない。「橋」ドイツの小さな町、少年たちが橋を守ろうと。「野火」レイテの山を彷徨する兵、猿の肉だ…。「太平洋の地獄」監督ジョン・ブアマン。三船敏郎とリー・マービンが太平洋の島で。
「眼下の敵」監督D・パウエル。爆雷の炸裂とはこんなに凄いものか!実写は違う。ヘッジホグは積んでいなかったのか?。
「独立愚連隊」監督岡本喜八。戦争西部劇、佐藤允の怪演。
ワースト:「パールハーバー」長い、退屈、見れるのはCGのみ。「プライベート・ライアン」星条旗パタパタそれだけ。「硫黄島からの手紙」あの時代あんなチンタラした兵隊いたのかしら、人間を描きたかったんだろうけど、俺でもぶん殴りたいね。これでイーストウッドのファンだったのだが半減した。まだ「硫黄島の星条旗」の方がマシ。原作はいいのにね。原作は彼らの生涯を追っていくんだ。
…これだったらJ・ウェインの「硫黄島の砂」の方が断然上!あの有名な星条旗を立てる写真、本物が登場している。英雄となったその日から人生が変わった…。菊島到の「硫黄島」とその映画、ノンフィクションならR.F.ニューカムの「硫黄島」も考えさせられる。