5/ 29th, 2012 | Author: Ken |
あの薄幸の美女は何処へいったのか…。
もう二昔も前になるだろう。一夜にして(そう思うくらい)世の中が激変したのだ。デザイナーの三種の神器である三角定規、ケント紙、製図器具がぶっ飛んでしまったのだ!マッキトッシュの出現だ。それまでワープロ(懐かしいネ)やラップトップのパソコンは少しはさわっていたのだが(ロータス1,2,3なんてね)。デザインが出来る?……デモストレーションを見にいっても、とてもこんな高額なものは手が出ない、しかしこれからは…。やっとパフォーマをローンで手に入れた。今から思えばチャチなものですぐに壊れたものだ。インターネットもあったけれど蝸牛の歩みみたいなものだった。僕はイラストレーター3.0とフォトショップ、少し画像が重いともう動かない。おまけにフロッピーは1Mだったしね。
でも画期的でしたよ。だってそれまでの写植(写真植字、文字の基盤から書体やポイントを決めて焼き付け、それをペーパーセメントで原稿に貼る)や写真のアタリ(原稿にコピーや手書きの線でトリミングを指定、トレスコープ(紙焼きの大きな機械)やインレタ(インスタント・レタリング、裏に蠟を塗ったシートで文字をガラス棒でこすって原稿に転写する)。そうそうトレーシングペーパーや透明フィルムを重ねてその上に写植や写真を貼っていた。レイヤーそのものじゃないか!そんなものががいらなくなったのだ。
そうだ!AdobeのIllustratorを開くと、あの麗しくも繊細な美女が現れるのだ。ヴォテッチェルリの「ヴィーナスの誕生」だ。ルネサンス期に「麗しのシモネッタと謳われた絶世の美女シモネッタ・ヴェスプッチなのだ。しかし美人薄命の名の通り1476年23歳でこの世を去った。ロレンツォ・メディチは語る。「フィレンツェ市民は驚に包まれていた。彼女の死顔の美しさは、生前のそれを超越していたからだ。彼女を前にすれば、死もまた美しい….」と。
….そして、クアドラ、パワーMacになり9500、G3、G4、G5。OSもXから豹、虎、雪豹、獅子、山獅子と変わって来た。Illustratorも5.5で完成していたし、8は本当に使いよかった(7と9は不出来)。またPhotoshopも6で完成していたのではないか?それより10になりCSのAi、Psとなり、やたらとアプリケーションが重くなり(Aiの8なんて保存が一瞬でしたね)、いらないツールが多すぎるし(Psでは初期からあるスタンプツールやレイヤー、色調補正はいまでも素晴らしい)どうも使い辛い。
ああ、麗しのシモネッタよ!あの薄命の美女もCSとともに消えていった…。
4/ 16th, 2012 | Author: Ken |
深淵を覗く。
こどもの頃、鏡を床に置いて覗き込んだり、表や森のなかで地面に置いてみた事がある。日常とは違う異次元に迷い込んだ気がしたものだ。古池や古井戸を覗くのも奇妙な不安感に襲われる。底のほうの暗い水面から私を見つめる者がいる。たしかに自分の顔が写っているのだが異界から視られているような、苛立たしいというか恐怖さへ憶えるのだ。だから古井戸にまつわる恐怖譚や小泉八雲の「茶碗の中」に言い知れぬ不気味さを感じるのだろう。いや、それは偽りだらけの自我と人生の自分を見据えるもう一人の自分なのだろうか?私とは脳の情報である。脳の情報の現れが私であるなら、じゃ、私という脳は、自分自身を理解しているのだろうか?脳が総ての情報を含んでいるという前提に立てば、脳は私を理解しているのだろうか?ああ、ややこしくなって来た。無限連鎖に陥ってまるで合わせ鏡の奥を覗いているようだ。
我思う、故に我あり・ego cogito, ergo sum。デカルトの有名な言葉だ。皮肉屋のA・ビアスは「我思うと我思う、故に我ありと我思う」と言った。いや唯物論者なら「我ある、故に我思うと」言うのだろうか。スピノザは「我は思惟しつつ存在する・Ego sum cogitans.」と。小難しく言うなら「観念に対応する実在とはいかなるものか」となるのであろう。私が普段見て感じる実在とは本当にあるのだろうか? … すべては心に映る幻影、または脳の中で作り上げた虚像なのではないか。私が見ているものと他人が見ているものは果たして同じものだろうか? … そう、夢を見ている時は明らかに実在であるのに、目覚めれば幻覚である。(といってフロイト心理学、あれ疑似科学じゃ無いの? 何がエディプス・コンプレックスだ。何が抑圧された性だ。勝手なたわごとじゃないか!)。と、いうことは「心」というものだけがあり、実在とは幻想であり客観的な存在ではない。
…これは唯識論だ。東洋の知恵は数千年ほど前からそれを探求してきた。唯識論によると個人にとってのあらゆる存在が、ただ、八種類の識によって成り立ち、五種の感覚、眼識・視覚、耳識・聴覚、鼻識・嗅覚、舌識・味覚、身識・触覚、意識、2層の無意識である未那識、その根本である阿頼那識と説く。
あらゆる諸存在が個人的の認識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、即ち「空」であり表彰・イメージに過ぎない。色即是空、空即是色だ。この世の色(存在・物質)は、ただ心的作用のみで成り立っていると…「意識が諸存在を規定する」とするのだ。でも意識を作り出しているのは私だろう。
それは還元的には原子 → 素粒子→ クォークである。物質が私と心を作り出しているのだが。
…「空」ね。でも旧約聖書で有名なヴァニタス・ヴァニタートゥム・Vanitas vanitatum omnia vanitas.「空は空なるかな、すべては空しい」の空ではない。これは死に至る人生の「空」であり、唯識の「空」は、宇宙の摂理の根本の「空」を説く。もっと理性的で客観視した「空」である。…そうして現代科学は量子論を生み出した。真空とは「何もない」状態ではなく、常に電子と陽電子の仮想粒子が対生成と対生滅を起こしていると…。真空はエネルギーに充ち満ちているのだと。まあ、ディラックの海やヒッグスの場理論までというと私にはとても説明できないが…。
だからといって「科学と唯識」は同じであると、こんな本が多いが、これは疑似科学だし、ニューサイエンスやスピリチャルになってしまう。
●「フロイト先生の嘘」ロルフ・デーゲン著/赤根 洋子:訳・文春文庫…よくぞ言ってくれました。どっちでもいい学説とたわごとの夢分析、いまだにその信望者の偉い先生が疑似科学を垂れ流している….。痛快な本です(痴の欺瞞:アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著: 岩波書店。これも痛快極まる)。
●「唯識入門講座」横山紘一:著/大法輪閣 ●「わが心の構造」(唯識三十頌 に学ぶ) 横山紘一:著/ 春秋社…非常に分かりやすい。
●「心の仕組み」著者:スティーヴン・ピンカー /山下 篤子 訳 : NHK出版….進化的適応の結果として人間は心という器官システムを
持った。よって人間の心の思考は、自らの認知的能力の働きについての本質を認知できない….。
●「豊穣の海」三島由紀夫/大乗仏教の唯識を根底に緻密華麗な文章で輪廻転生を描く。「春の雪」「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」の四刊に三島美学が…天人とて五衰の腐臭が生じ…三島も高齢化が恐かったのだ。だから…。
4/ 1st, 2012 | Author: Ken |
スケボー・キャット Skateboard Cat
もう春だ。日差しが眩しい。公園の桜もそろそろだ。
我が家のPONTA君、春を待ちかねたようにスケートボードの練習に余念がない。
猫だけにその身軽な事!宙返りも逆立ちも凄技の連続だ。
毎年カルフォルニアで開かれる「世界動物スケートボード大会」を目指しているのだろう。
昨年はブルドッグのHasty君が優勝したそうだ。
3/ 24th, 2012 | Author: Ken |
モ、もう一度、会いたい。
そう、あの頃、暗闇のなかで見た映画。何故か心の隅に沈積し、普段は忘れているのだが時折りかすかな香りとも光景ともつかぬものが漂い、もう一度見てみたいという衝動に駆られる。あのスクリーンに魅入れられ没入したものは….。いま見れば詰まらないのかも知れないが、その朧げな映像の断片が眼前を過るのだ。この情報の時代だ。探せばDVDで発売されているのもあるだろう。しかし、場末の映画館でぽつねんと一人見入っいた時、ENDマークまで通常世界の時間は完全に止まっていた。あの暗闇のなかで….。
● 「独立機関銃隊未だ射撃中」(1963)監督:谷口千吉 佐藤允出演とあったので題名からも独立愚連隊モノの新作かと思った。…敗戦間近のソ満国境、トーチカに立て籠る日本軍に嵐のようなソ連軍が迫る。閉塞したトーチカの中だけが舞台、秀作です。
● 「沖縄健児隊」(1953)鉄血勤王隊の少年たち。爆薬を背負い戦車に肉薄する少年兵、「戦艦大和が来るぞー!大和はまだかー!」絶望のなかでは嘘と分かっていても微かな望みを叫びたくなる。そんなシーンがあったように思える。なにしろ、ぼくはほんの子どもだった。暗闇のなかで堪らなくなり泣きました。「ひめゆりの塔」、「きけわだつみの声」も同じ頃でしょうか。
●「泳ぐ人」(1968)不思議なイントロである。逞しい肉体、スイムパンツだけの男が林のなかからプールサイドのパーティに…..、眩しげに空を見上げ、そうだ「泳いで帰ろう」。友人たちのプールを泳ぎ過ぎながら男の過去や本当の姿が浮かび上がってくる….。
●「ある戦慄」(1967)N.Y.の深夜の地下鉄、乗り合わせた様々な人々、そこに凶悪な二人のチンピラが乗り込んでくる。傍若無人の振る舞いに乗客たちは。ああ恐ろしい。暴力の前の人間、あの乗客の一人が僕だったら….見るのが堪らなくなる。
● 「秘密殺人計画書」(1963)この面白さ!大物俳優が意外な姿で。フィリップ・マクドナルド原作/ジョン・ヒューストン監督。ジョージ・C・スコット、トニー・カーティス、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ロバート・ミッチャム、フランク・シナトラ等が変装とトリックを駆使して…。最後に「皆さん分かりましたか?」
ああ、もう一度、ぜひ、是非とも、見てみたい。
●「銃殺」(1964)監督:小林恒夫、主演:鶴田浩二。霧の中から兵隊が行進、歌声が聞こえる。〜汨羅の渕に波騒ぎ 巫山の雲は乱れ飛ぶ 混濁の世に我れ立てば 義憤に燃えて血潮湧く….. 世界恐慌の波は日本にも吹き荒れ、世相は悲惨と混乱で疲弊していた。東北では娘たちの身売りが….祖国を憂える青年将校達は二・二六事件を…。ほとんどの2.26映画は見たし、文献、小説等も数多く読んでみたのだが、この映画が当時の世相と蹶起の心情を一番映しているように感じた。処刑シーンは史実を踏まえて圧倒的。
●「シェラデコブレの幽霊」(1964)あまりに恐ろしい映像描写で試写会で体調が悪くなる者が続出した…の伝説がある。(ダリのアンダルシアの犬も当時失神する女性が続出したと言う)確かポジネガ反転による幽霊映像の記憶がある。世界に2本しかフィルムが残っていないそうだ。その1本は日本にあると噂に聞く。昔、TVの洋画劇場で見た。DVD化されないものだろうか。
●「マスター・ガンファイター」(1974)五社英雄の「御用金」そのもの。舞台を西部に移して。連発銃と刀を持った流れ者が、権力の横暴と戦うのだが。監督はフランク・ローリン、「御用金」では竹馬の友でありながら戦う仲代達矢と丹波哲郎、かじかむ指に息を吐きかけながら….背景は海岸で漁民達の御陣乗太鼓が勇壮に鳴り響く…。アメリカ版ではインディオたちが仮面を被り太鼓を打ち鳴らし、…そこまでソックリにやるか!
● 「恐怖の振り子」(1961・AIP:B級映画専門?)E・A・ポー原作「振子と陥穽」異端審問にかけられた男に巨大な刃物の振子が刻一刻と迫る。シャー、シャー……。まあB級映画なんだが、何しろ脚本がリチャード・マシスンだ。ロジャー・コーマンが「アッシャー家の惨劇」(1960)に続いて発表した作品。続いて「赤死病の仮面(1964)。それにしてもポーの原作を彼の詩のように格調高く美意識と幻想を文学的、芸術的視点で描いた映画はないのか?「世にも怪奇な物語」のウィリアム・ウィルスン(アランドロン)はなかなかだったが。写真集では「黒夢城」サイモン・マースデンが素晴らしい。そこには崩壊した古城、苔むした墓地、 闇に浮かびあがる黒猫、幻想的いにしえの怪……。また、マシスン原作の「地獄の家」これは傑作。低くドロドロと鳴動する太鼓とベラスコの亡霊が….。それにしてもリチャード・マシスンは才人ですね。
●「眼には眼を」(1975)シリアの小都市、仏人医師 (クルト・ユルゲンス)、医師の怠惰さで現地人の妻が死ぬ。その夫である男の復讐譚。砂漠を彷徨し、炎天、渇き、医師は叫ぶ。「殺してくれ、死んだほうがましだ!」。男は言う「俺も女房が死んだ時そう思った。その思いをおまえに言わせたかった」。最後に男は街の方向を指し示す。男を信用しない医師は反対の方向に歩き始める。…カメラが引くと行手には茫漠と連なる荒れ果てた山々だ。….
●「悪魔の発明」(1958)チェコのアニメーションの巨人カレル・ゼマン:ジュール・ヴェルヌの同名原作を映画化したSF冒険活劇。背景はギュターブ・ドレか?ノスタルジックなエッチング。アニメと俳優の演技を合成。独創的な不思議世界を構築していた。
●「殺しのテクニック」(1966) 監督:フランク・シャノン、 出演:ロバート・ウェバー。…..狙撃銃の慎重なサイト合わせ…NYに向う…朝焼けに浮かび上がるマンハッタン。ビルの屋上からの狙撃、ライフルの組み立て、 風向、細かい描写がたまらない。 相棒の生意気な殺し屋が何と!あのフランコ・ネロだ。これぞB級映画の王道である。… 日本でも加山雄三主演 「狙撃」(1968)、殺し屋森雅之が襲いかかる犬の群に7.62ミリ・モーゼルC96で…。ゲバルトなんて言葉が流行った時代でした。そして、あの蠍の目の男ヘンリー・シルヴァ「二人の殺し屋」これもいいんだな。
●「ソルジャー・ボーイ“Welcome Home”」(1972)ベトナム戦争から帰還した4人の若者がカルフォルニアに向う、人々の眼は冷たい。「俺たちは祖国のために戦ったのじゃなかったのか?」。様々な冷酷な仕打ちにとうとう….田舎町で武装し皆殺しを…戦争に傷ついた青春の哀しさ。監督:リチャード・コンプトン、出演:ジョー・ドン・ベイカー、ポール・コスロ…..。「アメリカは遂に俺たちを愛してくれなかった」。
●「探偵スルース」(1973)流石はミステリーの帝国である英国劇だ。たった二人だけしか登場しない(三船敏郎とリー・マービンの「太平洋の地獄」も二人だけで)L・オリビエ&M・ケインが丁々発止と火花を散らし、変装と演技合戦でいかに相手を出し抜くかが見物である。豪壮な大邸宅のラビリンスの庭で….。
●「価値ある男」(1961)メキシコ映画、あの世界のミフネが、酒浸り、乱暴者、打ち買う、神頼み、の愚か者を演じる。なぜ価値ある男なのか? 最後のシーンで哀しくもある男の姿….。
ああ、ウーン、見てみたい!
3/ 19th, 2012 | Author: Ken |
アッ!電送人間だ!…B級だからってバカにするな!
B級といえばB級グルメの真っ盛りである。日本のブログの大半はこれで占めているのではないか….そんな気がする今日この頃である。
まあ、食べることならたいして罪が無いからいいのだけれど、食べログなんてステマ(ステルスマーケッティング、つまりヤラセが多いと報じられた。まあ行政も原発電力会社もやっていることだし….)。かってはレコードにもA面とB面があり、世間でBクラスといえば小馬鹿にした響きが感じられる。映画だってそうだ。文芸大作だの、芸術作品だの、構想十年、数百億ををかけただの….。
ところがB級は低予算、速撮り、大物スター出演なし。しかしアイディアと奇想天外さが売物だから、こりゃ面白い!に徹する訳だ。一種の爽快感ともいえるナンセンスとアホらしさが嬉しいのだ。キッチュの味とも言える。要はエンターテインメントなんだよ、活動写真なんだ。目くじら立てなさんな。…これだね。でも放浪癖の香具師のオッサンの話だの釣りキチサラリーマン物語。ああ、止めてヤメて!見ているこちらが恥ずかしい。釣りの話しならR・ハドソンの「男性の好きなスポーツ」スラップスティック・コメディ、ピンク・コメディとも言いましたね。
ドリス・デイの大ファンでした。「夜を楽しく」とか「恋人よ帰れ」これはマジソン・アベニューの広告屋のお話し。何と笑うハイエナ、R・ウィドマークも「愛のトンネル」でドリス・デイと。… 悩みなきパックス・アメリカーナの時代ですね。おおオールディズ&グッディーズの日々よ。プレスリーも青春ものに粋なアンちゃんでね。最近はスプラッターだの、CGだの、血飛沫と悲鳴と醜悪さとヌルヌル、ぐちゃぐちゃ、生理的不快感にこれでもか、これでもか…と。もう食傷してかえって詰まらないんですね。そう、品性を忘れたところに映画の末期的形相が見えてしまうのだ。
…あの期待に胸弾ませながら暗闇に座った密かな楽しみ。まだポップコーンもコカコーラも珍しく、トイレの匂いがかすかに漂う場末の映画館。二本立て三本立ては当たり前、四本立てを見た事がある。….時間がゆっくり流れていたのですね。当時は二本立てが常識だったから、A面は文芸大作でB面はおまけみたいなものだから喜劇や肩の凝らないイージーなものが多かった。森繁の「社長シリーズ」なんかね。いまでもカンズメ会社の宴会のCMソングを歌えるのだ。カーン、カーン、カンズメカーン、クジラだー…..松林宗恵監督に乾杯。
「獣人雪男」子どもだったけれどポスターを見て血が騒ぎましたよ。「電送人間」当時はファックスさえ無かったし、まさにインターネットの先取り?洋画「蠅男の恐怖」の影響でしょうね。「ガス人間第一号」これが好きなんだ。八千草薫さんの美しいことといったら!色白で清楚でつぶらな瞳に小さくぷっくりした下唇。ガス人間でなくても崇拝しますよ。落ちぶれかけた踊りの名取りなんだが、新作発表の題名は「情鬼」なんですよ。夜叉能面の下に綺麗ったらありゃしない八千草さんだ。爺やの左卜全がまたいい。そして最後が哀しいですよね。「美女と液体人間」「マタンゴ」、松竹では「ゴケミドロ」なんてのも、何とシャンソン歌手の高英夫も出演。東宝映画では水野久美さんの眩しい肢体、白川由美さんのクラブ歌手、土屋嘉男、中丸忠雄、平田明彦たちが常連….、本多猪四郎監督に敬礼!
…そしてダ、これは極悪B級、いやZ級、極悪、邪道、隠れた傑作?あの新東宝・大蔵映画のキッチュの極めつけ「地獄」(1960)ですよ。ダンテ・アリギエーリも真っ青(恐らく下書に)、おどろおどろしくも死装束に額に三角形の紙冠をつけを亡者の大群が地獄を行進するシーンなんざ、絶句!何と閻魔大王がアラカンなんですゼ。大霊界の丹波哲郎が出ていないのは残念、でも彼は今頃あの世で?….そういえば題名は忘れたがロビン・ウィリアムスの地獄に行くのもありましたナ、こりゃ結構いけますよ。
洋画でも嬉しくなるのが「大アマゾンの半魚人」とか、凄いのは題名が思い出せないのだが宇宙から巨大蜘蛛が襲ってくる、それがフォルクスワーゲンに毛皮を被せて巨大な脚をつけてゆらゆら走らすの。トリックがまる分かりで大爆笑でしたね。どなたか題名を教えてください。「バタリアン」とか世界で一番下品な人間「ピンク・フラミンゴ」ゲーッ!とか…。。「エルム街の悪夢」この頃はまだ真面目に見ていたのです。そうそう「トレマーズ」、巨大な芋虫が地中を猛スピードで突進する。あのケビン・ベーコンさん、やはり出ていましたね。大ファンですよ。「振動をあたえるなッ!」なんてね。これをコントロールしたら「黒部の太陽」でも、ヒマラヤ山脈をぶち抜くなんざ….土建屋が喜ぶぜ。「ベルリン忠臣蔵」サムライ大好きのドイツ人がいじらしい。「悪魔の毒々モンスター」日本人の父に会いにNYからウィンドサーフィンで日本に渡るやら、丸の内のビジネスマンの丁髷やら、鼻が鯛焼きになるやら…。
「カタコンベ」落ちのあまりの陳腐さに絶句。「死霊の盆踊り」あまりのアホらしさの都市伝説と噂に恐ろしくて未だ見ていない。「マチェーテ」無茶苦茶なんだが大物俳優出演、R・デニーロ、S・セガールが出ていた。「SAW」は汚いけれどなかなかの出来。「CUBE」アイディアに感心、脱帽!たぶんルービックキューブで遊んでいて思いついたのだろう。大好きな「マスク」「ジュマンジ」これはアイディアが素晴らしい…A級か。そして「マイケル・ムーア監督のTVシリーズ、「恐るべき真実」正直唸りましたね。マクドナルド食い過ぎの監督が突撃、警官に撃たれないために派手なオレンジの財布を配ったり、裏切り者ミッキーマウスを蹴落としたり。
…..おまえはこんなナンセンス物しか見ていないのか!とお叱を受けそうなので自己弁護を。…..ン、確かに否定はしないがぼくはATG(アートシアターギルド)の初会会員だったんだゾ。あの小難しい映画を分かった振りして通っていたんだゾ。エイゼンシュテインもタルコフスキーもベルイマンもフェリーニも小津 安二郎も溝口 健二もみんなみんな素敵だった…..。
そう、A級もB級もC級もZ級までも含めて映画が青春だった。
3/ 15th, 2012 | Author: Ken |
鍵穴から覗くは誰ぞ?… 密室ミステリーの密かな愉しみ。
本格ミステリーと言えば密室殺人事件だ。世界初の諮問探偵オーギュスト・デュパンが登場し快刀乱麻を断つ冴えを見せるE・A・ポーの「モルグ街の殺人事件」を源流として、それより古典的密室トリックとして名高い、ガストン・ルルーの「黄色い部屋の秘密」、ジョン・ディクスン・カーの「三つの棺」など枚挙に暇がない。世界中のミステリー作家が頭の冴えとトリックにチャレンジしありとあらゆるパターンの密室事件が書かれてきた。勝手な想像だが数万の、いやそれ以上の密室があるのだろう。密室はチャレンジ欲をそそるのだ。俺がもっと新鮮なアイディアを考えだしてやると….。
あのホームズも「まだらの紐」「唇の曲った男」などで活躍、日本では江戸川乱歩が「D坂の殺人事件」「屋根裏の散歩者」を、横溝正史が日本的開放家屋での「本陣殺人事件」を著した。名作と呼ばれるものは数多あるのだが、本格ものは結局、合理的で整合性のある結末を提示しなければならないからトリックが分かった時点で、なーんだ!と興醒めするものも多い。むしろ文章作法のレトリックに凝る作品の方が読者に挑戦状を叩きつける….答えは文章中にあると。大きく分類すれば心理的トリック…機械的トリック…物理的トリックに分けられる。後はそれらの組み合わせの様々なバージョンだ。しかし何故こんな面倒な工作をするのだろうか?
●自殺に見せかける ●アリバイ工作のため ●第三者に罪をなすりつける ●自己顕示欲 ●時間差の錯覚を利用 ●記憶の錯覚を利用 ●他に誘導するためのミスディレクション、等々。 機械的・物理的トリックとしては●鍵穴から糸を利用して内側から鍵を差す。● 毒ガス・毒液をかける、長い針でインスリンを注射 ●毒蛇、毒蜂などの致死性毒を持つ小動物を使う(実際軍事用にそんな蜂ロボットを作っているとか) ●矢を射る、氷の弾丸 ●圧搾空気、ウォータージェット、レーザー光線….. ●死体に見せかけ実は生きている ●窓枠が外れる、部屋全体がエレベーター ● 家がトレーラーハウスで移動 ●殺してから部屋を作り家を建てる ●部屋の温度を急変させたり、幽霊など幻視を演出しトラウマに衝撃を与え心臓麻痺を起こさす(そんなこと可能?四谷怪談か?)。●催眠術を使う….
どれもこれも無理がありますね。だから社会派ミステリーが生まれたのだ。と、言いながらTVのドラマは酷いもんだ。「死ぬ前に教えておいてやろう」…なぜか東尋坊の断崖が多いですね、オイオイ、無駄口叩くまえに殺っちゃったら…..。取り調べ室に容疑者と刑事、赤トンボの音楽、親子丼、「お前は本当の悪じゃない。全部吐いて真人間になるんだ。…号泣」いい加減にしてよ!。
これがファンタジーや恐怖小説や、SFなら奇想天外なオチで読者を煙に巻くこともできるのだが…….。
憶い出すままに、思考機械による独房からの脱出、また1.5メートル幅、両側は手がかりの無い壁。数秒で犯人が消えた?… 答えは「歩いて登った」ロッククライミングでありますね。山小屋で脚を折った男、松葉杖も無く小屋に火をかけられた。…どうして逃げる? ヒント:歩くのは脚だけではない。サーカスの空中ブランコの実演中に観衆の目前で一人が消えた?昔キオの大魔術では双子を使ったとか、ディビット・カッパーフィールドの舞台では箱ごと空中に持ち上げられ閃光破裂音で消える。途端に観客席の後から爆音とともにハーレー・ダビットソンに跨がったカッパーフィールドが登場、鮮やかでしたね。彼は自由の女神さえ消したのだ。
… 読者の推理・想像を超えるオチを求めてミステリー作家は呻吟苦闘するのだが、人間という大きさを抜け出ささすためには4次元空間でも通らなければ物理的に不可能だ。おまけに現代は音声、録画、GPS、携帯電話、監視カメラ、衛星、無人監視偵察機、グーグルアース、DNA分析、果ては粒子加速器の放射光による極微の物質分析まで出来るのだから….。やはり密室ミステリーは時代が長閑だった19世紀から20世紀にかけての知的お遊びだったのだろう。これからもハイテクをかいくぐって新鮮な「密室殺人事件」が書かれるのだろうか。ところがフーデーニも吃驚の歴とした「密室からの脱出」が現実にあるのだ。現代の量子力学によると古典的物理学理論では乗り越えられないポテンシャル障壁を量子効果によって透過してしまうのだ。粒子の波動関数が障壁の外まで染み出してしまうからだ。走査型トンネル顕微鏡や電子デバイスなど現代の様々な機器に応用されているのだ。あなたのPCもフラッシュメモリーもね。そしてこの宇宙も無から有に、量子のゆらぎがトンネル効果で生み出されたというのだ。まさに密室ミステリーもここに極まれりだ。
3/ 10th, 2012 | Author: Ken |
これぞプロフェッショナル。R・Aldrich
I’ve written a letter to Daddy His address is Heaven above I’ve written “Dear Daddy, we miss you
And wish you were with us to love” Instead of a stamp, I put kisses
……お父さんに手紙を書いたわ….舞台で愛らしもこましゃくれたベビー・ジェーンが歌う。….時は過ぎ古い屋敷に年老いた姉妹が暮らす。かって名子役で一世を風靡した妹のジェーンはアル中で昔の夢が忘れられない。大女優であった姉のブランチは車椅子の生活だ。
この姉妹の心の中の鬱憤、葛藤、陰湿、幻想、憎悪、残酷、狂気。そして醜悪と滑稽と哀れさと、感傷など無縁の狂気迫る世界だ。それにしてもベティ・デイヴィスは凄い!まさに怪演。あの「イヴェの総て」の大女優が醜怪な厚化粧の老醜を曝して見事に演じる。
まあ、「八月の鯨」では心温まる老婆を演じたが。ほら、ピアノ教師が古い楽譜を弾き始めると二階からジェーンが満面の媚びで下りて来る。踊り歌う….It’s a wonderful! このシーンにはゾクゾクしてきますね。何て映画作りが上手いんだろう!そう、アルドリッチだからだ。
これぞプロフェッショナルだ。ロバート・アルドリッチ監督の映画はどれを見ても頗る面白い。まずテーマとアイデアが凄い。異様な状況設定のなかの人間を描くのだ。そしてハラハラドキドキ観客をいたぶる技巧に冴えているのだ。徹底してセンチメンタルを排したハードボイルドである。骨太である。汗臭い。異端である。男達の面構えが不敵である。執念がある。怒りがある。憎悪がある。心理サスペンスが深い….。こんなことをいくら書いても映画を見れば分かる。
初めて観たのが「攻撃・Attack」(1956)だった。気力を振り絞りジャック・パランスが神に祈る…どうかもう1分間だけ生かして下さい。絶叫の形相のままの死。これぞ西部劇「ヴェラクルス」(1954)だ。バート・ランカスタターの不敵な笑み、真っ白な歯がニカッ!舞台は南北戦争後の動乱のメキシコ、ガンマンたちの悪相、息もつかせぬ展開、革命軍や太陽のピラミッドで有名なテオティワカンの古代遺跡群を背景にヴェラクルスに向う、最後の決闘シーンなんて世界中が真似したのだ。主役を喰うとはこのことだ。
「北国の帝王」(1973)これまたホーボー対鬼車掌、無賃乗車のプロ、車体の下に隠れたをホーボー追い出すのに分銅を線路に踊らすなんざ….。「飛べフェニックス」(1964)冒険小説好きにはこたえられません。「何がジェーンに起ったか」(1962)….老醜といえばグロリア・スワンソンの「サンセット大通り」(1950)監督ビリー・ワイルダー。その最後のシーン、カメラの砲列、フラッシュ、アクション!往年の大女優が妖艶のオーラを放ちながら迫ってくる。……鬼気迫りますね。
「ロンゲストヤード」(1974)刑務所で囚人対看守のフットボールでの闘い。エド・ローターがいいんだ。連中の凶悪なこと、黒澤の「用心棒」、丑寅の子分達を想像させますね。「燃える戦場」(1970)高倉健出演、両軍を隔てる広場をひたすら駆ける。これが撮りたかったのか?….アルドリッチには他にもたくさんあるのだが、どれもこれも秀逸です。
彼の作品は決して文学作品や芸術作品ではない。映画の職人でありプロフェッショナルだ。観客をハードに喜ばせてくれるのだ。残念ながら一部を除いた日本評論家たちにはこの面白さは分からないのだ(まあ、岡本喜八、五社英雄、三隅研二監督はいたけれど)。貧乏臭いウジウジした私小説的世界が映画だと思っている連中にはね。アメリカという風土が生んだデザイン手法なのだ。Esquire誌のジョージ・ロイスやTIME誌の表紙にあるのと同じアイディアの根源なのだ。小説家・監督であったマイケル・クライトンも同じだ。「ウェストワールド」のブリンナー扮するロボット、これはターミネーターのモトネタじゃないか!….ロバート・アルドリッチ、観客の心に対してダイナミックにデザインしているのだ。これぞプロフェッショナルの仕事だ。
3/ 1st, 2012 | Author: Ken |
“Let Freedom Ring”…ジャッキー・マクリーン
いやー、ずいぶんと集めたもんだ。まだ探せば物置にあるはずだ。初期のマイルスなんかのとかね…..。と、言ってもこれくらいじゃとてもコレクターにはなれないし、またディスコグラフィーを作るほどの時間も趣味もない。
若かりし頃ジャッキー・マクリーンが大好きだった。記憶があやふやなのだが最初に聴いたのはマイルスのレコードじゃなかったか?ドクター・キリコだったように思う…..。ハンサムでシャープ、切り裂き引き攣れるようなサウンド。気まぐれで微妙で不安感のある音程、揺れ動くフレージング、不協和音とキリキリするスキーク音を連発しアヴァンギャルドの方向とフリージャズを示唆する若きプレイヤーだった。パーカーの時代からハードバッパーとして数多くのミュージシャンとバトルとセッションを繰り返していた。あのミンガスとの歴史に残る「ピテカントロプス・エレクトス」、凄みある「水曜日の祈りの集い」。ケーニー・ドーハム、ジョニー・グリフィン、ドナルド・バード、アート・ブレイキー、前衛の騎手だったオーネット・コールマンとのセッションさへあるのだ。
大ヒットを飛ばした「レフト・アローン」「クール・ストラッテン」….これはセンチメンタルで分かりやすく聴きやすいのだが、ぼくの好みではない。そしてブルーノートのマイルス・リードによるデザインの斬新さ。このデザインのためにLPが欲しくてほしくて….。最下段の写真の3枚。このデザインを見てよ!何て新鮮でカッコ良く、これだ!有頂天になるのも無理は無い! 3段目の右にあるオカルティックなジャケットは「デモンズ・ダンス」イラストレーションは鬼才マティ・クーラワインだ。彼はマイルスの「ヴィチェズブリュー」、サンタナの「天の守護神」もそうだ。時代が揺れ動きヴェトナム戦争とハイジャックと時代がオカルト的様相を示していたのだ。ドラッグとヒッピーと泥沼の戦争、日本も当然のように時代の息を吸っていたから70年代のハチャメチャへと続いていく…。
そして3段目の右端「ジャッキーズ・バッグ」。このデザイン作法には脱帽した。このLPを裸で持って歩く姿を想像してごらん? 書類入れに見えてレコード・ジャケットなんだ。ぼくは今でもこの発想を大切にしている。デザインの原点だ。
LPの程よい大きさとグラフィック、ずっしりとした重量感、針を落とす時の期待と緊張。CDやipodはこれを奪ってしまった。データと呼ばれるデジタルは手に入れる喜び、1枚づつ集める楽しみ、眺める嬉しさへ消し去ってしまった。味気なさとはこういうことだ。J・マクリーンの1枚を選べ?「レッツ・フリーダム・リング」が演奏もジャケットも最高だといまでも思っている。
マクリーンには膨大な吹き込みがあり、すべてを集め全部を聴くことなんてとても敵わない。 そうそうライブでは64年だったか「ジャム・セッション」と銘うって来日したのだ。ベニー・ゴルソンなんかとね。そして80年代の半ばだったか再来日にも行ったのだ。
ああ、時間はあれほどシャープだった彼を磨り減らしていたのだ。中年太り、それはまあいい。音やフレーズ、サウンドまで緩んでしまっていた。ジャズの輝ける太く逞しい鮮烈が過去になっていたのだ。ぼくも歳を取っているくせに、まだ青春の残滓である微かなモダンジャズの残り香を探していたのかもしれないが….。しかし現実はジャズという盛りを過ぎた懐メロという音楽になっていた。ぼくはレコードを買うのを止め、ライブにも行かず、ジャズそのものも聴かなくなってしまった。革新と熱気と暴力的にまで過激なサウンド、刺々しく荒々しく反抗的で破壊的で、リズムとサウンドの限界を目指し、それでいて切なく哀しく知的で躍動する限りなく美しいジャズ。ハードバッパーの力強い牽引力に身を委ねる心地よさ。時代は終わったのだ。いまはもう懐メロとして耳を通過するだけだ。寂しい…。
2/ 24th, 2012 | Author: Ken |
奇妙な果実
「奇妙な果実・暗く悲しい歌」これはビリー・ホリディの自伝である。白い山梔子の花を翳し、レディ・デイという賞賛と歌姫としての絶頂を極めながら麻薬で廃人となって44歳の短い生涯を終える。10代半ばの売春婦の母親から生を受け、幼児期の虐待、レイプされ売春で逮捕され辛酸のなかで歌手として成功し、麻薬に溺れ刑務所にも入り、ライセンスさえ剥奪される。おまけに稼いだ金はヒモやギャングに吸い取られ…..。まるで作られたストーリーのような成功と破綻人生の生き方だった。
初めて聴いたとき、ぼくがまだ若かったせいか下手な歌だと思った。なにかメロディーを壊しているようなフェイクやフレージングに違和感を感じたのだ。ところが聞き込むうちにのめり込むようになった。ポピュラーソングやブルース形式じゃないのに、何を歌っても翳りを帯びたブルースに聞こえ、ブルージーななかにコケットリーな一面や清澄さを見せ、暗い情念というか人を魅了する不思議な力が伝わってくるのだ。
そうだ!これは彼女自身が楽器でありインプロバイゼーションもアドリブも譜割もリズムもフレージングも彼女自身の身体から滲み出す音楽なんだ。誰の歌でもなくビリー・ホリディのエモーションなんだ。そう、”Lover Man” や “Don’t Explain” を聴いてほしい。生涯、男に騙され翻弄された女の、哀しさ、弱さ、嘆き、優しさの叫びなのだ。そしてジャズ史に残る名作 “Strange Fruit”(奇妙な果実、ルイス・アレン作詞作曲/1939)。
残酷で恐ろしくも悲惨、たまらなくなる惨い風景。南部でリンチされ、木に吊るされたた黒人奴隷。それをビリーは淡々と歌う。胸奥に隠された怨念、怒りと痛み。それを押し殺すように歌う。耳を覆い逃げ出したくなるような恐い歌だ。
Southern trees bear strange fruit 南部の木には奇妙な果実がぶらさがる
Blood on the leaves and blood at the root 葉は血染まり、根にまで血を滴たらせ
Black bodies swinging in the southern breeze 黒い死体は南部の風に揺らいでいる
Strange fruit hanging from the poplar trees. まるでポプラの木に下がる奇妙な果実のようだ
・・・・・・晩年は、麻薬と酒で声も衰え、音程もリズム不安定、皆から見放される。
冠絶した不世出のジャズ・シンガー、ビリー・ホリデイ。この胸に強く迫る歌声は何なんだろう。それはテクニックを超えたところにある歌心とメッセージと彼女の魂そのものである。
●「奇妙な果実」ビリー・ホリデイ自伝 油井正一・大橋巨泉/訳:晶文社
●「奇妙な果実・映画ビリー・ホリデイ物語」1972・監督シドニー・J・フューリー、出演/ダイアナ・ロス
● 「レフト・アローン」1960/ビリー作詞、マル・ウォルドロン作曲、ビリーのパートをジャッキー・マクリーン(as)が切々と歌う。
ビリーの最後の伴奏者として、ビリーへの哀悼の意を込めたアルバムとして、世間の評価は恐ろしく高いが、果たして?これは神話じゃなにのか?。マルの控えめなで内省的な演奏がひねくれた暗い世代に受けたのか?さほどのジャケットとは思えないが、
ビリーへの皆の思いが名盤にしたのでしょうね。
2/ 17th, 2012 | Author: Ken |
奇ッ怪巨獣、がんばれ T・レックス。
恐竜の嫌いな男の子なんていない!ぼくだって夢中になったものだ。最初はブロントサウルスだった。ついで重戦車のようなトリケラトプス、そして剣竜ステゴザウルスだ。真打ちはティラノザウルスである。かって地上をこんな奇怪なのが徘徊していたとは!まず巨大である。異形である。獰猛である。進化のデザインとはいえ常識を逸脱した異様さである。ウンベルト・エーコの「醜の歴史」を持ち出すまでもなく「異醜だからからこそ美しい」、磁石のように引きつけて止まない怪しさに魅せられるのだ。食うためにのみ巨大化した頭部、恐ろしいまでに凶暴な歯列、取って付けたような異常に小さい前脚、おまけに指まで退化し鈎爪が二本だ。
…映画にも興奮した。いまや定番となったT・レックスと剣竜の闘い。これは「キングコング」だった。「地底探検」「失われた界」「恐竜グアンジ」これはウェスタンなのだ。T・レックスにカウボーイが立ち向かい投げ縄で生け捕ろうとする…。そして無茶苦茶な話しなのだが「恐竜100万年」…まあ、ラクエル・ウェルチの見事な肢体が売り物なんだが石器時代に恐竜がいるわけがない。そして「ジェラシック・パーク」と続く….。
化石だって凄い!いまだって博物館に行けば血が騒ぐのだ。「スー」の巨大な骨の化石を見て驚嘆しない者はいないだろう。この地上に君臨した王者たちはなぜ絶滅したのだろう。6500万年前、白亜紀末期、突如絶滅した。その頃われらのご先祖たち哺乳類は鼠くらいの大きさで恐竜たちから隠れながらコソコソ生きていたのだ。恐竜絶滅説は数多くあるのだが最有力は隕石衝突説である。
1980年、ノーベル物理学者のルイス・アルバレズ親子らは「直径10キロの隕石衝突が引き起こした環境変動」とする説を提唱、白亜紀と第三紀の境目の地層(K-T境界)から多量のイリジウムが見つかったのが論拠になった。イリジウムは希元素で地球には少ないのだが隕石には多く含まれているのだ。91年にはメキシコのユカタン半島に、直径180キロのクレーター「チチュルブクレーター」が発見された。この「チチュルブ衝突」が恐竜絶滅の原因ではないか?時期も一致する。しかしそれだけでは?という疑問も多いのだ。…恐竜、この愛すべき古生物。ぼくはアパトサウルスなんて呼ぶよりブロントサウルスと言いたいのだ!なぜ名前が変わったのか?それを科学エッセイの名手であり古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールドが「がんばれカミナリ竜・進化生物学と去りゆく生き物たち」で恐竜「ブロントサウルス(雷のトカゲ)」が「アパトサウルス(騙す、まやかすトカゲ)」に変えられてしまったお話しが愛情を込めて述べられている。ぼくは彼の本が大好きなのだ。でも02年に旅立ってしまった。… 「パンダの親指」「ニワトリの歯」「フラミンゴの微笑」「ダーウィン以来」「ワンダフルライフ」「人間の測りまちがい」「個体発生と系統発生」「時間の矢・時間の環」「嵐のなかのハリネズミ」「八匹の子豚」「干し草のなかの恐竜」「ダ・ヴィンチの二枚貝」「マラケシュの贋化石」「ぼくは上陸している」「神と科学は共存できるか」。…彼は5歳の時に博物館に連れていってもらってティラノザウルス・レックスを見た時「私はそんな物があるとはしらなかった。私は畏敬の念に打たれた」と後に振り返っている。彼の友人であり多くの科学エッセイやSF、科学啓蒙書残したカール・セーガンも逝ってしまった。そしてグールドがNHKのインタビューで語っていた。「セーガンは背が高いから天文学者に、僕は背が低いから古生物学者になったんだよ….」。彼のユーモアある豊かな人間性が偲ばれますね。