2/ 15th, 2017 | Author: Ken |
「沈黙」: Silence
Silence : 主よ、あなたのお顔を考えました。・・・その最も美しいものを。・・・最も聖らかなものと信じたもの・・・その時、踏むがいいと銅板のあの人は司祭にむかって言った。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前に踏まれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。「沈黙」遠藤周作(1966)
映画「沈黙」マーチン・スコセッシ監督(2016)を見た。その記憶が薄れないその日のうちに何十年ぶりに「沈黙」篠田正浩(1971)も見た。もちろん原作も読み直した。両作とも原作に忠実だし、同じシナリオかと思うほどだ。さて、出来は?正直に篠田作品の方が良かったですね。まず、俳優の重みが違う。セットに時代感がある。武満徹の緊張感ある音楽、宮川一夫のカメラ映像美、鶏が時を告げ、司祭が手枷をかけられ石段を歩む姿はゴルゴダへの路か。スコセッシ版はすだく虫の音が記憶に残った。私のような不信の徒にとって、神、信仰、天国などはわからない。しかし、長崎の地で400年に渡って隠れ切支丹に歌い継がれるオラショ(祈り)がある。映画にもあるように日本的に変容されてはいるが・・・。信仰とは何なんだろうか。
慶長十年(1605)に天正少年使節団が持ち帰った印刷機で「サカラメンタ提要」という典礼書が出版された。グレゴリオ聖歌の旋律が記されている。それが長崎・生月島の隠れキリシタンによって「オラショ(祈り)」として歌い継がれている。変貌と激しい訛のなかにラテン語の原型やグレゴリオ聖歌の旋律が姿を止めている。皆川達夫さんの本、TVでも見た事がある。レコードで聞く事が出来ます。時を越えて・・・。
11/ 26th, 2016 | Author: Ken |
Ascension
11/ 21st, 2015 | Author: Ken |
ぼくはこれでできています。
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 哲学的形而上学じゃなく物理学としての本当の姿を知りたい。
●「なぜ宇宙があるのか?」「なぜ世界があるのか?」「なぜ無ではないのか?」「なぜ私は私なのか」それが知りたいのだ。
私は物質で出来ている。炭素系生物 → 分子 → 原子(1億分の1cm) → 原子核(1兆分の1cm)→ 素粒子 →クオーク。人間はここまで追求してきた。しかし、全てを包括する宇宙はというと、137億2000万年前にビッグバンがあり、宇宙は「無」から誕生した。その直後にインフレーションが起き光速度より早く膨張した。じゃ「無」とは何だ? 「真空」とは何だ? 無は何も無いことではなく、真空は常に電子と陽電子の仮想粒子としての対生成、対消滅が起きている。つまり、相殺されいているが、瞬間においては、「真空のゆらぎ(量子的)」があり無限大のエネルギーが存在しうるのだ。極微の宇宙が生成消滅を繰り返す「無」、そこから、量子論的効果によって時空(10-34cm )が発生した。
●生物を含むすべての物質は原子からできている。
●2個以上の原子が結合して分子がつくられ、多くの組 み合わせにより多数の分子がつくられる。
●原子はプラス電荷を帯びた原子核と周辺のマイナス電荷を持つ電子からなってい る。
●元素の化学的性質は、その原子の電子の数、外側の電子の配置によって決 まる。
●原子の「大きさ」は約1億分の1cm、原子核の「大きさ」はその1万分の1以 下である。また電子 1 個の「大きさ」は原子核の約2000万分の1。
●原子の質量は原子核に集中している。電子の質量は原子核の2000分の1 以下である。
●原子の中の電子は軌道を描くのではなく、存在の確率として雲のようにある。
●原子のと周辺の電子の集団との間は真空になっていて電気力が働く空間である。
●物質は原子でできており、中央に原子核があり、その周りに電子がある。原子核を構成するのは陽子と中性子であり、それらは、原子の大きさの10億分の1以下の大きさのクオークによってできている。
●素粒子はフェルミ粒子ボース統計に分けられ。フェルミ粒子はクオークとレプトンに分類される。クォークやレプトンは点粒子として扱われる。ボース素粒子には、素粒子間の相互作用を伝達するゲージ粒子と素粒子に質量を与えるヒッグス機構に関連して現れるヒッグス粒子とがある。ただし、重力を媒介する重力子は未発見である。
●いや、素粒子と呼ばれるものは振動する弦でできている。超弦理論になると、もう数学と形而上学の世界であるから物質の概念では判断できない?
人間はここまでは分った。それもここ100年超ほどの現代だ。じゃ、その素粒子でできた私がなぜ極微の素粒子のことを考えるのだ?自分を意識する脳は原子でできていて、素粒子でできている。そして原子の大部分は真空である。この真空と素粒子でできた私。たかが80年程自意識というものを持ち、喜怒哀楽・記憶・想像などと様々な感情というものを持ち、知性を持ち、好奇心を持ち、美意識を持ち・・・分らないことばかりである。ああ、気が遠くなりそうなこの宇宙と存在。なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?
9/ 4th, 2014 | Author: Ken |
記憶術と書物
最近、ど忘れが多い。特に人名だ。何かをしながら、フト人名や物名が瞬時に出て来ないのだ。他のことを考えたりしていると簡単に思いだす。 …..そろそろ始まったのか?子どもの頃は一回聞くと忘れなかった。…..あの頃は情報が極端に少なくインプットも僅かでよかった。本当のところは大半は忘れているのに本人が覚えていることだけを憶えているから、良かったと過去形で思うのだろう。人は記憶するために記号や文字を発明した。つまり外部記憶だ。グーテンベルク以来、急激に情報量が増し、写真、ラジオ、TV、PC、インターネットと凄まじい勢いだ。それもここ20年ほどのことだ。まあ、99%はゴミみたいなものだし、憶える必要なんて更々ないのだが…..。
中世には記憶術が重要でトマス・アクイナスは抜群の記憶力で何人をも相手に同時に口述筆記をさせたという。12世紀のサン・ビクトールのフーゴーは「学んだことを記憶に留めない限り、何かを本当に学んだ、あるいは英知を養ったということにはならない。教育の高揚は、教えられたことを記憶するという、ただその一点にある」と言っている。記憶と想起によって人格が生まれるのだ。それらの記憶術はグリッドに順番に納めたり、暗喩や図像で記憶していく方法である。例えばノアの箱舟を想像し、細かく分けた部屋々に整理していく方法である(ハンニバル・レクターは「記憶の宮殿」を作り、各部屋に細部にわたる記憶を貯蔵するやり方だ)。あの人は「引き出しが多い」というのと一緒である。
しかし、世間で言う、記憶術、速読術というのはほとんどが眉唾だ。「サヴァン症候群」の特別な人は別として、変なコンサルが偉そうに言うが顔みりゃどんな程度か分かる。彼のビジネスなんだ、商売なんだ。こんなモノ知らない若造が何を抜かすか!聞く方も聞くほうだが。速読術なんかも、そりゃハウツー本なんて1~2時間で数冊 … いや目次を見ただけで程度が分かるサ。ほら、新聞の週刊誌広告ね。数分で全部読んだ気になるもの。あの程度なんだヨ。確かに年号や記号を言葉に置き換えるのは誰にも憶えがある。「スイヘイリーベボクノフネ」や「鉄砲伝来銃後良さ・1543」なんて憶えたものだ。しかし、その前後関係や背景、概念を知らなければ憶えたことにはならないのだ。メンデレーエフの元素周期表による各元素の名前だけ覚えたって、それについての性質や様々な知識があって始めて意味を持つ。
こんな本がある「元素をめぐる美と驚き」H.O.ウィリアムズ・早川書房 / エピソードに満ち満ちてほんとうに面白い。生きた化学史だ。いまはWikipediaやNet検索したら何でもあるから、憶える必要なんてない!そんなことを言う人がいるが、僕はこんな人とは口も聞きたくない。それは情報としての記号であって、単なる情報を身体の中に入れて培養・発酵させて、整理・理論し、はじめて統合された情報になるのだ。ぼくの場合、記憶は映像と結びついている。文章や言葉に触れると想像の中の映像が浮ぶ。またカラオケなんかのバックが流れると数十年間忘れていた歌詞が浮び、歌えるのも不思議だ。記憶って何なんでしょうかね。
最近「デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)」と呼ばれる脳活動が注目されている。複数の脳領域で構成されるネットワークで何もせずボンヤリしている時にも脳は活動を営んでいたのだ。この脳の「基底状態」とも言える活動に費やされているエネルギーは、意識的な反応に使われる脳エネルギーの20倍にも達するという。さらに興味深いことに,DMNの異常がアルツハイマー病やうつ病などの神経疾患とも関係するらしい。アルツハイマー病患者で顕著な萎縮が見られる脳領域は、DMNを構成する主要な脳領域とほとんど重なっているそうだ。安静時の脳活動を研究することによって、意識や神経疾患の新たな手がかりが得られるかもしれない。脳は1200~1500cc、体重の2%ほどで、血液の循環量は心拍出量の15%、酸素の消費量は全身の20%、酸素グルコース(ブドウ糖)の消費量は全身の25%と、いずれも質量に対して非常に多い。その内、考え事をしているのに使うのは5%ほどで、後は脳細胞のメンテナンスやDMNに使われているんだって。「下手な考え休むに似たり」というけれど、実はDMNに使っているんだ!「記憶という書物、そもそも心の中の書物に書き込むこと、記憶は知識の中核をなしその根本、鍛え上げられた記憶の中にこそ、人格や判断力、市民性、信仰が築かれる」。
「知識を獲得する際には、必ず感覚に訴えるものから始まり、心の働きによって鋭い感覚によってでも捕らえられない高次なものへと進む」–ヨハネス・ケプラー。
●「記憶術と書物」メアリー・カラザース/別宮貞徳/監訳(工作舎・1997年)古代ギリシア・ローマ以来の記憶モデルの変遷、中世に開発された記憶術の数々、そして記憶のために書物の映像化の工夫等々。分厚くて重い研究書だが、面白かった。
6/ 21st, 2014 | Author: Ken |
真面目な胡乱な話…..。
「魂」「精神」「意識」の正体は一体何なんだろう? そんなものがあるのか? いや、確かに私の中にあるのだが曖昧模糊として掴むことができない。何かを「覚えている」「知っている」だから僕は「記憶によってぼくは存在する」。じゃ「記憶」とは何なんだ。そういう自分の思い込みか幻想か? うーん、かってデカルトは「物体」と「精神」という「実体二元論」を唱え、記憶は松果体にあると考えた。….しかし、どうも脳は本棚やディスクのようにホルダーに入ったハードな状態であるのではなさそうだ。じゃ、このジェリーみたいな1400ccほどの脳細胞の「どこに、どんなに形で」保存されているのだ?
面白い話がある。MITのマックス・テグマークは、量子力学と情報理論から人間の意識は物質「perceptronium」(知覚物質というのだろうか?)があるのだだという。ふーん、物質でね…..。意識を形式化する「意識の情報統合理論」により物質としての脳から、どのようにして主観的な意識経験(クオリア)が生じるのか?これを量子力学からのアプローチで意識を、固体、液体、気体といった物質の状態と同じく、物質の状態「perceptronium」として扱うというのだ….と。じゃ僕の脳をスキャニングして他のメデイアにペーストできるのか…..?またこんな仮説もある。心理学者カール・プリブラムは、ホログラムを、脳の記憶をの仕組みを解明するモデルになるという。記憶は脳のどこかに局在するのではなく、ホログラムのように全体と個が一体になっているのだと?人体の60兆個の細胞一つずつに同じDNAが組み込まれているように。私たちが「心」と呼んでいるものは、ホログラムとして、物質的な脳の中に記憶されているのではないか? そして、デビッド・ボームは、「開示された秩序」のエネルギー(情報)の奥に「織り込まれた秩序」という隠れた本質があり、脳はこの「本質」のホログラムの一部であり、共鳴し合う振動が意識を生み出すとのだ…..と。
またルパート・シェルドレイクは「形態形成場」(モルフォジェネティク・フィールド)という「場」があり、人と地球、いや、この宇宙そのものが蓄積してきた記憶を共有し、それに同調していくという説である。「形態同調(morphic resonance)とは、時空を超えて似たような物に影響を与えるということだ…とシェルドレイクはいう。ロジャー・ペンローズは、「量子脳仮説」で「脳内の神経細胞にある微小管(チューブリン)で、波動関数が収縮すると、素粒子に付随する属性により意識が生起する」と。古代ギリシャでは記憶のメカニズムは、プネウマ(空気や息という意味)が感覚的印象を身体の中に運び、それが記憶となると考えた。かってアウグスティヌスは「空間に記憶が貯蔵される」そして「記憶が何らかの物質に還元される」という比喩で語った。じゃ、どんな形で?それが知りたいのだ。…….確かに感情や思考は脳内の微弱電流や化学物資で動いていることは証明されてはいるが…..。
還元主義を押し進めると、記憶とは結局は分子、それを構成する原子とその電荷によって決定される化学的性質、原子はクオークによって成り立ち、……..DNAは、蛋白質やアミノ酸などその生命を作り上げる要素に関する情報が記されているが、生命がどのように生まれ、成長し、どんな「思考」をするのかは記されていない(いや、本能とはどんなシステムで組み込まれているのだ?)。そもそも脳がどのような神経回路(複数の神経細胞のネットワーク)やシナプスの結合によって「自分」を生み出すのかと?記憶や喜怒哀楽、自己意識や自由意志などが、無数の神経細胞とネットワーク、それに関連する分子の働きなのだと言われても….。
ぼくという物質は「生まれ」(nature)か?「育ち」(nurture)か? それとも人間の想像上の「神」か?(ぼくは無神論者だ)?神が!そう考える人は多いし信じられれば楽だけれど、神があるとは到底思えない。クオークはビッグバン以来….確かに宇宙があるから地球があり、生物が生まれ、クオークでできた僕がぼくを感ずる。ああ、解らん!
6/ 10th, 2013 | Author: Ken |
だます愉び、騙される楽しみ。
あれッ、この絵、何か変だよ? えッ、どこが? だって柱がサ。ン!そういえば…..。
何か銘が彫り込んであるね。ぼくはラテン語なんて分からないよ。ネットで調べてみよっ。
Mundus vult decipi, ergo decipiatur. 世界は騙されることを欲している、それゆえ世界は騙される。
Fere libenter homines id quod volunt credunt. 人は、彼らが信じたいものを容易に信じる。
… だってサ。
脳は自分自身の現実世界をたえずでっち上げている。不合理なことも勝手に合理的に納得するように思い込むように出来ているのだ。文章の校正なんてその最たるものだ。モニターで何回見直しても間違いに気づかない!….出力して気がつくことがあるけれど、ほとんどは他人の新鮮な眼で見なければ駄目だ。注意力なんて持続できないし、歩くのも右足、左足なんて考えていたら歩けないですね。
脳は、二つ以上のことに同時に注意を払うようにはできていない。上の絵なんてパターン認識では整合性があるように見えるけれど、視点を変えたらオカシイですね。錯覚だ。…..描いていて何度も間違いそうになった。
面白い本を読んだよ。脳学者がマジックと脳についての啓蒙書「脳はすすんでだまされたがる」 :スティーブン・L・マクニック、スサナ・マルティネス=コンデ、サンドラ・ブレイクスリー 訳:鍛原多惠子:角川書店だ。
知覚の大部分は錯覚なのである。マジシャンはそれらを実に巧みに利用している。彼らは手の器用さだけでじゃないんだ。第一がミスディレクション(misdirection)、判断力を間違った方に誘導するプロなんだ。これにはフィジカル( 身体的手法)、サイコロジカル(心理的手法)、タイム(時間的)の三種類がある。これらを組み合わせて見事に観客を騙す。マジックとは「騙される楽しみ」だ。
まず人間の入情報の大部分は視覚である。視覚系は、視野の中心を除けば、解像度はかなり低い。焦点を以外はボヤけるし、他はほとんど見ていない。そこで巧緻な演技や眼の残像効果や注意の対象を逸らすことで僕たちは簡単に騙されてしまう。
そして、人は見るものの多くを捏造している。脳は処理できない視覚情報を「充填」によって補うんだ。そう、ある一部分が見えないからといって、無い部分を続いていると判断する。例えばトンネルから電車の前部を少しと後部の少しが見えていていたら繋がっていると思い込むよね。実は真ん中が切れていて前と後ろの2両しかなかってもだ。
僕たちが見たり、聞いたり、感じたり、考えることは、過去の経験や記憶から予期しているんだ。知覚された錯覚も、自動的な反応も、意識することも脳のメカニズムが定義しているんだろうか。「オレは目撃したから本当なんだ!」ホントかな? 眼とは、あんまり信用できないね。記憶もそうだ。マジシャンは、人間の認知を手玉にとる達人だ。視覚、聴覚、触覚、注意、記憶、因果関係など、きわめて複雑な認知過程を経て「オレは正しい」と思い込ます。詐欺師の大部分は、この人間というものの弱点を突くんだ。物欲とか金とか愛情とか孤独さとか…..。 虚実は知らないけれど「他人を助けるといい気分になる」そうだ。これはオキシトシンという物質が出て脳に快感を作るそうな。人間は社会性動物だから、親子や、仲間を助ける行動が脳内に組み込まれているのだろうか。それが秩序と道徳を作り、人類愛、果ては地球にも優しいという地球(ガイア)の擬人化まで…..。…でも、僕は理性的に、論理的に、判断している、積もりだけれど、それも…。そしてこの歳になるまで長い時間「自分自身」という認識で生きてきたんだけど….。
Plaudite, acta est fabula. 拍手を!お芝居はおしまいだ(アウグストゥス )。
5/ 3rd, 2013 | Author: Ken |
我在ル故ニ骨アリ。… 理性の座はどこにあるのか。
理性の座はどこにあるのだろうか?哲学史上で最も有名な命題と言えば「我思う故に我あり」だろう。1649年スエーデン女王クリスティーナの招きでかの地に滞在、翌年2月デカルトはストックホルムで死去した。遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年フランス・パリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移された。この時、頭蓋骨だけが盗まれスエーデンで保管されていた。….フランス革命の動乱を経て遺骨はサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移された。そして1821年にスウェーデンで発見された頭蓋骨だけはパリの人類博物館にある。… この頭蓋骨にはラテン語の四行詩が書かれている。 … ” 名高きカルテシウスのものなりし小さき頭蓋その胴体は遠く仏蘭西の地に隠されたり されどその才、あまねく地上に讃へられ その魂、今も天球に憩ふ ”…
この数奇な運命の頭蓋骨にまつわる死後の伝記がラッセル・ショート著「デカルトの骨」(青土社)だ。まあ、面白いの何の!「虎は死して皮を残す、デカルト死して骨残す」。その「方法序説」から近代科学観が始まったと言われる哲人ルネ・デカルト。精神と肉体という二元論を提唱し、「近代主義の父」とも呼ばれるが、生前だけでなく、彼の残した骨を巡って引き起こされるミステリーだ。その頭蓋骨の真偽問題、比較解剖学、骨相学、顔学に至まで、まるで二元論を象徴するかのように、精神の宿る頭蓋骨と肉体の骨とが分離した皮肉とも思える話だ。その実体二元論は理性を正しく導き、知識の中に真理をを探究するための「方法序説」岩波文庫(たった500円)だ。この世界には、肉体、物質といった物理的実体とに、形は見えないが、魂、霊魂、自我、精神、思考、意識などの心的実体がある。デカルトの哲学は「精神」と「身体」を分けるものであり、機械論的世界観という側面がある。これは当時支配的だった神学的な世界観に対し、力学的な法則の支配する客観的世界観を展開したもので、ガリレオやニュートンと並んで近代科学の発展にパラダイム・シフトを起こしたのだ。でも一概に「二元論」と割り切れるのだろうか? 彼には神の存在という絶対的背景があるから神・精神・その延長の身体という「三元論」じゃないだろうか。
このデカルト主義に対して70年代後半から80年代にかけてニューエイジ・サイエンシストが盛んに二元論・還元論を攻撃していた。A・ケストラーの「ホロン」に見るホーリズムやF・カプラの東洋思想との融合を説く「タオ自然学」など一世を風靡した。だがね、ライアル・ワトソン(捏造や欺瞞がいっぱいのトンデモ本)など、胡乱な説がカルト主義になり、時代とともに消えていった。でも人間は胡乱神秘を好むもので未だにホメオパシーや「百匹目の猿現象」などを信用している人がいるから気をつけたいものだ。
あのアインシュタインの1905年は「奇跡の年」と言われる。「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。1907年にはE = mc2を発表、1915年には「一般相対性論」を完成。1917年には一般読者用に数式をほとんど使わずに「わが相対性理論」を著した。とても分かりやすく、これこそトマス・クーンの言うパラダイム・シフトだ。
現在、亡霊となってもなおデカルトは裁かれている。「デカルトなんかいらない?」ギタ・ペシス・パステルナーク著:産業図書。原題は「デカルトを火あぶりにしなければならないのか?」と過激だが、内容は現代科学を巡っての対話である。散逸構造のプリゴジンやファイヤーベントなど、錚々たる科学者が登場。…..そして「精神と物資」エルヴィン・シュレーディンガー(工作舎)、ボーアやハイゼンベルグらと量子力学の基本方程式を作った偉大なる科学者だ。1956年にこの様な講話をしていたとは…..。でも、いま読み直してみたら「人間原理」のような記述が多いですね。
4/ 1st, 2013 | Author: Ken |
僕はここにいます。… 記憶と時間
ぼくが僕であるためにはぼくが僕を認識しなければならない。つまりセルフ・アイデンティティ:自己同一性と言う訳だ。アプリオリのDNAや肉体はあるとして、ぼくが僕であるのは記憶というものがあるからだ。記憶喪失になれば自分で自分が分からなくなるから記憶が私を作っているのだ。じゃ、記憶って何なんだろ?それをいままで得て来た時間って何なんだろうか?
「記憶とういうものがあるのは分かっているのだが、あらためて聞かれると分からなくなる」….時間についてのアウグスティヌスの有名な言葉と同じである。頭の中にあるのは確かなのだが、実態はないし極めて曖昧な霞のようなもので、脳のハードウェアはタンパク質や脂質、水、神経繊維や微量の化学物質と微弱電流等々である。…つまりミートウェアだって訳だ。こんな物質で出来たものからどうして記憶、思考、意思、判断、喜怒哀楽、空想、あるいは情報が生まれるのだろうか?コンピュータのように1と0のデジタルじゃないし、どんな形で記憶を貯蔵しているのだろう? ニューロンの回路が形成されて、それが記憶になる?いやペンローズの仮説ではチューブリンの中で量子力学的な「ゆらぎ」があり、脳はその不確定性を用い、これが「判断、意志、心」であるというが … 。
ぼくたちは色々な本を読み、映像を見、音を聞き、匂いや触覚を覚え、雰囲気を感じる。それら様々な体験が一方向に記憶量を増加させている。ということは過去・現在・未来という「時間の矢」に乗っているのだ。記憶があるから過去、記憶が無いから未来なのか。ぼくたちは食物というエネルギーを取り込んでネゲントロピー資源によって生きている。これは熱力学第二法則に反している訳だが、記憶も秩序性をもたらすのだからこれもエントロピーの減少なのだろうか?
本を読んでも詩を読んでも、映画を見ても、見ている傍から忘れてしまう。もちろん言葉や映像は微かに朧にあるのだが、実態は掴めない。試験勉強みたいに無理矢理覚えても、それは記号を覚えているだけだ。ただ記憶というそれらが薄らと積み重なり人格になり、思い出や追憶という過去へ飛び、未来や空想という飛躍の糧になっている。… 僕にとって少年の頃や過去はこの脳のなかに実態無く存在している。写真や過去の道具を見る度に、それは確かに有ったのだが、しかし過去とはとっくに無くなったものだ。あたかもあるように覚えるのは脳が作り出している幻だ。記憶とは幻想にしか過ぎない。時というのも錯覚だろう。時計があるから「時」なんだ。よくビデオを逆回しすると、映像的には割れたガラス片がグラスになり過去に戻る。映像タイムマシンだ。だが待てよ、それが10秒の映像なら僕の時計では10秒の時間が過ぎて未来に行っているんだ。記憶や時間って何なんだろうか?
虚空から一粒の砂がわき出し微細な流れとなって落ちて行く。砂時計のくびれた部分が現在だ。そして静かに降り積もり降り積もり、今は過去を背負い今は未来を……。
7/ 21st, 2012 | Author: Ken |
21g? … 魂の重さの量り方
もうすぐお盆である。お盆には死者たちの霊魂が帰ってくると言われている。じゃ魂はどこにいるのだろう? この宇宙の時空の中を彷徨っているのだろうか? 魂とは観念である。抽象である。非物質的存在であり認識を超えた永遠のものであると…..。
生命や精神の原動力となり死ねば体内から消えると言われる。その「魂」の重さを量ろうとする人がいた。20世紀初頭、アメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルだ。彼は死に瀕した患者を量りに乗せ去り行く魂の重さを量ったのだ。彼は魂の存在を信じていた訳では無さそうだ。魂が物理的存在として実在するなら重さがあると考えたのだ。実験では約30グラム軽くなったと出たそうだ。
まてよ? 人が死ぬと熱は体温が拡散するから熱に変換されるわけがない。魂が分子であり原子から構成されている物体と仮定したら、その質量はどこに消えたのだ? 1gの質量は約 9×1013(90兆)ジュールのエネルギーに相当する。そうすると90兆ジュール×30のエネルギー….? そんな!! じゃ、質量とは何だ? ついこの間、素粒子に質量を与える「ヒッグス粒子」が見つかったというニュースが世界を駆け巡った。CERNのLHCの衝突実験で新たな粒子を発見、これがヒッグス粒子だというのだ。… 昨年にもニュートリノは光速より速いというニュースがあったが、観測間違いと否定された。今回のヒッグス粒子は本当なのだろうか?… 素人ながら興味津々だ。宇宙の謎が僕の世代に見つかるなんて!… 前にレオン・レーダーマンが書いた「神が作った究極の素粒子」という本を読んだことがある。彼がいう“神の素粒子”こと、ヒッグス粒子という仮説粒子の存在でである…。僕にはゲージ場やその理論はとても説明できないが….。閑話休題…「魂」なんてとても物理的実在じゃないけれど、それが身体の中にあることは実感している。会話でもしょっちゅう使う。「この音楽や絵には魂がある」「スピリットこそ人間の行動原理だ」「ブルースはソウルだ」なんてね。
人間には「生きる根源として魂の観念」が植え込まれている。たぶん脳が作り出した幻想なんだろうけれど…..。(一昔前に臨死体験がブームになり体外離脱なんて言葉が流行ったものだ。ウィリアム・ブレイクの絵を見ていると、画家は本当に見えていたのではないか?…… 幻視や幻聴が見え聞こえる人に対して僕たちは無力だ。否定・証明のしようがないからだ)
■「魂の重さの量り方」レン・フィッシャー/著 林 一/訳:新潮社 この本は「魂の量り方」だけを論じているのではなく、自然科学における「事実に対する信念の検証」といった啓蒙書である。ピーター・アトキンスの「ガリレオの指」もおすすめです。
■「神が作った究極の素粒子」レオン・レダーマン/著 高橋健次/訳:草思社….とても楽しみながら読めます。
■「21グラム」2003年アメリカ映画/アレハレド・ゴンザレス・イニャリトゥ監督、ショーン・ペン主演:心臓移植を受けた男と妻、提供した家族、その男を事故で死なせた男と家族、その時間軸が交差し「人がいつか失う重さ」とは、何なのかを問う。題名の「21グラム」とは、医師ダンカン・マクドゥーガルが行った「魂の重さ」を計測しようとした実験に由来する。イニャリトゥ監督の映画は暗く重い。やりきれない。救いがない。ああ。
6/ 13th, 2012 | Author: Ken |
御先祖様万歳… どこの馬の骨やら。
●
まあ、どこの馬の骨かは分かんやつだが、いま僕がここにいるということは二人の両親がいたからだ。両親にはまた四人両親がいてと…。祖父と祖母だ。そして八人の曾祖父と曾祖母がいて…..。これを繰り返すと10代で1,024人、20代で1,048,576人、30代で10億73百74万1千824人となる。平均30歳で世代交代するとしたら30×30=900年前、40代遡れば約1兆人と。 まあ、これは累計だからあくまで数字上のことだ。100代遡れば30歳×100=3000年前、縄文時代だ。文献によると日本列島には8〜15万人位住んでいたと。
でも確かに御先祖の人物がいたのだ(こんな馬鹿な奴は俺の子孫ではない!というだろうが)。石斧を持って猪でも追いかけていたのか、ドングリを拾っていたのか知らないけれど…。その御先祖もこの日本列島に黒潮に乗って流れ着いたのか、氷河期に北からナウマン象を追ってやってきたのか、あの山の向こうはもっと食い物がありそうだとね。人類がアフリカを出たのが約10万年前だとういう。それからトコトコ歩き続けてユーラシア大陸を縦断し、この地に着いたのだ。ヨーロッパにはつい数万年前までネアンデルタールという親戚もいたが消えちまった。その前はアウストラロピテクスだし、その前は….。完新世 → 第四紀 → 第三紀 → 白亜紀 →ジュラ期 → 三畳紀 → ペルム紀 → 石炭紀 → デボン紀 → シルル紀 → オルドビス紀 → カンブリア紀(僕の指が5本というのもいつ決まったのだろう?最初に5という原型があるのだろうね、それ以来連綿と…)→ 原生代 → 始生代と。→ 太陽系・地球の誕生47億年前→ ビッグバンが137億年前と。
… 考えりゃ不思議だね。ウム、こんな俺みたいなのがいるのは宇宙があるからだ!と言って「人間原理」でもあるまいし。分からんね。まあ、我が貧乏家系には由緒ある系図なんてあるわけないし、代々食うや食わずの水飲み百姓だろうよ。源氏や平家の子孫を誇る人もいるけれど、何を言やがる、どこかで御親戚じゃないか!チンプ君とね。万世一系だって?君だって系図は無いけれど「いまここにいる」のだから繋がっているのサ。リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」じゃないけれどDNAに書き込まれた情報を受け継いで長い旅をしてきたのだ。お寺の過去帳なんか調べたら7代位前まで分かるんじゃないかな。祖父も祖母も全く知らないが、明治からは微かな記録もあるだろう。タイムマシンがあったら御先祖さんに会って「おい子孫にもっと金でも残しとけ!」と言いたいが、どうせドジでツイていない家系だろ。落胆するのがオチさ。