8/ 8th, 2014 | Author: Ken |
遠い日の戦争、そして戦争画。
むろん、わたしは戦争を知らない。ただ子どもの頃、大人たちからたくさんの話を聞いた。子ども用の本も無い時代だから大人向けのカストリ雑誌を含め大量の実録ものを読んだ。貧しく飢えた世代には勇ましくも悲惨で、残酷で、恐ろしく、映画にしても学校から引率されて授業として鑑賞させられた。映画というものを初めて見たのが「きけわだつみの声」であった。砲弾が炸裂する丘に死した兵たちが幽鬼のように立ち上がるラストには戦慄を覚えた。そして「原爆の子」「ヒロシマ」「二十四の瞳」これらも学校から見にいったのだ。また「人間魚雷回天」「戦艦大和」「ひめゆりの塔」「沖縄健児隊」後には「雲ながるる果てに」「雲の墓標」など、昭和30年代はまだ戦争の影を大きく引き摺っていたのだ。
戦争が覆い尽くした時代、作家も画家たちも前線に赴き従軍画家として多くの絵を描いた。それらは戦後GHQによって没収されアメリカ本国に送られ、1970年に「無期限貸与」として日本に帰り、東京竹橋にある「東京国立近代美術館」に保管されている。日本画・洋画あわせ153点の戦争画はすべてが公開されていない。前々から見たいと願望していたのだがその機会がなかった。
この封印されていた絵画を初めて見たのは京都だった。藤田嗣治の「アッツ島玉砕」。実際にはこのような白兵戦があったわけではない。からみ合いうねり地獄草紙のような兵士の群れ、昏く陰惨な死闘、歯を剥き出して銃剣を揮う兵士、ここにはとても「玉砕」という美しい響きはない。また「サイパン島同胞臣節を全うす」は後にバンザイクリフと呼ばれるマッピ岬に追いつめられた日本軍と民間人の最後のシーンである。鬼哭啾々というかそこには滅びゆく静的な美がある。
軍は戦意高揚のプロパガンダとして「国民の士気を鼓舞するため写実的な絵」と画家たちに下していた。戦後フジタは戦争協力者として非難の声を浴びる。しかしあの時代は誰もが愛国者であり日本が勝つことを熱望していた。戦争指導者や狂信的軍部は別として、あの時代と空気の中で描いた画家たちを誰が非難できよう。わたしもあの時代に生きていたなら・・・・これらの絵画を現代の眼で見ると、これは反戦絵画と映る。軍歌にしてもそうだ。歌詞にしてもメロディーにしても哀調を帯びたマイナーなのである。日本人というのは切羽詰まった悲劇的、悲壮的な状況でこそ奮い立つ心理がある。状況が困難であるほど「俺が」という涙こそが行動原理なのだ。
記録映画にある「帽ふれ」という見送るもの全員が帽子を振っての出撃シーンがある。〜送るも征も今生の別れど知れと微笑みて・・・何と日本的別離の心情なのだろう。決死、いや必死という言葉が背景にあるのだ・・・・。昭和18年10月21日「出陣学徒壮行会」の悲壮感漲る映像は異様な迫力を持って迫って来る。雨に煙る神宮外苑を「抜刀隊」の行進曲に合わせて行進する学徒。水たまりに逆転像が写り、「歩調を取れーっ!」の号令、濡れながら拍手で迎える白いブラウスの女子学生たち・・・答辞:「生等いまや見敵必殺の銃剣をひっさげ、積年忍苦の精進研鑚をあげて、ことごとくこの光栄ある重任に捧げ、 挺身をもって頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。」
そして「海行かば」の合唱「海行かば水くかばね、山行かば草むすかばね……」勇壮なはずが、このような悲劇的な演出になる、やるせない程の日本人、日本的心情。私にもそれがあるだけに辛く重い。
学徒出陣
姫路市立美術館であった「美術と戦争展」で日本画家、小早川秋聲 の「國之楯」を見た。黒の背景に寄せ書きの日の丸で顔を覆われた兵士が横たわる。これは軍から受け取りを拒否されたというが、名誉の戦死というより、死そのものの無惨さと哀しみがある。そして、戦後描かれたものであるが、香月泰男の「シベリア・シリーズ」の顔、顔、顔。浜田知明「 初年兵哀歌」。古くはルネッサンス期にエッチングで描かれたジャック・カロの「戦争の惨禍」、そしてゴヤによる「戦争の惨禍」。・・・人間とは・・・・
機会があればぜひ出向いてもらいたい美術館がある。埼玉県にある丸木美術館、丸木位里・俊夫婦による「原爆の図」。酸鼻そのもの、亡霊のような夥しい人々の群れ、何か恐ろしく重いものがのしかかり絵の前から動くことができなかった。
余談だがピカソの「ゲルニカ」を見ても、マスコミが喧伝するそこに、怒り、悲惨、慟哭、反戦などは何も感じなかった。これが本当に名画なのだろうか? また、長野県上田市にある美術館、戦没画学生の遺作を集めた「無言館」、決して巧みな絵ではない。しかし、最後の燃え尽きる生が絵画に乗り移ったような何かがあり知らずに涙を流している自分があった。
今年の正月に「東京国立近代美術館」にジョセフ・クーデルカの写真展を見に行った。その時にまた藤田嗣治の「アッツ島玉砕」と「サイパン島同胞臣節を全うす」を見た。凄い絵である。彼の最高作ではあるまいか。
7/ 16th, 2014 | Author: Ken |
読了半世紀 …「月長石」。
嗚呼、疲れた。読み上げるのに半世紀もかかってしまった。今は昔、ミステリーなんぞに興味がわき読み始めたころ、名作解説書には必ず登場する名があった。ウィリアム・ウィルキー・コリンズ(William Wilkie Collins)の「月長石・The Moonstone」だ。T・S・エリオットが「最初の、最長の、最上の探偵小説にして最大にして最良の推理小説」と称え、ドロシー・L・セイヤーズが「史上屈指の探偵小説」と呼んだ。「クラシックで本格」というやつを、いつか読んでやろうと思ったのだが、ハードボイルドや短編ミステリー、SFもあり怪奇もの、冒険ものと面白そうなのが一杯あって、どうも手が着けられなかった。時は移り・・・・・友人のミステリー研究家で古書店の店主と話していると絶賛するではないか!「最後の200ページは残りページを惜しむくらい面白い!」。そうか、じゃ、東京に行くから車中で読んでみるか。創元推理文庫:中村能三/訳 その779頁というボリュームに威圧感を覚えながらページをひも解いた。やはり時代なんですね。少々かったるい。
それまでかってな想像で「印度の因習と呪いが込められた月長石を奪い合い….、そう「マルタの鷹」や丹下左膳の「こけ猿の壷」みたいに波瀾万丈の話と思いきや、静かなものなのである。1850年代のヴィクトリアン華やかなりし頃の上流階級のお話で、語りがすこぶる長い。疲れたら弁当を食べたりビールを飲んだり、他の本を読んだりしながら往復で読み上げた。やはり時代なんだ。アヘンチンキを飲んで再現したり、何派か知らないが教会主義者が出てきたり(S・ホームズのカーファックス姫の失踪にもありますね。また、どうも好きになれないねノブレス・オブリージュなんていう偽善が…、今でも時々いますよね。マジに戦争で将校の方が兵より死傷者が多かったなんて言う人が)、英帝国主義真っ盛りで世界中の植民地から富を搔っ攫ってきたバブル時代なんだ。日本では明治の中頃で列強を真似して敗戦へと続く…。
まあ、それなりに面白かった。特別のトリックがあるじゃなし、見事な推理があるじゃなし、読み終わって膝を叩く痛快感もないけれど、(少し前の時代には、SF、怪奇、ミステリー、推理、探偵、暗号、すべての大海である、あのE・A・ポーがいたのにね)・・・
名作というのはこんなもんなんだろうか。とにかく半世紀もかかって読み上げた。
7/ 7th, 2014 | Author: Ken |
神々の骰子遊び。
アインシュタインは、もし量子力学が正しいなら、世界は狂気じみているといった。彼は正しかった。世界は狂気じみているのだ。…ダニエル・グリーンバーガー・ホイーラーはファインマンの論文に感動し、原稿をアインシュタインに見せた。「素晴らしくないかい?これで量子論を信じらるようになるんじゃないか?」「God does not play dice. 神がサイコロ遊びするとは信じられない。でも、これで私は間違いを犯せるようになった」。かつて、アインシュタインは量子論発展の先頭に立ち、ブラウン運動論を始め物理学における確率論的手法の開拓者でもあった。
しかし、彼は確率解釈を基とするコペンハーゲン派の量子力学に疑問を抱いた。・・・1935年、アインシュタイン(A. Einstein)はポドルスキー(B. Podolsky)、ローゼン(N. Rosen)と連名で量子力学の記述が不完全だと主張した。EPRパラドックスである。そのパラドックスとは?これはあくまで思考実験である。・・・ここに対で発生した二個の粒子A、Bからなる力学系を考える。各粒子は、二つの値スピンa(上向き)、スピンb(下向き)しか取らない力学量をもっている。角運動量保存の法則に従って2つの粒子の総合スピンは0で
A(の力学量)が値aを取ればB(の力学量)が値bを取り、A(の力学量)が値bを取ればB(の力学量)が値aを取という相関関係があるとき「Aがa、Bがb」および「Aがb、Bがa」という運動状態が同時に存在する。したがって、おのおのの波動関数を、それぞれ、Ψ1(Aがa、Bがb)とΨ2(Aがb、Bがa)と書けば、重ね合わせの原理により、この力学系の状態はΨ=Ψ1(Aがa、Bがb)+Ψ2(Aがb、Bがa) でなければならない。
つまり、AB各々の粒子は上向きと下向きが同時に重なっていて観測するまでは何も確定していないのだ。この相関関係が成立した後、AとBを宇宙の中でアンドロメダ銀河くらい200万光年以上の星間距離を取って、Aの力学量の測定を行う。その時A(の力学量)が(値)aを取ったことがわかれば、「波動関数の収縮」Ψ→Ψ1(Aがa、Bがb)が起きるはずだ。したがって、B(の力学量)が(値)bを持っていることを知る。測定結果がA(の力学量)の値としてbあれば、「波動関数の収縮」は、Ψ→Ψ2(Aがb、Bがa)であり、ただちにBがaを取ることを知るわけだ。そんなことが!!!A、Bが200万光年も離れているのにBに情報が瞬時に(光の速度で200万年かかるのに、それを超える速さで)伝わるとは!この宇宙で最も速いのが光である。それであるから瞬間にAに対する測定がBを乱すことはない。またBからAに伝わるはずもない!アインシュタインは無限大の速度で情報が伝達されることを「お化けの遠隔作用と皮肉った(Spooky action at a distance)」
1)Aの観測結果が自動的にBの状態が決まる。これは「観測行為が状態を決定する」という量子力学の主張に反する。
2)Aの観測結果を持った情報がAからBに光速度以上(無限大の速度)の速度で伝わることになり、相対性理論に反する。
しかし、1964年にベルは局所実在論が不等式の形で表現できることを発見した。このベルの不等式による予言と量子力学による予言が異なる結果になる場合があることを示し、EPRパラドックスは実験的に検証可能となったのである。その後、アラン・アスペ等による実験結果、光子対では非局所相関が確かめられ、量子力学を支持する結果となった。つまり、2つの粒子はこの「分離不可能」であり最初から強い「相関関係」からなっており2つの粒子に何ら信号が伝わる必要はないことになる。どんなにと遠く離れていても2つの粒子は「絡み合い(entanglement)」しているのだ。・・・・不思議過ぎる!!!でも、重要なことは、いまだかって量子力学に反するような結果は一つも現れていないし、現代のコンピュータやスマートフォンも量子力学の賜物である。
一体、宇宙とはどうしてそうなっているのか? 朝永振一郎博士とノーベル賞を分かち合ったリチャード・ファイマンは「誰も量子力学を理解できない(Nobody understands quantum mechanics)」と言った。・・・・不思議過ぎる!!!
(「量子力学入門」並木美喜雄:岩波新書、「量子力学のからくり」山田克哉:ブルーバックスを参考にさせていただきました)
6/ 21st, 2014 | Author: Ken |
真面目な胡乱な話…..。
「魂」「精神」「意識」の正体は一体何なんだろう? そんなものがあるのか? いや、確かに私の中にあるのだが曖昧模糊として掴むことができない。何かを「覚えている」「知っている」だから僕は「記憶によってぼくは存在する」。じゃ「記憶」とは何なんだ。そういう自分の思い込みか幻想か? うーん、かってデカルトは「物体」と「精神」という「実体二元論」を唱え、記憶は松果体にあると考えた。….しかし、どうも脳は本棚やディスクのようにホルダーに入ったハードな状態であるのではなさそうだ。じゃ、このジェリーみたいな1400ccほどの脳細胞の「どこに、どんなに形で」保存されているのだ?
面白い話がある。MITのマックス・テグマークは、量子力学と情報理論から人間の意識は物質「perceptronium」(知覚物質というのだろうか?)があるのだだという。ふーん、物質でね…..。意識を形式化する「意識の情報統合理論」により物質としての脳から、どのようにして主観的な意識経験(クオリア)が生じるのか?これを量子力学からのアプローチで意識を、固体、液体、気体といった物質の状態と同じく、物質の状態「perceptronium」として扱うというのだ….と。じゃ僕の脳をスキャニングして他のメデイアにペーストできるのか…..?またこんな仮説もある。心理学者カール・プリブラムは、ホログラムを、脳の記憶をの仕組みを解明するモデルになるという。記憶は脳のどこかに局在するのではなく、ホログラムのように全体と個が一体になっているのだと?人体の60兆個の細胞一つずつに同じDNAが組み込まれているように。私たちが「心」と呼んでいるものは、ホログラムとして、物質的な脳の中に記憶されているのではないか? そして、デビッド・ボームは、「開示された秩序」のエネルギー(情報)の奥に「織り込まれた秩序」という隠れた本質があり、脳はこの「本質」のホログラムの一部であり、共鳴し合う振動が意識を生み出すとのだ…..と。
またルパート・シェルドレイクは「形態形成場」(モルフォジェネティク・フィールド)という「場」があり、人と地球、いや、この宇宙そのものが蓄積してきた記憶を共有し、それに同調していくという説である。「形態同調(morphic resonance)とは、時空を超えて似たような物に影響を与えるということだ…とシェルドレイクはいう。ロジャー・ペンローズは、「量子脳仮説」で「脳内の神経細胞にある微小管(チューブリン)で、波動関数が収縮すると、素粒子に付随する属性により意識が生起する」と。古代ギリシャでは記憶のメカニズムは、プネウマ(空気や息という意味)が感覚的印象を身体の中に運び、それが記憶となると考えた。かってアウグスティヌスは「空間に記憶が貯蔵される」そして「記憶が何らかの物質に還元される」という比喩で語った。じゃ、どんな形で?それが知りたいのだ。…….確かに感情や思考は脳内の微弱電流や化学物資で動いていることは証明されてはいるが…..。
還元主義を押し進めると、記憶とは結局は分子、それを構成する原子とその電荷によって決定される化学的性質、原子はクオークによって成り立ち、……..DNAは、蛋白質やアミノ酸などその生命を作り上げる要素に関する情報が記されているが、生命がどのように生まれ、成長し、どんな「思考」をするのかは記されていない(いや、本能とはどんなシステムで組み込まれているのだ?)。そもそも脳がどのような神経回路(複数の神経細胞のネットワーク)やシナプスの結合によって「自分」を生み出すのかと?記憶や喜怒哀楽、自己意識や自由意志などが、無数の神経細胞とネットワーク、それに関連する分子の働きなのだと言われても….。
ぼくという物質は「生まれ」(nature)か?「育ち」(nurture)か? それとも人間の想像上の「神」か?(ぼくは無神論者だ)?神が!そう考える人は多いし信じられれば楽だけれど、神があるとは到底思えない。クオークはビッグバン以来….確かに宇宙があるから地球があり、生物が生まれ、クオークでできた僕がぼくを感ずる。ああ、解らん!
5/ 30th, 2014 | Author: Ken |
胡乱な話。
最近NHKで「超常現象」や「超心理学」の番組が目に付く。エンターティンメントしては面白いが、真面目に取り上げるほどのテーマなのだろうか。一応、科学を装ってはいるが限りなく「疑似」に属するものだ。SFとしての「超常現象」や「超心理学」はイマジネーションを刺激するし、その不可思議で奇妙な感覚に浸りたいために映像、映画、小説、研究書などをむさぼるのだが…..。現実に返ってみれば「あったらいいな」それくらいで「馬鹿らしいこと」この上ない。胡乱なのである。限りなく疑似科学である。ただ人間は心理の複合体であり「信じる」「信じない」が同居し曖昧模糊としたものだ。DNAか?生い立ち、環境か?様々な要因はあろうが「神」「心霊」「魂」「スピリチャル」… 否定はしてみてもどこかにアプリオリな畏怖や文化としての存在を感じずにはいられない自分がある。
人間とは厄介なものだ…。「超心理学」を信じる人は多いし、もしかしたら人間は本能としてそのように出来ているのかも知れない。それら「超常現象」を否定するものは少数派である。コミュニケーションのために顔では笑っているが内心は腹立たしいのである。そりゃあればどんなに!だから片っ端からそれ系の本を読んでみたのだが、読むほどに阿呆らしい。
真面目な本はないのかと探した。その昔の福来友吉博士の御船千鶴子事件を始め、宮城 音弥の「神秘の世界 超心理学入門」 岩波新書( 1961)これも心理学という「夢」「精神分析」などという「疑似科学」に近いものであった。そして、大槻義彦、茂木健一郎といったタレントによる著作は軽いを通り越して安っぽいことこの上ない。そう、それは科学者を装った芸人である。あの、コリン・ウィルソンも膨大な著作の背景には「そうあればという期待値」が高すぎる。ブライアン・ジョゼフソン「科学は心霊現象をいかにとらえるか」も、ノーベル賞科学者だって「生」「性」「人間関係」「怒り」「悲しみ」などの俗っぽいことに心を悩ますし、敬虔な宗教信者だって沢山いるのだ。それこそが人間であって矛盾の固まりなのだ。米ソ冷戦の時代には「スターゲート計画」という超能力諜報研究を米軍が行っていたという。何たるナンセンス!78年には「フューリー」なんてスターゲート計画に題材を取った映画もあった。そこで新型ソ連原潜を言い当てたと主張するジョー・マクモニーグルのリモート・ビューイング(遠隔透視)があるなら最近の「マレーシア航空の行方不明事件」なぞ一撃のはずなのに……。また、サイコロや○×☆などのゼナーカードを使い、統計学によって、それが起こる確率は何十万分の1だから、ある!と言われても、宝くじに当たる人も、隕石に当たった人だっているのだ。あなたの素である受精卵だって。そう、それも偶然の一部でしかない。
「超心理学」の著者、石川幹人氏は「科学的に説明できないものは信用しない」という態度は残念だ。「信用しない」という信念自体が非科学的だからだ。と主張するが、本を読むと「あるという期待」が文章の隅々に表れている。そこで、「利己的な遺伝子」ドーキンス博士にご登場願おう。彼は言う「無神論者は誇りを持つべきだ、卑屈になる必要はない、なぜなら無神論は健全で独立した精神の証拠だからだ」無神論を無超能力という言葉に置き換えてみればいい。世の中には「水の記憶」「水にありがとう」「ホメオパシー」「ヒーリング」「水子霊」「自己啓発」「EM菌」「波動」などといった言葉が蔓延している。また、それを信じて実践している人も多い。一体、人間とは知恵を持ったが故に「幸せと不幸」を背負った存在になってしまったのか。これって原罪なのだろうか?
5/ 20th, 2014 | Author: Ken |
製図機
かって製図機と三角定規、面相筆はデザイナー必携の道具だった。多角形や円や線の分割など、定規とコンパス、そしてデバイダーで制作したものだ。製図機には英国式とドイツ式があり、英式はお国柄を表し真鍮製、ドイツ式は合理的なステンレスやクローム仕上げであった。ずっしりとした重量感、研ぎすまされた形態、これぞプロの道具というアナログの実在感があった。そしてとても高価だった。多角形の作図、平行線、黄金比やフィボナッチ数による螺旋など随分勉強させられたものだ。でも、どうしても描けないものもあった。正楕円は楕円定規が必要だったし、ギリシアの三大作図問題という定規とコンパスによって作図が可能か?というのもある。
1)与えられた円と等しい面積をもつ正方形を作ること。
2)与えられた立方体の体積の 2 倍に等しい体積をもつ立方体を作ること。
3)与えられた角を三等分すること これらは現在では作図不可能ということが証明されているのだ。
文字だってレタリングという製図機、定規、溝尺、面相筆で墨汁やポスターカラーで描いたものだ。懐かしいというより己の技を競ったのものである。……俺は1ミリ幅に線を烏口で10本も描けるなんてね。
90年の初頭だった。Macintosh Performaを手に入れたのだ。いまから思えばチャチなものだったが、それでもオオーッ!と歓声を上げた。そしてQuadraになり、Power Macになり、8500、9500、G3、G4、G5。とうとうOS 10.92 Mavericksだとさ。たった20年だよ。あの頃は俺も若かった? 確かに便利になったし、グラディエーションだってCGだって、何だって出来るのだが、手描きの緊張感や満足感、存在感が薄いのである。つまり軽いのである。だって、それを見るのはアナログである人間なんだから。そしてコンピュータのお陰で消えていった仕事も多い。まず、写真植字、製版レタッチ、街のDPE(現像・焼き付け・引き延ばし)、トレース、青焼き……。CADとDPTの時代になって、製図機も知らない人が多くなった。別にそれでいいんだ。製図機がPCのキーボードとマウスとモニターに変わっただけだ。と言いながら、一抹の寂しさを感じるのは歳のせいかな。
5/ 5th, 2014 | Author: Ken |
Bit from It? It from Bit ?…… 何か味気ないネ。
Bit from It とは物理学者ジョン・ホイーラーが「宇宙のあらゆるものは情報であり、その情報(bit)を観測することによって存在(it)が生まれる」と言った。確かに人間は五感を通じてしか情報を得られないから、「存在の全ては情報であると」….。
そんな難しいことを言いたいんじゃなくて、It from Bitの時代になってしまったんだ!という一抹の寂しさを感じる話だ。そう、手触りあるアナログから無味乾燥したデータというデジタルになってしまったのだ。僕はデザインの仕事を半世紀も続けているが、ン、90年代の初めにAppleの Macを使い始めてから、毎日キーボードとマウスの生活だ。三角定規もデバイダーも鉛筆も筆も何もかもデジタルになってしまって味気ないことこの上ない。
かってLPジャケットにはズッシリとした手応えと1フィート角のデザインがあった。そのデザインに憧れて無理をして高価なレコードを買ったものだ。それが、テープになり、CDになり、ネット配信になった。簡単すぎて….。カメラもデジカメになって、撮影は簡単だし(実はモデル撮影でも置影でも構想と準備や設定が大変なのだ。これで質が極まるのだが…)画像合成や修正も簡単(腕があれば)だ。デジタルというBITになって簡単だけれどもイージーになってしまった。つまり、お手軽なんだ。だから品質もギャラもね。本だって雑誌だってそうだ。あの若く貧しき時代に、古本屋で手にとった「洋書」(古いネ)の艶やかでダイナミックで新鮮で!レイアウトもイラストレーションも写真も!ジョージ・ロイスもハーブ・ルバーリンも、ボブ・ピークのイラストも。本だって「電子書籍」だ。僕はモニターで見ても読んでも、消した瞬間に何も記憶に残らないのだ。
つまり「読む」のではなく「見る」んですね。映画もわざわざ映画館に行かなくった。昔はTVで見たい放送があると急いで帰ったものだ。…..ビデオからDVDになり、HDになり、またはYou Tubeでお手軽だ。あの年に数十本見た映画少年も今やほとんど行かなくなった。…また、たまに行っても詰まらん映画で失望ばかりだ。….僕も古いのかね?もう歳なのかね?….やはり人間は感じてこそ印象となるのだ。もう人間サイズで実感できるものと言ったら「食べ物」くらいしかないのだろう。第一、罪がないしね。だからFBやBlogなんかで食べ物ばかりの記事になるのだろう。…..僕は通勤電車は書斎だと思っている。本を読む楽しみとは「知らないことを知る」こともあるけれど、読むという行為は頭のなかで声を出さずに「想像と映像を見ている」んですね。つまり「イメージ」という実態の無いものが見えるのだ。イメージとは脳の記憶と連鎖と思考が、あるかごときItを作り出し、それをまた絵や文章でアウトプットすることなのだろう。でも、「モノ」という「アナログのIt」から「デジタルというBit」に流れるのは時代の必然だ。…でも何か寂しいですね。
と、言いながら、この画像もPCのデジタルだからこそ出来るのだが…..。でも、見る人は人間というアナログ存在と感情なんだから。
4/ 1st, 2014 | Author: Ken |
このLPジャケットが好きだ!
音楽がアナログであった頃、LPのジャケットを手にするのは快感だった。31.3cm角の大きさがいい。そのズッシリとした重量感、指紋をつけないように細心の注意でデスクを引き出し、静かに針を下ろす。微かなノイズを伴いながら音が湧きだして来るのだ。何故この溝に音が埋まっているのだ? 空気の振動、いやオーケストラの数十の楽器の音が何故、こんな細い溝に? そしてジャケットのデザインだ。カッコイイのである。大胆である。自由闊達である。斬新なデザインが、音を期待する気持ちをより刺激するのである。60年代当時、輸入盤は恐ろしく高価だった。何しろ初任給が2万円位の時に1枚二千円もしたのだ。高校生の僕にとっては高嶺の花である。
夏休みに日給4百円のアルバイトをして、英語のライナーノーツも読めない癖に必死に読み解き悩んだ末に選んで買ったものだ。まるで宝物である。特にBLUE NOTEのデザインが素晴らしかった。リード・マイルスだ。この1フィート角を自由にデザインするのはデザイナーにとって大きな喜びであっただろう。いつかCDになりダウンロードになり、あのジャケットを手にする愉びは消えてしまった。
アナログの楽しみとは人間サイズの喜びなのである。…..モダンジャズは懐メロとなり、もうレコードを買う意思もない。寂しい限りだ。
上記のジャケットは「黄金の腕」The Man with the Golden Arm (1955) 社会派オットー・プレミンジャー監督、フランク・シナトラがジャンキー(麻薬中毒者)を熱演。エルマ・バーンスタインのジャズがカッコイイのなんのって!まだ子どもだったから封切りは見ていないが、ラジオでよく流れていた。リバイバルで見たら、何と!ドラムのオーディションのシーンにはショーティ・ロジャースやドラマーのシェリー・マンが出演しているではないか!そしてソール・バスの映画タイトルが素晴らしい!僕は今でも彼とエスクァイアーのジョージ・ロイスがデザインの先生だと思い続けているのだ。…あれから半世紀がまた瞬くまに過ぎてしまった…..。
…….ほんの昨日のことだのに。
1)right now! /jackie McLean : Blue Note 1965 リード・マイルスのタイポグラフィーのダイナミックさ!
2) Blowin’ The Blues Away /Horace Silver : Blue Note 1959 ポーラ・ドナヒューのイラストレーションがファンキーでアーシーな
雰囲気を表現している。1962年に来日、16歳の少年には圧倒と陶酔だった。そしてヴォーカルはクリス・コナーだった。
3)COOKIN’ /Miles Davis : Prestige 1957 このジャケットを見ててっきりベン・シャーンだと思った。だがPhil Haysだった。そんな
時代だったんですね。また、何故クッキン?….マイルス曰く「俺たちがやったことは、スタジオにやって来て曲を料理しただけだか
らな」と…..。でも素晴らしい内容だ。
4)Blue Lights /Kenny Burrell Blue Note 1968 これもベン・シャーンかと思いきや、なんと!あのアンディー・ウォーホールなのだ。
5)The Jazz Odyssey of James Rushing, Esq./Jimmy Rushing:1956 この太ったオッサンが汗をかきかき急いでいるイラストに
喝采だ。この絵は Thomas B. Allenというイラストレーターだ。(長年エドワード・フォックスとばかり思っていた)
6)All Blues/Kenny Clark- Francy Boland Big Band 1969 : MPS 黒い林檎という絵に意表を突かれた。デザイナー魂ですね。
7)Jackie’s Bag /jackie McLean : Blue Note 1960 マニラの書類入れがジャケットだなんて!それだけで買ってしまった。
8)Groovy/Red Garland : Prestige 1957 この落書きがハーレムなんかをイメージさせて素晴らしい。わざわざREDのRを逆さまに書
いたりして憎い演出である。このスタイルをソール・バスが「ウエスト・サイド・ストーリー」で使っていた。ジャケットの左下に
DESIGN reid miLESとある。はは~ん、なるほどね。でも彼はブルーノート専属じゃなかったの?
最後にお恥ずかしい限りだがジャズに夢中になっていた高校生の頃、課題がLPジャケットだったのでデザインした。もちろんMACなん
てSFにも出て来なかったから手描きそのもの。かろうじてこの2枚だけが手元に残っている。1962年だってサ。
3/ 25th, 2014 | Author: Ken |
名も無き絵
この絵に初めて出会ったのは十年ほど前だった。
友人の切り絵作家が「カルヴァドスを美味しく飲ませる店があるから….」と。
その時カウンター横の壁に架かってあった。セピアを基調とした憂いを帯びた女性の顔なのだが、何かダ・ヴィンチを彷彿させる
古典的な様式だった。「誰の絵?」「分からないのですよ。銘も何もないのです」。よく見ると髪や衣服、背景は素早いタッチで
現代的なのである。俯向き加減の顔は微妙な陰翳によって描かれ…..スフマート(Sfumato・イタリア語で「煙」を意味する
フモ(fumo)という言葉)技法だろうか? 深み、ボリュームを色彩の薄い層を何度も塗り重ね「くすんだ」階調が素晴らしい。
ダ・ヴィンチ風だと思ったのは『聖アンナと聖母子』と角度が似ているからだ。ルーブルにある『聖アンナと聖母子』より、
ナショナル・ギャラリーの黒チョークで描かれた方が好きだ。その慈愛の微笑みと超絶技巧のデッサン力に見とれ
小一時間も佇んでいただろうか…..。
ダ・ヴィンチやミケランジェロの素描には驚嘆する。まさに天才のなせる技だ。油絵のように塗り重ねるのではなく、
対象を見て取って頭の中でイメージを作り、それが腕や指の動きとなって紙の上に写しとる。
その動き、スピード、圧力、デッサンの方が迫力と生々しさをもって迫るのだ。
人間だけが成せる技だ。天才たちの頭脳のイメージが創りだしたものだ。
●
この絵を飾ってあったお店が閉めることになった。「この絵はどうなるの?」「よろしかったらお持ちください」
「えっ!大事にお預かりします」。
どなたかこの絵の由来を知らないだろうか?
3/ 21st, 2014 | Author: Ken |
「U-ボート」…紙とフィルムの上の戦争。
「これは小説だが、フィクションではない。ここに語られる事件を、著者は身をもって体験している」
これは「Uボート」ロータル=ギュンター・ブーフハイム著(松谷健二 : 訳/早川書房:1977)に捧げられた賛辞だが、まさにこの本には、汗と油と垢と悪臭にまみれた艦内、その密閉された潜水艦内の狭隘な空間のなかで、閉塞感と疲弊感を、わざと卑猥で下卑た軽口で息苦しさを誤魔化す乗員たち。敵駆逐艦に制圧され、爆雷の轟音と圧壊の恐怖という極限状況の中での苦闘が皮膚感覚でリアルに伝わってくる。そして戦争という虚無感を声高に押し付けるものもない。就航1150隻のUボート、779隻沈没、2隻拿捕、Uボート兵員3万9000人のうち2万8000人が帰らなかった….。その原作を忠実に再現した「Uボート」監督:ウォルフガング・ペーターゼン(1982西ドイツ)深海でのたうつ潜水艦の緊迫した乗員の心理状態までもが息苦しいほどに迫ってくる。…
敗戦国の映画には悲壮感と虚無感があるのだが、戦勝国のハリウッド映画にはアクションとフィクションとエンターテインメントしか伝わってこない。勝てば官軍、正義の戦争?には反省や痛みが伴わないのだ。
そして我が国の「真夏のオリオン」監督:篠原哲雄(2009)もう潜水艦や旧海軍のことを、全然勉強していない人たちが脚本、演技している。状況設定や軍事技術・時代背景の描写を想像すらしなくて作るからこうなるのだ。嗚呼!戦後は遠くなりにけり。戦争を知らない世代、いや調べようともしない人たちなのだろう。安っぽいセンチメンタルである。….まあ、潜水艦という過酷な環境でありながら、乗員の顔や服が汚れていない。……大声で怒鳴るのが演技と勘違いしている。潜水艦用語の独特の符丁と復唱さえやらないのだから。原作「雷撃深度一九・五」池上司/読みかけて途中で投げ出した。まず、雷撃深度一九・五って何?戦艦でも喫水10m前後なのに…潜望鏡深度だってそれ以下だし…? 「眼下の敵」(1958)監督:ディック・パウエル、出演:ロバート・ミッチャム、クルト・ユルゲンスのパクリである。….いつの頃からか映画が佳境に入るとフォークソング調のJPOPなんか流れて….見ているこちらが暗闇のなかで赤面し、恥ずかしくなって席を立ち映画館を逃げ出すのだ。日本映画ってどうしようもないですね。またYOU TUBEなんかでも実録映像に安っぽいポップスが、いかにも悲劇性と哀しみを掻き立てようと….この神経って何なんだろうか?
そこで今までに読んだ本や映画を思い出した。
●「U-ボート戦記:デーニッツと灰色狼」ヴォルフガング・フランク著(松谷健二:訳/フジ出版社:1975)Uボート部隊の栄光と悲劇、ドイツ海軍提督デーニッツとの物語。Uボート全史と言える。
●「鉄の棺」ヘルベルト・A・ヴェルナー著:フジ出版(1974)
●「U-ボート977」艦長であったハインツ・シェッファー著(1950)
●「U-ボート・コマンダー」ペーター・クレーマー著
その他多くのムック版やU-ボートの本があるが、ST-52による全溶接建艦の話やXXI型やワルタータービンの話など切りがない。
●「轟沈 印度洋潜水艦作戦記録」日映(1944)インド洋で通商破壊戦にあたった日本の潜水艦に、海軍の報道班が乗り組んで、作戦の様子を取材したものだ。と言うが、恐らく内地に帰還する潜水艦で撮影したものか?
●「海底戦記 伏字復刻版」(中公文庫)の山岡荘八/著と同じ頃か?
●「海底十一万浬」稲葉通宗(朝日ソノラマ)
●「伊58潜帰投せり」橋本 以行(学習研究社)回天作戦中、重巡インディアナポリス撃沈。
●「あゝ伊号潜水艦」板倉光馬(光人社NF文庫)ご子息に何度かお会いしたことがある。
●「消えた潜水艦イ52」佐藤仁志:(日本放送出版協会)その最後と沈艦を探すドキュメンタリーをNHKで見たことがある。
●「深海からの声 Uボート234号と友永英夫海軍技術中佐」富永孝子(新評論)
●「鉄の棺」斉藤實(光人社NF文庫)
●「伊号潜水艦訪欧記 ヨーロッパへの苦難の航海」伊呂波会 編(光人社)
●「深海の使者」吉村昭(文藝春秋)この本で初めて遣独潜水艦のことを知った。
●「潜水艦伊16号通信兵の日誌」石川幸太郎:草思社….運命の魔の手が迎えに来るその日までこれにて….ハワイ海戦以来の陣中日誌、一冊目を終る。読み返す気もない。幾度か決死行の中にありて、気の向いたときに書き綴ったもの。そしてわれ死なばもろともにこの世から没する運命にある。しかし、第二冊目を書き続けてゆかねばならない。運命の魔の手が、太平洋の海底に迎えに来るその日まで。…淡々と描かれたハワイ真珠湾攻撃、マダガスカル島攻撃、インド洋通商破壊作戦、南太平洋ソロモン海戦に参戦。19年5月19日、ソロモン諸島北西海面で伊一六潜と運命を共にした。
…….もちろん私は戦争は知らない。しかし父や兄の時代は戦争そのものが日常であり、ほんの昨日のことであったのだ。