5/ 16th, 2010 | Author: Ken |
Reloading or Format…初期化したい。
宿酔いである。頭が重い。できれば脳を氷水でチャポチャポ洗いたい気分だ。それとも強力なウィルスバスターでバグやスパムを消せばスッキリするだろーなー。と、集中できない自分を呪っている。そうだ!新しいOSに入れ替えよう! ン、アプリケーションもついでにバージョンアップだ!
こんなことを考えるだけでいかに機能が低下しているかが分かる。昨夜だってバージョンアップするためにアルコールで洗浄したのに…。
後悔と無力感と自虐と情けない自分を嘲笑する。まあ少しは…無理もないか!と自己憐憫もある。
これが甘い!もっと厳しく行かんかい!何年生きとんのじゃー!学ばん奴は大成せんぞー!…分かってまんがな。怒らんといて。しかし、DNAのOSはしょうがないとして初期化したら別人になれるのだろうか? 誰でも別人になって違う人生を夢見るじゃないか。
超人になりたいと思っているじゃないか。だから仮面ライダーみたいに変身!…その点女性はいいね。ヘヤーを変えたり化粧(化けて装う)したり、高価な宝石つけたり新しいドレスを着たり(日本女性のファッション係数がGDPに占める割合は世界一じゃないか?)…。
その点男はつらいよ。超人願望ね、ツアラトゥストラはかく語った。「大いなる正午だ!永劫回帰だ!」…スミマセン、大いなる午前様で永劫に学ばなくて。「悠々たるかな宇宙、遼々たるや歴史、おおホレーショよこの天地の間にはおまえのおよびもつかぬことが数多くあるのだ!」人生不可解なり。お酒を飲めば大なる悲観は、大なる楽観に変わるのですね。さて、今夜はどこに行こうかな。
5/ 12th, 2010 | Author: Ken |
時よ急ぐなかれ
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也 …… 最近一年が速いと思いませんか? 歳を負う毎に短く感じられて仕方がありま
せん。一週間が、一ヶ月が、一年が…。去年のいま、仕事をした指先の感触がまだ残っているのに、もう同じ季節と日にちです。
物理的時間経過が速くなったわけじゃなし、心理的時間が速く感じられるからでしょう。じゃ、どうして速く感じるのでしょうか?
時代が忙しいから … 地球は狭く便利になり、インターネットによる瞬時に情報が飛び交うことにより仕事や生活リズムの高速化。
情報が多い … やることが多過ぎるからか?嫌な仕事や暇を持て余すと時間は長い、集中している時や興味にひたる時は時間を忘れている。原始時代は時間がゆっくり流れていたのでしょうか?….子どもの頃は、もう幾つ寝ると…いや、遊びに時間を忘れていた。
サーカディアンリズムの変調 … 体内時計と日常生活とのズレ、夜型、24時間営業の都会による時差ボケ?人間の時間、ネズミの時間。
残された時間への焦り … 子どもは未来が広く長い。折り返し点を過ぎ加齢するほど未来は狭まる。その焦燥感で時間が短く感じる。
加齢による新陳代謝の低下 … 人間・生物は開放系の散逸構造でエントロピーを減少させて個体を維持している。エントロピーが増大するのが宇宙であり世界であるのだから生物とはエントロピーの法則に反している。加齢により新陳代謝が弱まりエントロピーが増大するからか?身体的能力が低下して動作が遅く、前にはすぐ出来たのにと心理的時間が速く、一時間が一日がまだ先だと感じるためか?
ところが脳内の記憶、経験、情報量、思考、統合、技術、洗練といったものは加齢とともに強化され、昨日よりも賢く上手く緻密になっている。熱力学ではないが、たとえて言えば脳内秩序、エントロピーの減少であろう。
まあ、認知症になれば脳は無秩序?いやシンプルになる?最終的には原子に還るのだから無秩序、つまり死であるわけだ。
…アヴォガドロ定数でぼくの炭素の数を調べたってぼくじゃないしね。千の風になるより地球大気1立法メートルに2個くらいじゃないかな。
…閑話休題、脳内の情報が加齢とともに増えるから意識下で忙しく脳が活動しているのだろう。だから時間を忘れ、時が過ぎるのが速いのだ。と自分で納得しているが、下手の考え休むに似たりというし、お酒を飲めば支離滅裂のエントロピー増大だし、何とかしてほしいのだが、その間にも光陰矢の如しだ。
5/ 8th, 2010 | Author: Ken |
現実の砂漠へようこそ
Welcome to the Desert of the Real 「現実の砂漠へようこそ」。これは映画マトリックス(1999)でモーフィアスがネオに言う台詞だ。決して現実から逃避するのではないが、この索漠とした現実よりインターネットやゲームのほうがリアルなのかも知れない。
現実という客観的時間、私の意思で判断する主観的時間、それらが一体となりコード化され映像化した情報を見るという行為により現実化するのだ。いま世界で様々な出来事が起っている。君はすべてを自分の眼で見、体感したか。光速で飛ぶ情報を見ながら、これは現実であると錯覚しているのではないだろうか。夢は醒めなければ現実である。現にいま見ているという実感も自分の脳内に作り出した幻影である。またヴァーチャル・リアリティという言葉は「想像された現実」というイメージが強いが、「これまで現実と言われたものとは異なる、事実上の現実」なのである。常に変わらず何物とも関係を持たないニュートンの絶対的時間・空間は相対論と量子論によって否定された。….本当の客観性とはあるのだろうか?また持てるのだろうか?
…映画、TV、ゲームも3Dの波が押し寄せている。これから加速するネットとヴァーチャル・リアリティの時代に、ぼくはどんな座標を持たなければならないのだろう。….恐ろしいことだが、近未来に人間の脳にチップを埋め込みコンピュータと連動し、世界中のクラウドと一体になるのだろうか? その時、自分とは何なのだろうか?….たぶん人間は何でもやってきたのだから。
⚫️THE MATRIX 監督:ウォシャウスキー兄弟 出演:キアヌ・リーブス、ローレンス・フィシュバーン、キャリー=アン・モス
⚫️「悪の知性」ジャン・ボードリヤール 塚原史+久保昭博 訳/NTT出版:「現実の砂漠にようこそ」と現代の情報社会を悪の知性として逆説的に語るのだが、どうってことない内容を思想・哲学書は、わざと造語や難解な文章で小難しくしているのではないか。
本人がよく理解できていないから理解できない文章になるのだろう。哲学者の書く科学は科学用語乱用と勝手な解釈が多いですね。
4/ 26th, 2010 | Author: Ken |
メランコリーの妙薬
人間は「自分で自分を騙す」。楽観という夢を見たり、一瞬にして悲観に落ち入る事もある。どうもヒトの脳の前頭前皮質は、複雑な認知行動、成果予測、目標、行動に基づく期待、社会的行動のコントロール、そして人格の発現に関わっているらしい。
だから「楽観と悲観」は未来を洞察するから生まれる。…不安の概念、死に至る病、考えてしまうんだね。
また歳を重ねると残された時間や自分の無能力感、不条理な人生を思うとき鬱になるのかもしれない。
鬱の時代である。これからの生き方と日本はどうなってしまうのでしょう?という会話をよく耳にする。日本には何でもある。ないのは希望だけだ!と。格差社会、高齢化、不況、失業、高自殺者率…。なんともやりきれない鬱陶しい気分と自信喪失。
バブル崩壊から20年、明日が見えない日が続く。神戸では大震災もあった。高齢化により日本の凋落が始まったというが、別に世界第二位の経済大国でなくってもいいし、そんなことを誇る必要もない。十倍もの人口がある中国やインドがGDPも大きくなるのは当たり前だ。単純に十倍も飯を食うんだよ。かって日本がイギリス、フランス、ドイツを追い越した頃、ヨーロッパの国々は日本をどう感じていたのだろうか。……あれほど期待した政権交代も迷走と失望だけであるし、マスコミというTV、映画、出版、新聞などの質の劣化は進んでいるし、政治家の醜悪な媚態は眼を被いたくなる。
その点、インターネットの方がチョイスするのは自分だからはるかにクールに見れますね。
ああ、何とかしてくれ!という叫び声が聞こえる。プロザックなど向精神薬、それとも酒でも飲まなければやっていけない時代なのか? それとも偽薬プラシーボでも調合してもらうしかないのだろうか。(placebo:ラテン語で「私を喜ばせる」は、本物の薬に見えて効く成分は入っていない偽物の薬の事で、二重盲検法による医師(観察者)からも患者からも不明にして行う方法で投与しその効果を探る)。これは病気より人間を対象とする心理学、社会科学的意味のほうが大きいように思われる。
演歌の歌詞で「だまし続けて欲しかった…」なんて、大本営発表でもいい希望(まれなのぞみ)を信じたいんですね。人間は。ご利益宗教、怪しげなサプリメント、磁気ネックレス、ヒーラー、携帯依存の友達ゴッコ…..。何でもいい、自分を騙す「メランコリーの妙薬」が欲しいんですよ。そして人間そのものは数千年変わっていないんですね。
ギリシャ神話のパンドラの話はほんとうに皮肉だ。開いてはいけない箱を好奇心に駆られて開くと、あらゆる悪霊や災いが吹き出した。慌てて蓋を閉じると中には「希望」だけが残った、と。
4/ 19th, 2010 | Author: Ken |
どうして僕はここにいるのだろう。
桜も散った。ドッペルゲンガーじゃないが自分で自分を見ていることがある。青二才でもあるまいが自分とは何かと考えてしまう。
果たして「心」というものがあるのだろうか。美意識、洞察、愛、憐憫、判断…これらは計算不可能なものである。この水とタン
パク質のジェリーみたいな脳のどこかに「心」が存在しているのだろうか。
私とは何だ?…親から受け継いだDNAと肉体をベースとして、私とは記憶である。記憶喪失になれば自分が自分で無くなるのだか
ら当然だろう。じゃ記憶とは何か?….脳のニューロンとシナプスで化学物質のキャッチャーが増え固定されると記憶になる。
また海馬では経験は核感覚器官で感知された電気信号を一時的に記憶すると説明してくれる。じゃ物質の化学変化なのか?
じゃ、考えるとは、意識とは、クオリアって何だ?
面白い仮説がある。数学者・数理物理学者ロジャー・ペンローズの「量子脳」だ。要は量子論における「重ね合わせ」から「客観的
な波動関数の収縮」(objective reduction・OR)から意識が生じると。彼は脳のニューロンにあるマイクロチューブルにおいて、
意識を支えるのに要求されるような性質を持った「OR」が起っているいると提案している。マイクロチューブルはチューブリン
(微小管)と呼ばれるタンパク質のサブユニットから構成され、チューブリンのなかで量子力学的な重ね合わせ状態が出現し、その
ままコヒーレント(波動関数の位相が揃った)な状態に保たれる。ある質量・時間・エネルギーの「しきい値」に達するまで、他の
チューブリンの波動関数を巻き込んでいく。こうしたプロセスの結果、システムが「しきい値」に到達したときに、波動関数の自己
収縮「OR」が起こる。コヒーレントな重ね合わせ状態を「前意識的プロセス(計算状態)」、波動関数の収縮を「一つの離散的な意
識的イベント」と見なし、このような「OR」が次々に起る事によって「意識の流れ」が生ずるのである。
….ほんとうにそうなのだろうか、ぼくの細胞は原子で構成され、ある秩序を持ってぼくがある。極端な「汎精神主義」をとった場合、
意識はすべての物質が持つ性質なのだろうか。それとも物質も心もマクロの観測するものがいるから存在するというのだろうか。
紛れも無く物質でできたぼく、「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」と言うが、花もぼくの身体も日々代謝し変化し、動的
平衡にある流れが生命であり、ぼくなのだろうか。 …….心から心にものを思わせて身を苦しむるわが身なりけり 西行
●「心は量子で語れるか」ロジャー・ペンローズ 中村和幸/訳 講談社:他にも「皇帝の新しい心」「心の影」林一/訳 みすず書房
●「ペンローズの〈量子脳〉理論」ロジャー・ペンローズ 竹内薫・茂木健一郎/訳・解説 ちくま学芸文庫
2/ 12th, 2010 | Author: Ken |
ギブ・ミー・チョコレート!
バレンタインデーが近づくとチョコレートという響きが記憶を蘇らせる。それは恥ずかしくもあり軽い嫌悪感でもある。
忘れてしまいたのだが残夢としてこびりついているのだ。そう、進駐軍のジープに跨がったGIに ”ギミー・チャコレー!” と叫んだ自分があるからだ。ギブミーチョコレート!ホロ苦く鮮烈に甘く、DDTの匂いと栄養不良のチビがジープを追いかけるシーンを見てしまうのだ。
”カムカムエブリバディ・ハウデユー・ユーデユ・アンド・ハワユー” しょうじょう寺の狸囃子のメロディーでこんな歌を歌ってね。今でも歌えるところが少し悲しい…。
ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を読んでいると、なんだ全部知っていることばかりじゃないか!と。
親父に連れられ親戚のお家に行くときなんか、大阪の城東線の廻りは焼け跡で錆びた鉄骨がむき出しで並んでいた。大阪駅の地下道には手風琴(アコーディオン)の傷痍軍人が「異国の丘」を奏で、子ども心に恐ろしさ、哀しさが映った。戦災孤児(浮浪児)、リュックを担いだ買い出しのドタ靴、地上にはGIにぶら下がった毒々しい化粧のパンパン、GIのカーキに包んだ栄養たっぷりの巨大な尻、黒人兵、キャメルとラッキーストライクの匂い。チューインガムとチョコレートに文明の香りを嗅いだ。
…いまハーシーを食べても特別にウマイとも思わないが、あの頃は涙が出るほど美味しかった。そうだ、あの頃から半世紀以上もバレンタインデーになると女性にギブミーチョコレートと言い続けているのだが、いまだにお当たりがない。モテない男の悲哀だ。一人寂しくチェット・ベーカーのマイ・ファニー・ヴァレンタインデイも聞くか。
ずっと前に彼のコンサートに行ったことがある。歳以上に老いさらぼうた亡霊のような男が歌う、だが、声だけ聞くと甘く切なく青春の輝きだ。中性的な少年のような声、彼の歌声もこの日には一際胸に沁みる。
~Stay, little val – en – tine, stay! Each day is val – en – tine’s day.
1/ 17th, 2010 | Author: Ken |
1.17
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり。あれから15年、あっという間だ。…突き上げるような衝撃、轟音、起きようとしてまたベッドに倒れ込んだ。真っ暗闇のなかで通り過ぎるのを只管待った。長い、断ち切るように轟音が途絶えた。慌てて階下に駆け下る。
「何があった!?」地鳴りとともに余震が何度も襲う。蝋燭の微かな灯を囲み黎明を迎えた。
…翌日自転車で街に出た。続々と避難民が郊外を目指す。凄まじい破壊の跡、まだ煙がくすぶり炎さえあった。焼け野原に呆然と立つ人影、軒下に毛布にくるまった人、友人知人宅と事務所を廻った。…やっと私の事務所に着いた。外観はさほどの被害はない。中はもう無茶苦茶だった。
明日からどうしよう…。口を開けて笑うしかなかった。悲観とちょっぴりの楽観が綯い交ぜになり、その苦しさから逃れようとスポーツに打ち込んだ。肉体を虐め疲労困憊は心を少しは軽くする。車を止め、ゴルフクラブを捨て、時計を外した。お金を借りれば生活に使ってしまう恐怖があった。1年が過ぎた頃やっと決心がついた。ぼくにはデザインしかない。新しく事務所を作ろう。借金をして再開した。
…まだ若かった。こんな凄いことを経験できたんだ。無理矢理に楽観主義者と自分に言い聞かせ、困難を楽しんでやれと…。
素晴らしい優しさの人にも出会った。この時と震災をネタに金儲けに狂騒する人も見た。しかし、家や家族を喪い帰りたくとも帰れない人も多い。孤独死、自殺、離散、廃業、特に高齢者は大変だ。自分のなかで今まで考えもしなかった社会のこと、共に生きること、行政あり方などが徐々に見えてくるような気がした。NGOを立ち上げ活動する友人もいる。ボランティアで奉仕する知人もいる。
…ぼくに何ができたのだろうか、今になって自問する。…でもぼくは何もしていない。ぼくには何もできない。ただ震災は人間の優しさだけは教えてくれた。忘れてはならないことだ。