7/ 5th, 2011 | Author: Ken |
Duende・デュエンデ
デュエンデとはスペイン語で「小鬼・ゴブリン」を指すが、フラメンコでは「謎めいていて言葉で言い表せない力」のことだ。
そう、誰もが熱く感じるもの。それはブルースでは「ソウル」であり、バッハでは「祈り」であり、音楽や舞踊の「魂」と呼ばれるものだ。世間では「魂」とお頭が弱そうなタレントやマスコミがお気軽に使うが、とんでもない!滅多にそんなものにはお目にかかれるものではない。
……..80年代、バルセロナ・オリンピックが囁かれた始めた頃だ。カルロス・サウラ監督の映画「カルメン」が封切られた。その熱さとエネルギー、そしてアントニオ・ガデスの演出に驚嘆した。それまでパコ・デ・ルシアにぞっこん参っていたのだが、何と!パコも出演しているではないか! とにかく凄い! ほんとうに凄いのため息だった。
フラメンコというアドレナリン過多の音楽・舞踊は、インド北部からジプシー、ロマ、ヒターノ、ジタン、ツゴイネルと様々に呼ばれる流浪の民が、スペイン・アンダルシアに流れ着くまでに通ってきた土地々の民族音楽・舞踊が混淆し生まれたという。
そう、フラメンコは文化と歴史の坩堝なのである。地鳴りのようなギターと身体の奥底から絞りだすようなカンテ(歌)、愛、裏切り、嫉妬、恨み、復讐、哀切 …. 男と女、人間の情念が熱り出す。床を踏みならすステップ(サパテアード)手拍子(パルマ)、カスタネット、オーレ!の掛け声。….ヨーロッパの西の果てスペイン、かって世界を席巻し富をかき集め、いつか衰えていった国、画家の中の画家ベラスケス、宮廷画家の絶頂から戦争と人間を見過ぎたゴヤを生んだ国。そして隣のポルトガルには「ファド」がある。
ところがガデスは今までのフラメンコとは全く違うのだ。洗練され計算され怜悧な知性に裏付けされ、それでいて奔放、激しく熱い情念の波動があるのだ。タブラオの素朴さと泥臭さもいいが、高みを目指し芸術に昇華されたバレェの緻密でリファインされた極致の美があるのだ。始めて眼前で踊る姿を見た衝撃、抜き身のナイフを感じた。白刃の刃鳴りが聞こえるのだ。円が大きいのだ。感覚が研ぎすまされ、指先の末梢神経にまで力が漲り緊張の極みに達するのだ。ストイックでそして熱いデュエンデがほとぼり出すのだ。
そしてカルロス・サウラという監督を得て映画となった。ドキュメンタリー手法と劇中劇としての映像も素晴らしいのだが、舞台は映画以上に映像的なのだ。「血の婚礼」における緊張の一瞬の場を凍りつかせる写真的静止、決闘シーンはハイスピードカメラ撮影そのものを踊るのだ。「カルメン」「血の婚礼」「アンダルシアの嵐」「恋は魔術師」これらは舞台と映画と両方を見たがやはり舞台の方が素晴らしかった。サウラ監督には他にも「タンゴス」「フラメンコ」というドキュメンタリーもある。
そしてガデスにはクリスチーナ・オヨス(舞台では彼女がカルメン)、ファン・ヒメネスという名手たちも忘れることができない。またスペイン国立舞踊団の創設期の監督はガデスだった。あのラベルの「ボレロ」の振り付け、そして「王女メディア」の…….
2004 年ガデスは逝った。享年 67 歳。 幕は降りた。そう、ビセンテ・エスクデロのように栄光に包まれて….。生涯決して魂を売らなかった男。フランコ政権時代には踊りを拒否して他国で生きた男。フラメンコをバレェの高みと芸術にした男。ガデスの名は永遠にガデスである。
〜ソンブレロ 俺のソンブレロ お前は俺の宝物 闘牛場にかぶって行くと 闘牛士にも張り合える
〜 俺はお前が好きだ これにはある人の 口づけが縫い込んであるから〜
●カルメン・アマヤの「タラントス・バルセロナ物語」では若きガデスのファルーヵが見られる。