8/ 22nd, 2013 | Author: Ken |
SFの夏、ペーパーバックに昂ぶった。
1950年代末から60年代にかけて生意気に目覚め始めた高校生にとって熱い夏のイメージがある。映画「太陽がいっぱい」はあまりにも鮮烈だった。「真夏の夜のジャズ」に興奮しジャズにのめり込んだ。すべては太陽のせいだ!….カミュの「異邦人」もその頃に読んだ。日本では開高健の「パニック」、大江健三郎の「死者の奢り」「芽むしり仔撃ち」に、そして安部公房の「砂の女」「他人の顔」に新しい時代を実感したものだ。大藪春彦の「野獣死すべし」も忘れることが出来ない。「ヒッチコック・マガジン」でハードボイルドやヘンリー・スレッサーやスタンリイ・エリンも知った。古本屋で進駐軍が捨てていったものか、英語も解らないくせにペーパーバック表紙のイラストレーションに興奮した。リアルでダイナミックでやけにバタ臭い(死語)のだ。
そして、SFが恐ろしく新鮮に輝き、ハヤカワのペーパーバックがやけにカッコ良かった。縦長で小口が黄色、アメリカのペーパーバックそのものだった。ブラッドヴェリ、アシモフ、シマック、スタージョン、ラインスター、ハインライン、ヴォクト、クラーク、マシスン、レム、バラード、ディック…….。もうため息だった。小松左京の「地には平和を」「易仙逃里記」(エキセントリック?)に。
日本でも近代SFが始まったのだ。光瀬龍「たそがれに還る」…….。そして、そして。SFこそ新しい文学の可能性を開く。なんて鼻息が荒かったが….。あの頃、SFとモダンジャズで頭がいっぱいだった。何時しか年が過ぎ、モダンジャズは懐メロとなり、SFもほとんど読まなくなってしまった(もちろん芥川賞も直木賞も読んでいない、退屈すぎるのだ。それより科学啓蒙書の方がどれほどワクワクさせられスリリングで面白いか!)。
昨年、一番の友人を喪した。彼とはバーの片隅でよく語ったものだ。「屋根裏はタイムマシンだ。そうサルサの香りなんだよ」……。彼の遺品を整理しているとたくさんのハヤカワ・SF・シリーズがあった。ぼくも随分と持っていたのだが、貸したり無くしたりと散逸してしまった。あのペーパーバックの懐かしさと思い出が再び蘇る。いま順番に読み直している。
あの頃に……..。あの夏の日々に……。調べてみるとハヤカワ・SF・シリーズは1957/12に開始、1974/11に終了。総冊数318冊とある 。ぼくは何冊読んだのだろうか。
8/ 10th, 2013 | Author: Ken |
耽美的映像美 …「斬る」。
60年代初頭、黒澤明監督の「用心棒」続いて「椿三十郎」が封切られた。その荒々しいまでの画面、異様な設定の宿場で繰り広げられる凄まじいまでの殺陣に喝采を叫んだ。従来の時代劇、いやチャンバラ映画に引導を渡したのだ。肉と骨を断ち切る、いやブッタ斬る効果音、噴出する血しぶき、スピード感とダイナミズム。今までの白塗り美剣士の踊りのような殺陣の概念を変えたのだ。これを見た映画各社とも悩んだだろうな。美男剣士が飯の食い上げなのだ。…..その中でみずみずしくも新鮮な時代劇が現れた。
「斬る」(1962年)原作:柴田錬三郎の「梅一枝」、監督:三隅研次、脚本:新藤兼人、撮影:本田省三、主演:市川雷蔵、藤村志保、万里昌代、天地茂、他。何が違うかって?…..画面がデザインされているのだ。1:2.35のシネスコ画面がレイアウトされているのだ。全編、耽美的映像美に満ちているのだ(ぼくは当時デザインを学ぶガキだったから、もう見とれてしまった。それから何回見ただろう)。
冒頭、極端に片寄った左隅に侍女の横顔 … 正面 … 赤い蹴出しと白足袋、暗い板の間に映り込みが美しい … 結い上げた髪をカメラがゆっくり下がると … 緊張した美しい顔 … 天井からの俯瞰撮影 … 眠る側室の布団に正座して …「国のため。お部屋様のお命申し受けまする」… 巨大な枯れ株に対比して白装束侍女と打首役の侍 … 白刃に滴る水 … 見合す侍女と侍 … 白刃一閃 … 太陽。この調子でストーリーは続くのだ。お話は柴錬、得意の数奇な産まれの孤高の天才剣士、女性的とも思える雷蔵の端然とした姿が美しい。これはグラフィックデザインだ。処刑場の侍女と侍、これは父と母だ。シネスコ横長画面に見つめ合う二人、この空間処理、デザインしたいために作った映画か?… 旅での途中で事件に遭遇、追手に追われる姉弟 … 弟を逃がすため白い肌、緋縮緬の襦袢、懐剣、素裸で立向かい「情けを知れ!」死とエロティシズムだ。 … 世は尊王攘夷の嵐に … 水戸 … 枯野で襲いかかる浪士団を切り、懐紙で刀を拭う、懐紙が空に舞い …. 刺客との一騎打ち、カメラが引くと、何と刺客の頭から股まで真っ二つ(漫画的だが新鮮)。… 水戸先代公命日とあって両刀をを預け … 刺客が…梅の枝を取り三絃の構え … 喉を挿し貫き … 仏間に駆けつけ…次々に無人の部屋の襖を開き … 主人大炊頭は既に絶命。… 静かに自刃。 … 最後にまたあの太陽が…….。監督のセンスと美意識に満ちた映画である。
◯監督の三隅研次は職人なんですね。何とか賞なんかに無縁だが映画作りが実に上手い。そう、A・アルドリッチとかW・フリードキンとか …日本では岡本喜八、五社英雄とか娯楽映画に徹した監督は面白い。世界のクロサワだって娯楽映画こそ最高なんだ。
★You tubeには何でもあるのですね。フルムービーで http://www.youtube.com/watch?v=qI9kZgu9GvI
7/ 31st, 2013 | Author: Ken |
「新・神戸の残り香」発刊のお知らせ。
拝啓、盛夏の候、 ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
さてこの度、 昨年10月に急逝した切り絵作家・成田一徹の絵と文による「新・神戸の残り香」発刊の運びとなりました。
神戸新聞夕刊紙上で2010年より12年まで続いた連載の57点に、 同時期の「KOBEハーバーシルエット」など
5点を加えた62点、 未発表切り絵・年譜を収録し、8月上旬に発売の予定です。
●タイトル : 「新・神戸の残り香」
●著者 : 成田一徹(なりたいってつ)…..切り絵・文
●定価 : 1,785円
●仕様 : 四六版160ページ ハードカバー(上製本)
「かけがえのない神戸」をモノクロームの世界で鮮やかに描いた、 成田一徹の遺作となる本です。
Office Ittets・オフィス一徹
E-mail : office-ittetsu@cosmos.zaq.jp
7/ 26th, 2013 | Author: Ken |
真夏の夜の夢。
暑い!バテ気味である。疲れている。食欲もない。栄養でも付けなくっちゃ……。
最近は料理屋に行くとみんな食べる前に写真を撮影しまくるね。ブログの「食べ日記」に載せるんだろうな。ぼくはそんな趣味はないし「更科日記」は蕎麦屋食べ歩きじゃないし、「土佐日記」はタタキ料理の話でもない。「断腸亭日乗」は大食いの日記じゃないことぐらいは、まあ知っているが….。
何にしようかな? メニューを睨んでいると Spaghetti al Nero di Seppie が目についた。そうだ「イカスミ・スパゲッティ」にしよう。スパゲッティ・ネーロ、真っ黒なパスタだ。運ばれてきたスパゲッティの皿にフォークをつけようとした。一瞬テーブルが揺らいだ…..熱中症かな?
何と!スパゲッティのなかに苦痛に歪む顔がある。ゴルゴン?メデューサ?… ぼくは石のように凍りついた。幻覚であることは分かっているのだが… もう食欲が無くなった。
★メデューサの有名な絵ならカラヴァッジョだろう。あの驚愕の表情は何に驚いているのだろう。
★巨匠ルーベンスも凄い。…..でも芸術とホラーはどこで別れるのだろう。
7/ 4th, 2013 | Author: Ken |
失われた都市を求めて。
6/ 26th, 2013 | Author: Ken |
Ancient Illusion … いにしへの幻術
そんな時代だった。若者は世界を放浪するのが時代のスタイルだった。「風に吹かれて」や「レット・イット・ビー」が行く先々で流れていた。文明を享受しながら都会から人からモノから離れてみたい。若者特有の夢とかロマンとかいう稚拙なセンチメンタリズムだった。大人は彼等を嘆かわしい、何の目標も何にも情熱を持たないシラケ世代と揶揄した。ぼくもそんな一人だった。
….あれはハンガリーの辺境だった。まだ鉄のカーテンが重く暗く国を覆い、動乱の傷は癒されていなかった。…..ひょんな事でツィ ゴイネル(ジプシー)の連中と知り合いになった。何日か彼等と生活しているうちに、長老が言うに「このずーっと山奥に千年以上、一度も止まらずに回り続けている水車があると….古への知恵なんじゃ」。そんな!ぜひ見てみたいと頼み込んだ。「そこの連中は他所者を嫌うでな。わしらは交易のために一年に一度だけ入るのを許されておるのじゃ」。不承不承、連れて行ってもらえることになった。
驢馬の馬車で深い谷間を何日も進んだ。町というより集落に近い古色蒼然とした中世がそのままのような所だった。住民はみな同じような独特の顔をしていた。皆美しいのだが私達の美の基準にない異質の風貌なのだ。インスマスの村……? そんな思いが過った。足音もなく忍ぶように歩く女。異教徒を見る眼の男たち、子どもの嬌声もなく時間が凍りついたような広場。そこにあったのだ。千年水車だ。水車は回り続け千年来粉を挽いている….。全体を見ようと向かいの古ぼけた教会の鐘楼に登った。窓には巨大な黒猫が見張り番のように座っていた。…..水は流れ落下する水流は水車を回し続け、いつ果てるともない…..。時を巡る水車….。
夕食にタニスの香りのする強烈な酒を飲まされ意識を失ったまでは覚えている。気がつけば驢馬の馬車の中だった。あれは、あれは何だったのだろうか? 確かに水車は回っていた。永久機関というよりあり得ない構造だった。….確かに、確かにこの目で見たのだ。
★異能の画家 M.G.エッシャーに限りないオマージュを!そしてルネ・マグリットに。A.ブラックウッド、日影丈吉、萩原朔太郎にも。
★それを作ってしまう人もいるのですねー。これをご覧ください。http://www.youtube.com/watch?v=0v2xnl6LwJE
6/ 15th, 2013 | Author: Ken |
古への魔術 … 喪われた都の記憶。
6/ 10th, 2013 | Author: Ken |
だます愉び、騙される楽しみ。
あれッ、この絵、何か変だよ? えッ、どこが? だって柱がサ。ン!そういえば…..。
何か銘が彫り込んであるね。ぼくはラテン語なんて分からないよ。ネットで調べてみよっ。
Mundus vult decipi, ergo decipiatur. 世界は騙されることを欲している、それゆえ世界は騙される。
Fere libenter homines id quod volunt credunt. 人は、彼らが信じたいものを容易に信じる。
… だってサ。
脳は自分自身の現実世界をたえずでっち上げている。不合理なことも勝手に合理的に納得するように思い込むように出来ているのだ。文章の校正なんてその最たるものだ。モニターで何回見直しても間違いに気づかない!….出力して気がつくことがあるけれど、ほとんどは他人の新鮮な眼で見なければ駄目だ。注意力なんて持続できないし、歩くのも右足、左足なんて考えていたら歩けないですね。
脳は、二つ以上のことに同時に注意を払うようにはできていない。上の絵なんてパターン認識では整合性があるように見えるけれど、視点を変えたらオカシイですね。錯覚だ。…..描いていて何度も間違いそうになった。
面白い本を読んだよ。脳学者がマジックと脳についての啓蒙書「脳はすすんでだまされたがる」 :スティーブン・L・マクニック、スサナ・マルティネス=コンデ、サンドラ・ブレイクスリー 訳:鍛原多惠子:角川書店だ。
知覚の大部分は錯覚なのである。マジシャンはそれらを実に巧みに利用している。彼らは手の器用さだけでじゃないんだ。第一がミスディレクション(misdirection)、判断力を間違った方に誘導するプロなんだ。これにはフィジカル( 身体的手法)、サイコロジカル(心理的手法)、タイム(時間的)の三種類がある。これらを組み合わせて見事に観客を騙す。マジックとは「騙される楽しみ」だ。
まず人間の入情報の大部分は視覚である。視覚系は、視野の中心を除けば、解像度はかなり低い。焦点を以外はボヤけるし、他はほとんど見ていない。そこで巧緻な演技や眼の残像効果や注意の対象を逸らすことで僕たちは簡単に騙されてしまう。
そして、人は見るものの多くを捏造している。脳は処理できない視覚情報を「充填」によって補うんだ。そう、ある一部分が見えないからといって、無い部分を続いていると判断する。例えばトンネルから電車の前部を少しと後部の少しが見えていていたら繋がっていると思い込むよね。実は真ん中が切れていて前と後ろの2両しかなかってもだ。
僕たちが見たり、聞いたり、感じたり、考えることは、過去の経験や記憶から予期しているんだ。知覚された錯覚も、自動的な反応も、意識することも脳のメカニズムが定義しているんだろうか。「オレは目撃したから本当なんだ!」ホントかな? 眼とは、あんまり信用できないね。記憶もそうだ。マジシャンは、人間の認知を手玉にとる達人だ。視覚、聴覚、触覚、注意、記憶、因果関係など、きわめて複雑な認知過程を経て「オレは正しい」と思い込ます。詐欺師の大部分は、この人間というものの弱点を突くんだ。物欲とか金とか愛情とか孤独さとか…..。 虚実は知らないけれど「他人を助けるといい気分になる」そうだ。これはオキシトシンという物質が出て脳に快感を作るそうな。人間は社会性動物だから、親子や、仲間を助ける行動が脳内に組み込まれているのだろうか。それが秩序と道徳を作り、人類愛、果ては地球にも優しいという地球(ガイア)の擬人化まで…..。…でも、僕は理性的に、論理的に、判断している、積もりだけれど、それも…。そしてこの歳になるまで長い時間「自分自身」という認識で生きてきたんだけど….。
Plaudite, acta est fabula. 拍手を!お芝居はおしまいだ(アウグストゥス )。
5/ 3rd, 2013 | Author: Ken |
我在ル故ニ骨アリ。… 理性の座はどこにあるのか。
理性の座はどこにあるのだろうか?哲学史上で最も有名な命題と言えば「我思う故に我あり」だろう。1649年スエーデン女王クリスティーナの招きでかの地に滞在、翌年2月デカルトはストックホルムで死去した。遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年フランス・パリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移された。この時、頭蓋骨だけが盗まれスエーデンで保管されていた。….フランス革命の動乱を経て遺骨はサン・ジェルマン・デ・プレ教会に移された。そして1821年にスウェーデンで発見された頭蓋骨だけはパリの人類博物館にある。… この頭蓋骨にはラテン語の四行詩が書かれている。 … ” 名高きカルテシウスのものなりし小さき頭蓋その胴体は遠く仏蘭西の地に隠されたり されどその才、あまねく地上に讃へられ その魂、今も天球に憩ふ ”…
この数奇な運命の頭蓋骨にまつわる死後の伝記がラッセル・ショート著「デカルトの骨」(青土社)だ。まあ、面白いの何の!「虎は死して皮を残す、デカルト死して骨残す」。その「方法序説」から近代科学観が始まったと言われる哲人ルネ・デカルト。精神と肉体という二元論を提唱し、「近代主義の父」とも呼ばれるが、生前だけでなく、彼の残した骨を巡って引き起こされるミステリーだ。その頭蓋骨の真偽問題、比較解剖学、骨相学、顔学に至まで、まるで二元論を象徴するかのように、精神の宿る頭蓋骨と肉体の骨とが分離した皮肉とも思える話だ。その実体二元論は理性を正しく導き、知識の中に真理をを探究するための「方法序説」岩波文庫(たった500円)だ。この世界には、肉体、物質といった物理的実体とに、形は見えないが、魂、霊魂、自我、精神、思考、意識などの心的実体がある。デカルトの哲学は「精神」と「身体」を分けるものであり、機械論的世界観という側面がある。これは当時支配的だった神学的な世界観に対し、力学的な法則の支配する客観的世界観を展開したもので、ガリレオやニュートンと並んで近代科学の発展にパラダイム・シフトを起こしたのだ。でも一概に「二元論」と割り切れるのだろうか? 彼には神の存在という絶対的背景があるから神・精神・その延長の身体という「三元論」じゃないだろうか。
このデカルト主義に対して70年代後半から80年代にかけてニューエイジ・サイエンシストが盛んに二元論・還元論を攻撃していた。A・ケストラーの「ホロン」に見るホーリズムやF・カプラの東洋思想との融合を説く「タオ自然学」など一世を風靡した。だがね、ライアル・ワトソン(捏造や欺瞞がいっぱいのトンデモ本)など、胡乱な説がカルト主義になり、時代とともに消えていった。でも人間は胡乱神秘を好むもので未だにホメオパシーや「百匹目の猿現象」などを信用している人がいるから気をつけたいものだ。
あのアインシュタインの1905年は「奇跡の年」と言われる。「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表した。1907年にはE = mc2を発表、1915年には「一般相対性論」を完成。1917年には一般読者用に数式をほとんど使わずに「わが相対性理論」を著した。とても分かりやすく、これこそトマス・クーンの言うパラダイム・シフトだ。
現在、亡霊となってもなおデカルトは裁かれている。「デカルトなんかいらない?」ギタ・ペシス・パステルナーク著:産業図書。原題は「デカルトを火あぶりにしなければならないのか?」と過激だが、内容は現代科学を巡っての対話である。散逸構造のプリゴジンやファイヤーベントなど、錚々たる科学者が登場。…..そして「精神と物資」エルヴィン・シュレーディンガー(工作舎)、ボーアやハイゼンベルグらと量子力学の基本方程式を作った偉大なる科学者だ。1956年にこの様な講話をしていたとは…..。でも、いま読み直してみたら「人間原理」のような記述が多いですね。
4/ 16th, 2013 | Author: Ken |
時計仕掛けの棋士。
プロ棋士がコピュータに破れる。こんな記事を見た。「ツツカナ」というソフトで先月にも「ponanza」がプロ棋士を破り対戦成績はコンピュータソフトの2勝1敗になったそうだ。だからどうなんだ!僕たちは飛行機も新幹線もネットだって使っているじゃないか。
機械に負けたからってコンピュータのCPUに熱いコーヒでもぶっかけるか電源を切りゃいいのだ。と言いながら何か寂しいですね。チェス(西洋将棋)も日本の将棋もインド古代のチャラトンガが起源と言われている。二千年の歴史があるのだ。一方コンピュータのチェスの歴史を見ると半世紀ほど前にクロード・シャノン博士が論文を発表、以来デジタルとなり、1988年チェスコンピュータがグランドマスターを破り、1997年には史上最強と言われた名人ガルリ・カスパロフがコンピュータと対戦して破れた。VVSIチェスプロセッサーを搭載した「ディープ・ブルー」は1秒間に2億手を解析するそうだ。なにしろ3分間に400億の局面を計算し、過去100年間の序盤戦を記憶しているだと…。
僕は将棋もチェスも全く不調法なのだが興味は尽きない。「2001年宇宙の旅」でもHAL9000が対戦していたネ。いずれ人間型ロボットが実際に手を動かしたり仕種や表情まで出て来たらどうなるのだろう。少し気味悪い気もするが…。
まあ、寛政から明治にかけて活躍した「カラクリ儀右衛門」こと田中久重も凄い男だ。東芝の創業者であり、彼の作った「万年自鳴鐘」という見事な万年時計を国立化学博物館で見た事がある。その精密さはマニュアルの限界に挑む好奇心の発露である。ギアやゼンマイ、クランクの時計仕掛けには機構の知恵に嬉しくなってしまう。コンピュータはつかみ所もなく、音も無く稼働するメカニズムもないのだ。その点カラクリ仕掛けは人間的だ。ロンドン・ピカデリーサーカスのフォートナム&メイソンの時計、みんなあんぐりと口を開けてお上りさんをやっている…..。おいおい人形に見蕩れていると財布を摺られますゼ!
しかし最も愉快な話は1770に年ハンガリー・ブレスブルグの貴族ヴォルフガング・フォン・ケンペレン男爵によって作られた「トルコ人・The Turk」だ。人間相手にチェスを指し、以後1854年に消失するまで84年間にわたりほとんどの試合に勝利したと言うのだ。トリックが行われていないということを確かめさせるために、対戦前に内部を觀客に見せて、これは自動機械であり人が隠れていないというパフォーマンスもやったのだ。あのナポレオン・ボナパルトやベンジャミン・フランクリンとも対戦した。 「ザ・ターク」はケンペレンが死去すると、ケンペレンの息子が1808年にメトロノームの発明者でもあるメルツェルに売却。そしてアメリカにも渡りE.A.ポーも「メルツェルの将棋差し」という短編を書いたこれは人間が隠れていて駒を動かしていると推理している。1820年にロンドンのロバート・ウィリスが手品だと暴くまで誰にもバレなかった。ザ・タークはチェスの名人が内部に隠れて操作する手品であり悪戯だったのだ。何とも楽しい話で箱の内部を見せるなんざ現代のマジックでよくやる手を使っているのだ。こりゃ脱帽!
チェスといえばイングマール・ベルイマン監督の「第七の封印」(1957)が思い出される。猖獗を極める黒死病、邪教が蔓延り、不安覆われる時代、無益な十字軍遠征から祖国に帰還する騎士(マックス・フォン・シドー)、死神が現れる。彼は神の存在と自らの命を賭けたチェスで死神と対決するのだ。それは死を恐れる時間稼ぎではなく、神の存在を確認し、無益な戦役で揺らいだ信仰を取り戻すためのものだった…。しかし彼は死神にチェスの敗北をする。魂の救済も神との対話も何一つ達成できなかったが、素朴な旅芸人の一家を死神から守ることには成功する。荒れ果てた城で妻と再会、「而して小羊、第七の封印を解き給いたれば…」無残にも死神が現れ、その場に居た者すべての命を奪ってしまう。翌朝死神の魔の手から無事逃げ出した旅芸人一家が見たのは、死神に先導され数珠繋ぎになって
「死の舞踏・ダンスマカーブル」を踊る犠牲者たちの姿だった….。このシーンは今も眼に焼き付いている。「神はなぜ沈黙しているのか」!問う映画だった。モノクロームの映像が美しい……。
現代はインターネットというハイテク魔術?によって世界中と将棋やチェスを対戦できる時代だ。またガイ・フォークスの仮面を被ったアノニマス(匿名の)というハッカー集団もいる。…..「我々はアノニマス。 我々は軍団。 我々は許さない。 我々は忘れない。 待っていろ!」その人を喰ったやり方は現代のThe Turkみたいだ。