11/ 1st, 2017 | Author: Ken |
Cafe de Mobius
Cafe de Mobiusに行った。「トーストくださ〜い!」アレレッ?
7/ 7th, 2014 | Author: Ken |
神々の骰子遊び。
アインシュタインは、もし量子力学が正しいなら、世界は狂気じみているといった。彼は正しかった。世界は狂気じみているのだ。…ダニエル・グリーンバーガー・ホイーラーはファインマンの論文に感動し、原稿をアインシュタインに見せた。「素晴らしくないかい?これで量子論を信じらるようになるんじゃないか?」「God does not play dice. 神がサイコロ遊びするとは信じられない。でも、これで私は間違いを犯せるようになった」。かつて、アインシュタインは量子論発展の先頭に立ち、ブラウン運動論を始め物理学における確率論的手法の開拓者でもあった。
しかし、彼は確率解釈を基とするコペンハーゲン派の量子力学に疑問を抱いた。・・・1935年、アインシュタイン(A. Einstein)はポドルスキー(B. Podolsky)、ローゼン(N. Rosen)と連名で量子力学の記述が不完全だと主張した。EPRパラドックスである。そのパラドックスとは?これはあくまで思考実験である。・・・ここに対で発生した二個の粒子A、Bからなる力学系を考える。各粒子は、二つの値スピンa(上向き)、スピンb(下向き)しか取らない力学量をもっている。角運動量保存の法則に従って2つの粒子の総合スピンは0で
A(の力学量)が値aを取ればB(の力学量)が値bを取り、A(の力学量)が値bを取ればB(の力学量)が値aを取という相関関係があるとき「Aがa、Bがb」および「Aがb、Bがa」という運動状態が同時に存在する。したがって、おのおのの波動関数を、それぞれ、Ψ1(Aがa、Bがb)とΨ2(Aがb、Bがa)と書けば、重ね合わせの原理により、この力学系の状態はΨ=Ψ1(Aがa、Bがb)+Ψ2(Aがb、Bがa) でなければならない。
つまり、AB各々の粒子は上向きと下向きが同時に重なっていて観測するまでは何も確定していないのだ。この相関関係が成立した後、AとBを宇宙の中でアンドロメダ銀河くらい200万光年以上の星間距離を取って、Aの力学量の測定を行う。その時A(の力学量)が(値)aを取ったことがわかれば、「波動関数の収縮」Ψ→Ψ1(Aがa、Bがb)が起きるはずだ。したがって、B(の力学量)が(値)bを持っていることを知る。測定結果がA(の力学量)の値としてbあれば、「波動関数の収縮」は、Ψ→Ψ2(Aがb、Bがa)であり、ただちにBがaを取ることを知るわけだ。そんなことが!!!A、Bが200万光年も離れているのにBに情報が瞬時に(光の速度で200万年かかるのに、それを超える速さで)伝わるとは!この宇宙で最も速いのが光である。それであるから瞬間にAに対する測定がBを乱すことはない。またBからAに伝わるはずもない!アインシュタインは無限大の速度で情報が伝達されることを「お化けの遠隔作用と皮肉った(Spooky action at a distance)」
1)Aの観測結果が自動的にBの状態が決まる。これは「観測行為が状態を決定する」という量子力学の主張に反する。
2)Aの観測結果を持った情報がAからBに光速度以上(無限大の速度)の速度で伝わることになり、相対性理論に反する。
しかし、1964年にベルは局所実在論が不等式の形で表現できることを発見した。このベルの不等式による予言と量子力学による予言が異なる結果になる場合があることを示し、EPRパラドックスは実験的に検証可能となったのである。その後、アラン・アスペ等による実験結果、光子対では非局所相関が確かめられ、量子力学を支持する結果となった。つまり、2つの粒子はこの「分離不可能」であり最初から強い「相関関係」からなっており2つの粒子に何ら信号が伝わる必要はないことになる。どんなにと遠く離れていても2つの粒子は「絡み合い(entanglement)」しているのだ。・・・・不思議過ぎる!!!でも、重要なことは、いまだかって量子力学に反するような結果は一つも現れていないし、現代のコンピュータやスマートフォンも量子力学の賜物である。
一体、宇宙とはどうしてそうなっているのか? 朝永振一郎博士とノーベル賞を分かち合ったリチャード・ファイマンは「誰も量子力学を理解できない(Nobody understands quantum mechanics)」と言った。・・・・不思議過ぎる!!!
(「量子力学入門」並木美喜雄:岩波新書、「量子力学のからくり」山田克哉:ブルーバックスを参考にさせていただきました)
5/ 5th, 2014 | Author: Ken |
Bit from It? It from Bit ?…… 何か味気ないネ。
Bit from It とは物理学者ジョン・ホイーラーが「宇宙のあらゆるものは情報であり、その情報(bit)を観測することによって存在(it)が生まれる」と言った。確かに人間は五感を通じてしか情報を得られないから、「存在の全ては情報であると」….。
そんな難しいことを言いたいんじゃなくて、It from Bitの時代になってしまったんだ!という一抹の寂しさを感じる話だ。そう、手触りあるアナログから無味乾燥したデータというデジタルになってしまったのだ。僕はデザインの仕事を半世紀も続けているが、ン、90年代の初めにAppleの Macを使い始めてから、毎日キーボードとマウスの生活だ。三角定規もデバイダーも鉛筆も筆も何もかもデジタルになってしまって味気ないことこの上ない。
かってLPジャケットにはズッシリとした手応えと1フィート角のデザインがあった。そのデザインに憧れて無理をして高価なレコードを買ったものだ。それが、テープになり、CDになり、ネット配信になった。簡単すぎて….。カメラもデジカメになって、撮影は簡単だし(実はモデル撮影でも置影でも構想と準備や設定が大変なのだ。これで質が極まるのだが…)画像合成や修正も簡単(腕があれば)だ。デジタルというBITになって簡単だけれどもイージーになってしまった。つまり、お手軽なんだ。だから品質もギャラもね。本だって雑誌だってそうだ。あの若く貧しき時代に、古本屋で手にとった「洋書」(古いネ)の艶やかでダイナミックで新鮮で!レイアウトもイラストレーションも写真も!ジョージ・ロイスもハーブ・ルバーリンも、ボブ・ピークのイラストも。本だって「電子書籍」だ。僕はモニターで見ても読んでも、消した瞬間に何も記憶に残らないのだ。
つまり「読む」のではなく「見る」んですね。映画もわざわざ映画館に行かなくった。昔はTVで見たい放送があると急いで帰ったものだ。…..ビデオからDVDになり、HDになり、またはYou Tubeでお手軽だ。あの年に数十本見た映画少年も今やほとんど行かなくなった。…また、たまに行っても詰まらん映画で失望ばかりだ。….僕も古いのかね?もう歳なのかね?….やはり人間は感じてこそ印象となるのだ。もう人間サイズで実感できるものと言ったら「食べ物」くらいしかないのだろう。第一、罪がないしね。だからFBやBlogなんかで食べ物ばかりの記事になるのだろう。…..僕は通勤電車は書斎だと思っている。本を読む楽しみとは「知らないことを知る」こともあるけれど、読むという行為は頭のなかで声を出さずに「想像と映像を見ている」んですね。つまり「イメージ」という実態の無いものが見えるのだ。イメージとは脳の記憶と連鎖と思考が、あるかごときItを作り出し、それをまた絵や文章でアウトプットすることなのだろう。でも、「モノ」という「アナログのIt」から「デジタルというBit」に流れるのは時代の必然だ。…でも何か寂しいですね。
と、言いながら、この画像もPCのデジタルだからこそ出来るのだが…..。でも、見る人は人間というアナログ存在と感情なんだから。
11/ 24th, 2013 | Author: Ken |
虎よ!虎よ!
Tiger! Tiger! burning bright 虎よ、虎よ、赫々と
In the forests of the night, ぬばたまの森に燦爛と燃え。
What immortal hand or eye そもいかなる不死の手はたや眼の
Could frame thy fearful symmetry? ああああああああああああ造りしや汝がゆゆしき均整を?
AAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA「無垢と経験のうた:虎」ウィリアム・ブレイク
「虎よ、虎よ!:Tiger! Tiger!、あるいは「わが赴くは星の群:The Stars My Destination)1956。アルフレッド・ベスター、邦訳は1964年。SFによるデュマの「モンテ・クリスト伯」のような復讐譚だ。半世紀ぶりに読み直してみた。….当時、その壮大なスケールや異常なる世界にワクワクドキドキしたものだ。舞台は24世紀、ジョウント効果(テレポテーション)で飛び回り、内惑星連合と外惑星連合との打ち続く戦争…主人公ガリヴァー・フォイル。ただ一人で漂流する宇宙船を見捨てられた彼は、サルガッソ小惑星群(スターウォーズもこのへんからアイディアをいただいていますね)の科学人に拾われ額にN♂MADと虎のような刺青を入れられる。後に手術で刺青は消すのだが怒ると顔に模様が浮かび上がるのだ。奥歯にある加速装置を起動するとコマ落としのように通常の何倍ものスピードで行動できたりハード仕立ては無視だ。….彼は絶望と復讐心を糧に見捨てた奴らに挑むのだ…..と。いま読むと荒唐無稽、御都合主義で、フーンという感じですね。暴力描写だって、当時ミッキー・スピレーンのマイク・ハマーが45口径を轟かし大流行だった。あの頃はパックス・アメリカーナを謳歌する時代だったんですね。終わりの方にタイポグラフによるデカイ活字表現なんかあって実験的だったんだ。でも、やはり時間が経てば古びるというか、パラダイムというか時代性ってそんなもんですね。映画化の話もあったそうだけれど若きシュワルツェネッガーだったら似合うだろうな。もうCGづくしのドンパチ・カーチェイス・ハリウッド映画なんて食傷気味ですが….。
アメリカのペーパーバックの表紙が大好きだ。リアルでダイナミックで毒々しく、日本人が描くと劇的でないのだ(生頼範義は別格)。見ているだけでワクワクしてくる。特にフランク・フラゼッタなんざ……。だから描いてみました。お笑いを。
8/ 22nd, 2013 | Author: Ken |
SFの夏、ペーパーバックに昂ぶった。
1950年代末から60年代にかけて生意気に目覚め始めた高校生にとって熱い夏のイメージがある。映画「太陽がいっぱい」はあまりにも鮮烈だった。「真夏の夜のジャズ」に興奮しジャズにのめり込んだ。すべては太陽のせいだ!….カミュの「異邦人」もその頃に読んだ。日本では開高健の「パニック」、大江健三郎の「死者の奢り」「芽むしり仔撃ち」に、そして安部公房の「砂の女」「他人の顔」に新しい時代を実感したものだ。大藪春彦の「野獣死すべし」も忘れることが出来ない。「ヒッチコック・マガジン」でハードボイルドやヘンリー・スレッサーやスタンリイ・エリンも知った。古本屋で進駐軍が捨てていったものか、英語も解らないくせにペーパーバック表紙のイラストレーションに興奮した。リアルでダイナミックでやけにバタ臭い(死語)のだ。
そして、SFが恐ろしく新鮮に輝き、ハヤカワのペーパーバックがやけにカッコ良かった。縦長で小口が黄色、アメリカのペーパーバックそのものだった。ブラッドヴェリ、アシモフ、シマック、スタージョン、ラインスター、ハインライン、ヴォクト、クラーク、マシスン、レム、バラード、ディック…….。もうため息だった。小松左京の「地には平和を」「易仙逃里記」(エキセントリック?)に。
日本でも近代SFが始まったのだ。光瀬龍「たそがれに還る」…….。そして、そして。SFこそ新しい文学の可能性を開く。なんて鼻息が荒かったが….。あの頃、SFとモダンジャズで頭がいっぱいだった。何時しか年が過ぎ、モダンジャズは懐メロとなり、SFもほとんど読まなくなってしまった(もちろん芥川賞も直木賞も読んでいない、退屈すぎるのだ。それより科学啓蒙書の方がどれほどワクワクさせられスリリングで面白いか!)。
昨年、一番の友人を喪した。彼とはバーの片隅でよく語ったものだ。「屋根裏はタイムマシンだ。そうサルサの香りなんだよ」……。彼の遺品を整理しているとたくさんのハヤカワ・SF・シリーズがあった。ぼくも随分と持っていたのだが、貸したり無くしたりと散逸してしまった。あのペーパーバックの懐かしさと思い出が再び蘇る。いま順番に読み直している。
あの頃に……..。あの夏の日々に……。調べてみるとハヤカワ・SF・シリーズは1957/12に開始、1974/11に終了。総冊数318冊とある 。ぼくは何冊読んだのだろうか。
3/ 17th, 2013 | Author: Ken |
飛行するデザイン….トンボ、秋津、蜻蛉、蜻蜓。
スイ、スイー….。この表現はトンボのためにある。ホバリングから加速、またホバリング。その飛翔姿は美しい。古来日本は秋津洲と呼ばれた。秋津とはトンボ、古事記によると日本列島は蜻蛉の形をしているからだと….。おいおい宇宙から見たのかね?
…神話を信用したとしても、高々二千年くらいだ。その点トンボは約三億年前の石炭紀には存在していた。それも70cm以上もある怪物のようなトンボ、メガネウラだ。その化石を見ると現在のトンボとほとんど変わっていない。よっぽど基本設計が優れていたのだろう。
タンデム複葉の羽は超軽量で強靭、桁に網目構造、透明の膜。これを平米に直したら何と11g。厚さ1mmのジュラルミンなら重量は2.8kg、トンボの羽と軽さだと0.004mmの箔になってしまう(佐貫亦・鯨飛べより)。そしてアスペクト比(縦横比)の大きい主翼は効率が良い。昆虫のような小さなものにとって飛行速度と空気の粘性力(レイノルズ数・慣性力と粘性力の比)はスープのように濃く無視できない。だから滑らかな断面を持つ層流翼は小さな飛翔体にはかえって纏いつき粘りつくのだ。そこでトンボは翅の断面を非常に薄く形状は凸凹にしたのだ。何と!凸凹翼は上面の前縁から整った渦列を作り、纏いつく空気を逃がし、抵抗を小さく揚力を大きくしているのだ。つまり揚抗比が大きい主翼は優れているのだ。ヤンマは時速50〜90kmで飛翔するというし、急加速、減速、ホバリング、旋回といった運動性にも優れた特性を発揮するのだ。その飛翔姿は攻撃ヘリコプターに酷似している。残念ながら生物なので回転翼じゃないが背中に負った4枚羽、巨大な複眼は1〜2万個がビッシリと並び動かすことによりほぼ全周が見渡せる。まるでヒューズドアレイ・レーダーかTADS(目標捕捉・指示照準装置)ようだ。強力な顎はM230チェーンガンか!獲物を見つけると抜群の運動性と高速に物を言わせ、飛んでいる蚊、アブ、ブヨなどを空中戦で捕まえる。害虫を捕るので益虫と呼ばれるがトンボは猛虫なのだ。
…ヤンマは低空を直線飛行でテリトリーをパトロールし巡回するので、比較的捕まえやすい。子どものころヤンマを狙って川辺で補虫網を振ったものだ。そっと指でつまむとオニヤンマは黄と黒のラグビージャージを着たみたいだし、オレは危険なんだぞという警戒色を見せつけているのだ。グリーンにギロギロと輝く大目玉の幾何学的模様、羽ばたきは恐ろしいほど力強いのだ。ギンヤンマのグリーンとブルーに輝く体は煌めく宝石のようだ。その美しさは生物というより人工物のようだ。太陽に透かし見蕩れていた….。
秋になるとアキアカネの群飛が美しい。(旧軍の複葉練習機はオレンジに塗装されていたので「赤とんぼ」の愛称で親しまれた。)色が濃くなるとまるで唐辛子かネオン管のようだ。……「赤とんぼ」、何か郷愁を誘うイメージが強すぎるが、これは陳腐なサスペンス刑事ドラマで使われ過ぎたせいだろう。安っぽいシナリオ、その罪は大きい。….昔、播州赤穂に友人がいてイチゴ狩りなんかで遊びに行くと夕刻ともなれば有線放送で「赤とんぼ」が流れるのだ。〜夕焼け小焼けの赤とんぼ 負れてみたのはいつの日か…(ずーっとトンボに追われたと誤解していたが)。三木露風・山田耕作先生にイチャモンをつけるわけではないけれど、この曲のメロディーは、ロベルト・シューマンの「序奏と協奏的アレグロ ニ短調 op.134」の中で何回も繰り返されるフレーズに酷似していますね….。
8/ 2nd, 2012 | Author: Ken |
飛行するデザイン …. 異形の翼
どのようにしてこんな生物が出来たのか!まさかID(インテリジェント・デザイン)とも言えないし…。ランフォリンクス、まるで中世絵画にある「聖アントニウスの誘惑」に出てくる悪魔そのものの姿だ。画家たちは蝙蝠を意識して邪悪さを描いたのだろうが、こうも似ているとは!(アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」クライマックスの宇宙人の姿には意表を突かれますね)。プテラノドン、これは「大怪獣ラドン」のモデルだ。初代「キングコング」で崖上でプテラノドンがヒロインを鷲掴み?羽ばたきながらコングと闘うシーンは忘れられない。
ケツアルコアトルス、アステカ神話の「蛇神」の名を戴く史上最大の飛行生物だ。その翼開長は12メートルを超えると言われる。第二次大戦期の戦闘機に匹敵する大きさだが軽量構造で重さは60〜70kg位だと言われる。でも不思議だ、小指は退化し薬指が伸びて(蝙蝠は親指以外の指が伸びて皮膜作っている)、それが足との間に皮膜を張り飛行するのだ。羽ばたいてホバリングは無理だろうが横縦比の高い翼はグライダーのように滑空に適していたのだろう。ハンググライダーに酷似しているし、ハイテク戦闘機ステルスF117やB2爆撃機はなんと翼竜に似ていることだろう。近所のデパートで恐竜展が開かれる。行ってみるか、あの子どもの頃のドキドキした興奮が蘇るだろうか。
2/ 17th, 2012 | Author: Ken |
奇ッ怪巨獣、がんばれ T・レックス。
恐竜の嫌いな男の子なんていない!ぼくだって夢中になったものだ。最初はブロントサウルスだった。ついで重戦車のようなトリケラトプス、そして剣竜ステゴザウルスだ。真打ちはティラノザウルスである。かって地上をこんな奇怪なのが徘徊していたとは!まず巨大である。異形である。獰猛である。進化のデザインとはいえ常識を逸脱した異様さである。ウンベルト・エーコの「醜の歴史」を持ち出すまでもなく「異醜だからからこそ美しい」、磁石のように引きつけて止まない怪しさに魅せられるのだ。食うためにのみ巨大化した頭部、恐ろしいまでに凶暴な歯列、取って付けたような異常に小さい前脚、おまけに指まで退化し鈎爪が二本だ。
…映画にも興奮した。いまや定番となったT・レックスと剣竜の闘い。これは「キングコング」だった。「地底探検」「失われた界」「恐竜グアンジ」これはウェスタンなのだ。T・レックスにカウボーイが立ち向かい投げ縄で生け捕ろうとする…。そして無茶苦茶な話しなのだが「恐竜100万年」…まあ、ラクエル・ウェルチの見事な肢体が売り物なんだが石器時代に恐竜がいるわけがない。そして「ジェラシック・パーク」と続く….。
化石だって凄い!いまだって博物館に行けば血が騒ぐのだ。「スー」の巨大な骨の化石を見て驚嘆しない者はいないだろう。この地上に君臨した王者たちはなぜ絶滅したのだろう。6500万年前、白亜紀末期、突如絶滅した。その頃われらのご先祖たち哺乳類は鼠くらいの大きさで恐竜たちから隠れながらコソコソ生きていたのだ。恐竜絶滅説は数多くあるのだが最有力は隕石衝突説である。
1980年、ノーベル物理学者のルイス・アルバレズ親子らは「直径10キロの隕石衝突が引き起こした環境変動」とする説を提唱、白亜紀と第三紀の境目の地層(K-T境界)から多量のイリジウムが見つかったのが論拠になった。イリジウムは希元素で地球には少ないのだが隕石には多く含まれているのだ。91年にはメキシコのユカタン半島に、直径180キロのクレーター「チチュルブクレーター」が発見された。この「チチュルブ衝突」が恐竜絶滅の原因ではないか?時期も一致する。しかしそれだけでは?という疑問も多いのだ。…恐竜、この愛すべき古生物。ぼくはアパトサウルスなんて呼ぶよりブロントサウルスと言いたいのだ!なぜ名前が変わったのか?それを科学エッセイの名手であり古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドが「がんばれカミナリ竜・進化生物学と去りゆく生き物たち」で恐竜「ブロントサウルス(雷のトカゲ)」が「アパトサウルス(騙す、まやかすトカゲ)」に変えられてしまったお話しが愛情を込めて述べられている。ぼくは彼の本が大好きなのだ。でも02年に旅立ってしまった。… 「パンダの親指」「ニワトリの歯」「フラミンゴの微笑」「ダーウィン以来」「ワンダフルライフ」「人間の測りまちがい」「個体発生と系統発生」「時間の矢・時間の環」「嵐のなかのハリネズミ」「八匹の子豚」「干し草のなかの恐竜」「ダ・ヴィンチの二枚貝」「マラケシュの贋化石」「ぼくは上陸している」「神と科学は共存できるか」。…彼は5歳の時に博物館に連れていってもらってティラノザウルス・レックスを見た時「私はそんな物があるとはしらなかった。私は畏敬の念に打たれた」と後に振り返っている。彼の友人であり多くの科学エッセイやSF、科学啓蒙書残したカール・セーガンも逝ってしまった。そしてグールドがNHKのインタビューで語っていた。「セーガンは背が高いから天文学者に、僕は背が低いから古生物学者になったんだよ….」。彼のユーモアある豊かな人間性が偲ばれますね。
2/ 9th, 2012 | Author: Ken |
「偶然」…いまここにいる不思議。
ここにいるのは誰だ? 俺だ! 思った瞬間に忘れてしまうのだが、ああ僕もこんな歳になった。時の流れののなかでいまという刹那が次々と過ぎて行く….。なぜここにいるのだ?考えて見れば不思議なことだ。目の前にPCがあり、家族があり、友人があり、社会があり、世界がある。そして記憶という過去もある。僕は無神論者だし神秘主義者じゃない。…だから偶然そうなったとしか言いようがない。まあ、粗視的に考えて私とはこのようなもので成り立っている。….
1. マクロ宇宙/量子的ゆらぎ・宇宙誕生・ビッグバン → インフレーション → 4つの力 → 素粒子 → 物質 → 銀河団 → 銀河 → 太陽系→ 地球 … 開闢以来137憶年後のいまの世界。
2. ミクロコスモス/物質 → 分子 → 原子 → 素粒子 → クオーク →超弦理論?…. 量子物理学の世界。
3. 進化/46億年前・地球誕生 → 原初生命 → カンブリア期や白亜紀 → 哺乳類 → アウストラピテクス → ホモサピエンス → 10万年前出アフリカ記 → 社会的人間 → 個人としての自覚の世界。
4. わたし/受精 → DNA → 誕生 → 成長 → 60兆個の細胞 → 筋肉・臓器・脳 → 教育・環境・経験・学 ….. アイデンティティ・心理世界。
わたしが観察し認識するから宇宙がある? 宇宙あまりにも人間に好都合にできている? 人間原理? いや偶然だ。
つまり偶然の産物である「私」が宇宙や物理セオリーや進化や自分を認識している。そして物質でできた私がそれらを知り不思議がっている。量子学的なクオークでできた物質である私が、それらを理解しようとする心理。これって何だ。たかが地球上で太陽の周りを70〜80回ほど回転するだけの時間。それが人生であり、生きているってことはそれだけのことか!たまたまの「偶然」なのだ。いやいや結局は膨大な背景があり、社会的には同時代の皆さんに有形無形で「生かされている」わけだ。すべてのお世話になってね。
感謝ですね。喜びも悲しみも逝く年月、日は昇り陽は沈む。「天、空にしろしめす。なべて世はこともなし。」分かったようなことを言っちゃって。お恥ずかしい限りです。
6/ 26th, 2011 | Author: Ken |
ウィグナーの友猫
量子力学における観測・測定行為をどう捉えるか、つまり観測による波動関数の収縮の話だ。コペンハーゲン解釈、エヴェレットの多世界解釈など様々な説があるが、80年過ぎたいまも「波動関数の実在性」そのものに関する解答はない。ノイマンとウィグナーの理論では、観測対象粒子が遭遇するマクロの検出器内の物質系の状態もミクロである。したがって検出器を通過する粒子はすべて同じ位相のズレをもつ、よって物理的過程としての「波動関数の収縮」はない。彼らは「波動関数の収縮」は”抽象的自我”や”意識”だと言うのだ。
… 観測とは観測対象のミクロ系 → 検出器(猫)→ 観測者の眼底視神経 → 神経系 → 脳細胞 → 認識 → 波動の収縮?…
そこでだ、あの有名な「シュレーディンガーの猫」の実験を行う。シュレーディンガーは「猫のパラドクス」によって、彼らの理論を皮肉を込めて批判したのだ。・・・著名な物理学者であるウィグナー先生がその友人「猫(家のはすごく賢いネコなので携帯電話もPCだって使えるのだ)」に実験をさせるのだ。毒ガスでは猫が可哀想なので代わりにランプ(これいいでしょう!ψ・プサイの形の蜀台だよ)を使う。放射性同位元素が励起状態にあって放射線が出なければ、検出器の信号電流はなくランプは点灯しない。基底状態に遷移して信号が出ればランプは点灯する。すなわち、ランプの点灯と非点灯は、基底状態と励起状態に対応しているわけだ。 「友人ネコ」はランプを凝視して記憶または記録する。たしかに、これも立派な放射性同位元素の状態測定である。ただし、箱は密室であり、ウィグナー先生は外にいるので、ランプの点灯状況を知るには、電話をかけてその友人に聞く必要がある。ただし、その友人ネコは物理学者ではないので、ランプの点灯の意味を知らない。・・・・・「波動関数の収縮」はいつ起こるのか?
1)ウィグナー先生が「友人ネコ」に電話して、ランプは点いたかね?」その点灯状況を知ったときか、2)それとも「友人」がランプを見て記憶に留めたときか? 1)だとすれば、「友人ネコ」とランプが「シュレーディンガーの猫」の代りだから、ランプの点灯と非点灯はウィグナー先生が電話するまでは決まらないことになる。そりゃ変だ! 2)だとすれば、”観測の連鎖”は「友人ネコ」のところで断ち切られてしまう。その次の段階、すなわち、ウィグナー先生が電話をかけるという行為は、放射性同位元素の状態測定に何の影響も与えない。したがって、この操作はその放射性同位元素の状態測定に関する(ノイマン-ウィグナー理論の意味での)量子力学的測定とはいえない。少なくとも、”観測の連鎖”の連結点の均質性が損なわれたことだけは明らかだ。友人が電灯を見た時点か、記録した時点か、先生が電話を受け取った時点か、 それとも結果を知った時点か。・・・・・・誰か教えてください。
●「量子力学入門」並木美喜雄:岩波新書を参考にさせていただきました。20年前の本だがほんとうに面白い。
ユージン・ポール・ウィグナー(1902~1959)1963年ノーベル物理学賞受賞。