4/ 16th, 2012 | Author: Ken |
深淵を覗く。
こどもの頃、鏡を床に置いて覗き込んだり、表や森のなかで地面に置いてみた事がある。日常とは違う異次元に迷い込んだ気がしたものだ。古池や古井戸を覗くのも奇妙な不安感に襲われる。底のほうの暗い水面から私を見つめる者がいる。たしかに自分の顔が写っているのだが異界から視られているような、苛立たしいというか恐怖さへ憶えるのだ。だから古井戸にまつわる恐怖譚や小泉八雲の「茶碗の中」に言い知れぬ不気味さを感じるのだろう。いや、それは偽りだらけの自我と人生の自分を見据えるもう一人の自分なのだろうか?私とは脳の情報である。脳の情報の現れが私であるなら、じゃ、私という脳は、自分自身を理解しているのだろうか?脳が総ての情報を含んでいるという前提に立てば、脳は私を理解しているのだろうか?ああ、ややこしくなって来た。無限連鎖に陥ってまるで合わせ鏡の奥を覗いているようだ。
我思う、故に我あり・ego cogito, ergo sum。デカルトの有名な言葉だ。皮肉屋のA・ビアスは「我思うと我思う、故に我ありと我思う」と言った。いや唯物論者なら「我ある、故に我思うと」言うのだろうか。スピノザは「我は思惟しつつ存在する・Ego sum cogitans.」と。小難しく言うなら「観念に対応する実在とはいかなるものか」となるのであろう。私が普段見て感じる実在とは本当にあるのだろうか? … すべては心に映る幻影、または脳の中で作り上げた虚像なのではないか。私が見ているものと他人が見ているものは果たして同じものだろうか? … そう、夢を見ている時は明らかに実在であるのに、目覚めれば幻覚である。(といってフロイト心理学、あれ疑似科学じゃ無いの? 何がエディプス・コンプレックスだ。何が抑圧された性だ。勝手なたわごとじゃないか!)。と、いうことは「心」というものだけがあり、実在とは幻想であり客観的な存在ではない。
…これは唯識論だ。東洋の知恵は数千年ほど前からそれを探求してきた。唯識論によると個人にとってのあらゆる存在が、ただ、八種類の識によって成り立ち、五種の感覚、眼識・視覚、耳識・聴覚、鼻識・嗅覚、舌識・味覚、身識・触覚、意識、2層の無意識である未那識、その根本である阿頼那識と説く。
あらゆる諸存在が個人的の認識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、即ち「空」であり表彰・イメージに過ぎない。色即是空、空即是色だ。この世の色(存在・物質)は、ただ心的作用のみで成り立っていると…「意識が諸存在を規定する」とするのだ。でも意識を作り出しているのは私だろう。
それは還元的には原子 → 素粒子→ クォークである。物質が私と心を作り出しているのだが。
…「空」ね。でも旧約聖書で有名なヴァニタス・ヴァニタートゥム・Vanitas vanitatum omnia vanitas.「空は空なるかな、すべては空しい」の空ではない。これは死に至る人生の「空」であり、唯識の「空」は、宇宙の摂理の根本の「空」を説く。もっと理性的で客観視した「空」である。…そうして現代科学は量子論を生み出した。真空とは「何もない」状態ではなく、常に電子と陽電子の仮想粒子が対生成と対生滅を起こしていると…。真空はエネルギーに充ち満ちているのだと。まあ、ディラックの海やヒッグスの場理論までというと私にはとても説明できないが…。
だからといって「科学と唯識」は同じであると、こんな本が多いが、これは疑似科学だし、ニューサイエンスやスピリチャルになってしまう。
●「フロイト先生の嘘」ロルフ・デーゲン著/赤根 洋子:訳・文春文庫…よくぞ言ってくれました。どっちでもいい学説とたわごとの夢分析、いまだにその信望者の偉い先生が疑似科学を垂れ流している….。痛快な本です(痴の欺瞞:アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著: 岩波書店。これも痛快極まる)。
●「唯識入門講座」横山紘一:著/大法輪閣 ●「わが心の構造」(唯識三十頌 に学ぶ) 横山紘一:著/ 春秋社…非常に分かりやすい。
●「心の仕組み」著者:スティーヴン・ピンカー /山下 篤子 訳 : NHK出版….進化的適応の結果として人間は心という器官システムを
持った。よって人間の心の思考は、自らの認知的能力の働きについての本質を認知できない….。
●「豊穣の海」三島由紀夫/大乗仏教の唯識を根底に緻密華麗な文章で輪廻転生を描く。「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の四刊に三島美学が…天人とて五衰の腐臭が生じ…三島も高齢化が恐かったのだ。だから…。
2/ 9th, 2012 | Author: Ken |
「偶然」…いまここにいる不思議。
ここにいるのは誰だ? 俺だ! 思った瞬間に忘れてしまうのだが、ああ僕もこんな歳になった。時の流れののなかでいまという刹那が次々と過ぎて行く….。なぜここにいるのだ?考えて見れば不思議なことだ。目の前にPCがあり、家族があり、友人があり、社会があり、世界がある。そして記憶という過去もある。僕は無神論者だし神秘主義者じゃない。…だから偶然そうなったとしか言いようがない。まあ、粗視的に考えて私とはこのようなもので成り立っている。….
1. マクロ宇宙/量子的ゆらぎ・宇宙誕生・ビッグバン → インフレーション → 4つの力 → 素粒子 → 物質 → 銀河団 → 銀河 → 太陽系→ 地球 … 開闢以来137憶年後のいまの世界。
2. ミクロコスモス/物質 → 分子 → 原子 → 素粒子 → クオーク →超弦理論?…. 量子物理学の世界。
3. 進化/46億年前・地球誕生 → 原初生命 → カンブリア期や白亜紀 → 哺乳類 → アウストラピテクス → ホモサピエンス → 10万年前出アフリカ記 → 社会的人間 → 個人としての自覚の世界。
4. わたし/受精 → DNA → 誕生 → 成長 → 60兆個の細胞 → 筋肉・臓器・脳 → 教育・環境・経験・学 ….. アイデンティティ・心理世界。
わたしが観察し認識するから宇宙がある? 宇宙あまりにも人間に好都合にできている? 人間原理? いや偶然だ。
つまり偶然の産物である「私」が宇宙や物理セオリーや進化や自分を認識している。そして物質でできた私がそれらを知り不思議がっている。量子学的なクオークでできた物質である私が、それらを理解しようとする心理。これって何だ。たかが地球上で太陽の周りを70〜80回ほど回転するだけの時間。それが人生であり、生きているってことはそれだけのことか!たまたまの「偶然」なのだ。いやいや結局は膨大な背景があり、社会的には同時代の皆さんに有形無形で「生かされている」わけだ。すべてのお世話になってね。
感謝ですね。喜びも悲しみも逝く年月、日は昇り陽は沈む。「天、空にしろしめす。なべて世はこともなし。」分かったようなことを言っちゃって。お恥ずかしい限りです。
6/ 9th, 2011 | Author: Ken |
月は人が見ていないとき存在するのか。
「世の中を 何に例えん 水鳥の. 嘴振る露に 宿る月影」道元禅師
「この世ばはわれ思う故われ在りき去るる後にも月やあるらん」詠み人知らず
移り行く世の中、その中で苦悶する人間、常なるものは何も無く露のようにはかなくいものである。はかない露命の中にも月の光が映っている。いわば全宇宙が露のなかに凝縮されたかのように。
そこでだ。私が見ていないときに月はあるのか。あったりまえじゃん!月は昔からあるに決まっている。….本当にそうだろうか?量子力学によると、われわれが常識的に信じてきた自然像と古典物理学とは非常に違った形相を見せる。いったい「実在」とは何なのだ。
1)我々の外に我々とは別に客観という独立したものがある。
2)そのものは常に決まった属性を持っている。
3)それを我々は認識することができる。
しかし2)は量子力学では否定される。不確定性関係では粒子の位置を測定すれば運動量は不確定になる。現存在と現象の背後にはそれを統一する「本質」が存在し、それは複素数を使ってしか記述できない。「空にかかる月は人が見ていなくても存在するのか? マクロの物体は厳密には近似値でしか存在しない。近似でしかありえない物質は量子力学の性質を示すはずだ。
宇宙、世の中は量子力学の数学という形而上学的記述でしか現せないのだろうか。「それが客観的存在性と認識可能性を持つ」物質ならば必ず運動性を持つ。物質がなければ運動はなく運動しない物質はない。「本質の運動」すなわち波動関数の時間的変化か?これは難しい問題だ。 ジョン・ホィーラーは、「どんな素粒子の現象も人が観察してこそ初めて本物の現象になる」と述べた。デビット・マーミンは、それをこう言い換えた。「誰も見ていないなら、そこに月なんて存在しない」と。 アインシュタインは、インドの詩人・タゴールに会ったときにこう聞いた。「私が見ていないとき、月は存在しないのですか?」「その通りです」とタゴールは答えた。月について、また存在するという時「その事実があったという信念が、それぞれの人の頭の中に存在する」ということになるのではないのか。 「誰もいない森の中で木が倒れたとき、音はしたのかしなかったのか」というのと同じだ。
過去もそうだ。過去はどこかに存在するわけではなくて、記憶の形でしかそれぞれの頭の中にあるだけだ。 ぼくがこの世を去ったら見る事も観察することもできないわけだから「存在」しないのだ。……..「認識」とは「実在」とは何なんだろう。
その「本質」がいかに奇妙なもので受け入れ難くとも、その現象を生じるのが量子力学である。…月は本当にあるのだろうか。
●「量子力学の反乱」町田茂/学習研究社 ●「量子力学入門」並木美喜雄/岩波新書 ●「0と1から意識は生まれるか」橋本淳一郎/早川書房 ●「量子力学の解釈問題」コリン・ブルース:和田純夫・訳/早川書房、他を参考にさせてもらいました。
11/ 1st, 2010 | Author: Ken |
宇宙のウロボロス
「私にとってわからないこと、それはなぜわれわれが世界を認識できるかということだ」A・アインシュタイン
悠久の宇宙の始まりとは何だったのだろうか?時間も空間も存在しない”無”の状態でもミクロの世界を支配する量子論では”ゆらぎ”があり、そのゆらぎから宇宙は生まれたという。現にわたしがここにいて宇宙を見ているのもCOSMIC COINCIDENCES「偶然の一致」なのか?それとももっと深遠なわけがあるのか….。約137億年前にビッグバンによって誕生し、インフレーションを起しマクロの宇宙になったというが。現在の観測可能な広がりは半径約14ギガパーセク(465億光年・10の28乗cm)であると。そして最小のプランク長さは10のマイナス33乗と……。シェルドン・グラショウ教授は、電磁気と弱い力の相互作用の統一理論を提唱し、素粒子と宇宙の全体構造を、古代神話の「ウロボロスの蛇」になぞらえた。物質のマクロ極限である宇宙の開闢を支配しているのは、逆に物質のミクロの極限の法則なのであると。……ウーン、そう言われるとそうかもね……。ぼくは ”宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないからだ”。という「人間原理的宇宙論」は与しないが、それじゃ「神の一撃で誕生した」といのはもっと縁遠い。「神は我らの宇宙を創造する前に何をされていたのか?」、聖アウグスチヌスは「何もされてなかったのだ。」と答えたというが….。
たまたまぼくがここにいる。そして宇宙を見ている。これが単なる「偶然の一致」なんだろうか?……そうに決まっているサ。でも不思議だ。137億年後の今現在、せいぜい70〜80年この世に存在し、ミクロの物質でできたぼくがマクロの宇宙を見ている。そして、そしてだよ。たかが1400ccほどの脳細胞が考えているなんて….。この堂々巡り、自分の尻尾を飲み込むウロボロスの蛇だね。
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。鴨長明も方丈記で語っていますね。
7/ 17th, 2010 | Author: Ken |
すべては太陽のせいだ!
梅雨が開けた。太陽の季節である。太陽がいっぱい、こんなに暑いのも、やる気が起らないのも、すべては太陽のせいだ!
強烈なコントラストに目眩がしそうだ。別に山や海に行きたい訳ではなし、休暇を取りたいとも旅行に行きたいとも思わない。無感動人間になってしまったのだろうか。
…..子どもの頃は違った。夏休みを待ちかね日がな遊びに没頭した。一日が、、一週間が一ヶ月が、恐ろしく短かった。そして生意気な高校生の頃だ。その時代の流行というのだろうか、ブームだったのだろう。
強烈に鮮烈にアルベール・カミュが「異邦人」で現れた。「今朝ママンが死んだ。昨日かも知れない…」。不条理という言葉を知った。「ペスト」「シジフォスの神話」「太陽の讃歌」「反抗的人間」等々、いま思い出すと恥ずかしいのだが、分かりもしないくせに分かったような顔をして浸りこんだ。
…人にはそれぞれ運命があるにしても人間を越えた運命はない。…..人間は日々の主人は自分であると知っている。この行為の連続を凝視し、彼の運命は彼によって創り出されるのだ。……頂上にむかう闘争、そのものが人間の心を満たすのだ。幸福なシジフォスを思い描かねばならない。「すべてよし」と。
…でも、人生は不条理だ!と言われても何が不条理か高校生の頭には理解できなかった。そして西欧人の抱く「神」の概念、文化、絶対性。そんなものは日本人には根本として希薄だから理解が違うのだ。….久々に読み直してみようと思う。
…そしてルキノ・ヴィスコンティの映画「異邦人」1968が来た。マストロヤンニとアンナ・カリーナだった。また60年代にはアルジェ独立を舞台とする映画の秀作があった。アルジェなんて古くはデュヴィヴィエ「望郷」のペペルモコくらいしか知らなかったけれど。
「アルジェの戦い」監督:シロ・ポンテコルボ。徹底したドキュメンタリー手法で、目撃者の証言、記録、写真から、ニュース映画のただ一コマも使わず、実写以上のリアルさを再現した。
「ロスト・コマンド/ 名誉と栄光のためでなく」監督:マーク・ロブソン 原作:ジャン・ラルテギー アンソニー・クイン/アラン・ドロンほか、なんて映画も見た。フォーサイスの「ジャッカルの日」、ドゴール暗殺未遂に続いていく訳だ。
7/ 13th, 2010 | Author: Ken |
実在・リアリティって何だろう?
毎日、朝から晩までPCにへばりついていると、オイオイ、現実って何だ?…と詰まらないことを考えてしまう。こんなのデータだけじゃないか!ということはこんなもの「存在の耐えられない軽さ」じゃないか。…いや現に見ているじゃないか、触っているじゃないか、ここにあるじゃないか!ン!あるよね。
でも見るというのは電磁輻射の可視光線という範囲のスペクトルだし、聞こえるということは鼓膜にかかる空気の圧力だし、匂いは鼻の粘膜による空気の化学分析で、味は舌に乗った物質の化学組成じゃないか。
分かっているよ、クオリアとか愛とか情とか歴史とか人生とかサ…..。人間はそれ以上のものだって言いたいんダロ?…じゃ実在(リアリティ)って何だ?….ぼくたちは近似値までは迫れるけれど、真の姿を捕えることが出来るのかね?……完璧に理解できたと思っても、それは君の脳内の微弱電流の作用と化学変化、ニューロンやシナプスの作用なんだろう?…..ぼくたちの身体はタンパク質や水、それは炭素や水素などの原子で、陽子と中性子と電子でできていて、それはクオークとグルーオンで、いや超弦理論という弦の震えで、そしてE=mc2乗、すなわち物質とはすべて光だ。….と言われてもね。
本当に宇宙の真理があって、ぼくたちその影絵とか一部をかいま見ているのだろうか? 二千年以上前の人間も同じ事を考えていた。プラトン先生、実在って何だ? もしかしたら氷河期の洞窟でご先祖さんたちも、なぜマンモスがいるんだ? 俺とは何だ?…と。
ウーン、この季節なら生ジョッキを傾ける最初の一口、たまらんね。喉と身体に実在感があふれますね。
6/ 13th, 2010 | Author: Ken |
時の過ぎゆくままに…。
なぜ時間は過去から未来へ流れるのか、なぜ過去は定まっているのに未来は未知なのか?H・G・ウェルスの「タイムマシーン」「浦島太朗」「リップ・ヴァン・ウィンクル」「バックトゥ・ザ・フューチャー」「果てしなき流れの果てに」…と時間旅行の種は尽きない。
「タイムマシーンができた!過去に戻ろうとスイッチを押した。一瞬前に戻った。タイムマシーンができた!」永遠の繰り返しだね。まあ、人間的時間について哲学者は訳のわからん事を長々と書くから割愛して、時間についての名言を拾い出してみよう。
●タイムマシーンは無い。未来から誰も来た者を見たことがかないからだ。….スティーヴン・ホーキング
●時間そのものを感じることは誰もできない。事物の飛翔と静止から時間を知るだけなのだ。…..ルクレティウス
●時間は君が作ったもの君の頭の中だけで時を刻む、考えることを止めた途端、時間もぱったり止まるのだ。…アンゲリス・シレシウス
●過去、現在と未来の区別は幻想に過ぎないが、頑強な幻想である。….A・アインシュタイン
●逃げて行く分を捕まえて、後の分の側に並べることはできない。….エドワード・ミルン
●物理学の基礎から時間が取り除かれるような新しい構造にいつの日にか出会う心構えを持つべきだろうか?
…そうだ、それは時間が厄介者だからだ。
●時間はわれわれの思考の中で演じる。一つ一つの役割ごとに異なる衣装をまとう。…..ジョン・ホイラー
●時間性の印象は人間の発明品に過ぎない。時間の概念はあまりのも矛盾が多く不可解なので、
時間が全然存在しないと見た方が筋が通る。…ジョン・マクダガード
●アウグスティヌスは神を時間の外に置き、神に時間そのもを創造させた。時間が宇宙とともに現れたという観念には適合する…。
時間はビッグバン以前には存在しなかったのである。….ポール・デヴィス
●できるうちにバラの蕾みを集めたまえ。懐かしい時はいまも飛び続けている。…ロバート・ヘリック
●この箱を決して開けてはなりませぬ。….乙姫
6/ 5th, 2010 | Author: Ken |
相対論的時間
宇宙の年齢は約137億年、地球の歴史は約46億年といわれるが、物理学から見た時間はどうなっているのだろう。かってニュートンの宇宙には絶対時間・絶対空間というわれわれから独立した存在として描かれていたが、アインシュタインの相対論によって否定された。
相対論によると真空中の光の速さ秒速約30万キロが絶対的な物理量となり光速に近づくほど時間は遅れ空間が縮まると。ン?ある慣性系から見て空間上の異なる地点で同時に起きた事象は、別の慣性系から見ると観測者に対して相対運動する時計は進みが遅れ、同時に起きてはいないって? また一般相対性理論によれば重力と加速度は等価であり、これらは空間と共に時間をも歪める。
重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる。つまり地球の表面では人工衛星よりも時間の進み方が遅い。だからGPSだってこの時間誤差を修正して位置を決めているそうだ。…まあ、ぼくの力ではこれ以上の説明は手に余るから、相対論やその辺の説明は物理学書を読んでいただくとして、時空が観測や実験から証明された真空中の光速が一定(光速度不変)であるに基づき、45度の世界線を持つ円錐形の時空図ができる。この光円錐の未来と過去の原点が「今現在の私」である。
じゃ、どうして時間は不可逆性で過去から未来に向う一方向の矢なんだ? 10億光年先から来る星の光は10億年前に発した光だ。ということは10億年前の過去を見ている? そして、そして不思議なのは仮にぼくが一個の光子としたらどんな世界を見るのだろう….。
相対論によると光速に近づくほど時間の遅れと空間の縮みは極限に達し、光速になると一瞬のうちに宇宙の果てに達する。光子にとっては宇宙の広さは0であり時間も0。ということは空間も時間も存在しない、つまり無だ。光子にとっては無である世界にぼくたちは悠久の時空を見ているというわけだ。相対論で見ると時間は「実」で空間は「虚」である。光速を超えることはできないから光円錐の外側は非因果的領域でうかがうことすらできないものだ。だから因果関係を持てる世界、つまり「時間」が「実」であり時間性の中かに
しか私はあり得ないのだ。ウーン、分かったような分からないような…。
●「時間について・About Time」ポール・デヴィス 林一訳:早川書房 アインシュタインの相対論を基盤として面白いの何の。
●「時間はどこで生まれる」橋元淳一郎:集英社新書 人間的時間と物理的時間の統合論、この一冊で分かった気になる?
6/ 3rd, 2010 | Author: Ken |
時と流れ。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」方丈記:鴨長明
果てしない時の流れのなかで、はかない人の命と崩壊してゆく時代、大火事、旋風、地震、都遷、飢饉、孤独、老い、自問……。
方丈記は時間の作品だ。移ろい行く時を捉えた名文中の名文である。できれば音読し声に出して読めば和漢混淆文のリズムに乗り一気に読み上げられる。言葉を極端に削ぎ取り凝結し時の流れのなかに置く。記憶というドキュメンタリーが蘇り人生という時間が見えてくるのだ。
長明の生涯は不遇だったという。ある才と眼を持って生まれたものは器用な故に恵まれないものである。見える以上何をさせても人並み以上にできてしまう器用貧乏さ。旺盛な好奇心と行動、世間から距離を置きながらどこかで繋がりを求める俗物性。己を見据える己がいる分離した精神による客観性と冷笑、それが金や出世から外れたアウトサイダー的生き方にさせてしまうのである。生き方が下手な男の悲哀である。
また長明は絃楽の達人であったという。音曲とは時間と空間の芸である。紡ぎ出される拍と節と調が次々と生まれては消えていき、その流れに感情が喚起され、音の美の漂いを味わうのだ。音楽が時間芸術と言われる所以である。
秘曲「流泉・啄木」とはどんな曲だったのだろう。ジャズのエリック・ドルフィーが死の間際に吹き込んだ「ラスト・デイト」。そのなかに彼の肉声が聞こえる。「音楽は終わると空中に消えてしまう。もう二度と取り戻すことはできない」と…。過ぎ去ったものは二度と帰ってはこないのだ。
生まれ、生き、去る、生の喜びと際限のない孤独、死とは究極の孤独だから不安なのだ。それを無常というのだろうか。
….知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか
目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。
のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。
枕頭の書とまでは言わないが毎夜寝る前に数章を読む。仕事とはいえ方丈ならぬ小さな事務所、キーボードとディスプレイの前で日がな過ごしている。その間にも時は流れて行く。三尺四方が私の人生の大半なのだが….。
●「方丈記」鴨長明:岩波文庫 ●「方丈記私記」堀田善衛:ちくま文庫 ●「方丈記を読む」馬場あき子・松田修:講談社
6/ 1st, 2010 | Author: Ken |
時間とは何だろう?
時間とは本当に不思議なものだ。過去、現在、未来と存在するように思える。しかし過去はあったのか?
人も街も自然の風景も変わり、子どもは大きくなり去って行った人もいる。昔し手に入れた物は古び散逸する。遺跡もあり化石もある。放射性物質の崩壊から過去の時間も計算できる。痕跡という事実から過去というものはあったのだと。生きている自分にとって、時間はいつも「今現在」である。
しかし、現在・今の一瞬・刹那の積み重ねだろうか? 一瞬・刹那は消え去るものであり「今」という自覚はない。「今」と感じたとしよう。しかし、その認識は肉体という広がりの中で脳で処理され行動に移すための時間がかかる。思った時は過去である。
時計があるじゃないか。1秒は「セシウム133原子の放射周期の 9,192,631,770回にかかる時間」空間は1mを「真空中の光が1/299792458秒の間に通過する距離」と定義されているが、これは単位という人間の取り決めである。時計とは単なる基準であって物差しにしか過ぎない。
…時間を考えた哲学者は多いが物理学でいう時間とはとんでもなく乖離している。疑問は増すばかりである…。誰か肉体的・心理的・人間時間と物理的時間の両方を的確に説明してくれないか? 老化という事実を取り上げてみても、どうも肉体のDNAには時計が組み込まれているようだし、産まれ死するのは人間の宿命である。まあ、子どもという分身を残しはするが…。
私もいつか生を終える。ファウストは言う「時よ止まれお前は美しい」…己はこの最高の刹那を味わうのだ。…..メフィストーフェレスが言う「過ぎ去った、それはどういう意味だ。過ぎ去ったとはもとから無かったことと同じじゃないか」。
わたしの過去とは記憶だけである。記憶は時間ではない。脳に作られた虚像である。いったい時間とは何なんだろうか?