11/ 13th, 2011 | Author: Ken |
凸凹….????
11/ 11th, 2011 | Author: Ken |
あれレーッ!?
アレ、何かへんですねー。どこかおかしいですね。
11/ 5th, 2011 | Author: Ken |
見えるって不思議 … 不可能な図形。
モノを見るとはどういうことだろう。視覚とは外界からの光が網膜像から脳内で3次元構造に復元し認識することだろう。いや網膜像は2次元の平面だし、おまけに倒立像だ。どこかで自動処理をしているのだろう。見えるとは本当に不思議なことだ。錯覚、錯視というのもある。光と影、近くは大きく遠くは小さいという遠近感、焦点によるボケ具合、等々….。脳が、身体が、憶え込んでしまっているから自動的に2次元に描かれた画像や物体を3次元で感じてしまうのだ。スェーデンの芸術家オスカー・ロイテスバルトが考えた不可能の三角形というのがある。それを数学者ロジャー・ペンローズが考案した「不可能性の最も純粋な形」がある。そしてM.C.エッシャーの絵で様々に展開されて有名だ。この「不可能な三角形」これは2次元の「絵」では表現できるのだが通常の3次元空間では具現化できない。ただある一点(角度)から眺めた時にだけ見える3次元物体を作る事は可能だ。前に科学館で見た事がある。オーストラリアのパースには大きなモニュメントがあるそうだ。(しまった!上の絵の床をペンローズ・タイルにすればよかった)。
見えるって不思議だ。普段はまったく意識しないし当たり前のように感じているけれど、それって脳内のバーチャルを見ている訳?じゃクオリアって何?「あのリンゴの赤さ」とか「空は青い」とか主観的な質感だ。視覚・聴覚・触覚・嗅覚・痛覚・時間体験、それにその感覚を他人に対して体験言語化不可能だし、他者から観測できない個人的で私秘的なものだ。ぼくは宗教心なんて皆無だが、人間は古くからこの言葉にならないものを分類してきた。大乗仏教で言う六根・六境・六識の三範疇の分類や眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識という知恵の根源を探してきた。この世界のすべての物事は縁起、つまり相対的な現象なのだと。唯識説だ。おっと、だといって物理学の相対論や量子論と同じだといってはいけないね。科学は実験と実証、唯識は瞑想だから…….。まあ、ぼくには一生「悟り」なんて得られるはずもない。あれ、不思議な図形の話が妙な方向にいっちゃった。お許しを。
10/ 29th, 2011 | Author: Ken |
十月は黄昏の海。
微かに夏の名残を残し十月が終わろうとしている。もう感傷に浸る年代でもないのだが、人生を一年に凝縮したとしたら、ちょうど今の時期か!寂しさの果てなむ国ぞ…というセンチメンタルに襲われる。この寂寥感、やるせなさ、結構いいもんです。それを味わいに秋の山路?夕暮れの公園?
そう、ヴェルレーヌを口ずさみ….秋の日のヰ゛オロンの ためいきの ひたぶるに身にしみてうら悲し…なんて。
枯葉ならイヴ・モンタンもいいね、ビル・エバンスの名演もあるしマイルスかな? と言ってぼくは億劫者だから何処へも行きゃしない。想像だけで出かけるのです。どこがいいかな? ン、時空を超えて過去の浜辺へ。十月は黄昏の海か。だらしなく籐椅子に落ち込み、肌寒い陽の名残の長い光線を浴び、甘いワインを舐めながら、気怠く、ブラッドベリの短編の味を反芻し、手回し蓄音機から流れる歌に委ねるのです。曲は何がいいだろう? そうだ! What’ll I doがいい。アーヴィング・バーリンによって1923年に書かれた曲だ。確かC・ベーカーの「枯葉」のレコードに入っていた。
http://www.youtube.com/watch?v=0cEgIsNO8eQ
When you are far away And I’m so blue What’ll I do What’ll I do When I am wondering Who is kissing you What’ll I do……….
そうそう「華麗なるギャッビー」に流れていた。タイトルバックにデイジーの切抜きやフレームと重なりイメージが出ていましたね。「枯葉」は名演が多過ぎて困ってしまうのだが、あえてB・エバンス、そしてあまりにも有名なキャノンボール・アダレィとマイルスの名演、スリリングなMiles in Berlinも素晴らしい。….これはどう評価していいか分からないのもある(聴いた人は苦笑しないで)、怪演?奇演?あのクワイエット・ケニーのリリシズム溢れる?!ヴォーカルが聞けるのだ。
10/ 23rd, 2011 | Author: Ken |
彼は赤いジャケットで走り去った。
一着の着古したジャンパーがある。なぜか捨て去ることができないのだ。McGregor Drizzler:ドリズラー。この不思議な響きはDrizzle(霧雨)に対応するウォーターリペレント素材の名でゴルフ・ジャッケットであった。縦糸はレーヨンフィラメント、横糸ははコットン、織地はバックサテン。ゴルフ好きのアイゼンハワー大統領も着たことだろう。通称ドリズラーと呼ばれるのは両サイドのポケットにコードを入れたパイピングが施され、それが大きな特徴であり魅力なのだ。
それを一躍有名にしたのが1955年、ジェームス・ディーンの「理由なき反抗」だった。Leeのブルージーンズに真っ白なTシャツ、これはHainsだろう。そして真っ赤なドリズラーだ。映画ではNylon Anti-freeze・ナイロン・アンチフリーズだった。アウターシェルはナイロン・オックスフォード、ライニングはアクリルのボア。そのスタイルが生意気、ひねくれ者、ぞんざい、何ともカッコ良かった。アメリカ文化の象徴であり青春の蹉跌ですね….。
パックス・アメリカーナを謳歌していた50年代、そして冷戦とヴェトナム戦争の影が忍び寄る60年代、ジョージルーカスの「アメリカン・グタフィティ」は最後の輝きだろうか….。それをVAN Jacketがちゃっかり頂いてスウィングトップ(ゴルフの上着)名付け大当たりした。石津謙介先生、くろすとしゆき先生、やりますね。今はジャンパーと言う言葉も使われなくなり、フランス語のブルゾンとか、スポーツ系はウィンド・ブレーカーだ。
でも「理由なき反抗」も「エデンの東」も「ジャイアンツ」もジミーの映画は好きじゃなかった。何かコマしゃくれた面が厭でね。「暴力教室」のほうがずっと鮮烈だった。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を聞くだけで興奮しますね。
One, two, three o’ clock, four o’ clock rock. Five, six, seven o’ clock, eight o’ clock rock.
Nine, ten, eleven o’ clock, twelve o’ clock rock. We gonna rock around the clock tonight.
そうそう当時、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」もどこがいいのかよく分からなかった。今読み直していると、若者が「大人になって読んでは駄目だ!その年代で読まなくちゃ」。..… ウーン、多分ライ麦パンを食べ過ぎ、ライ麦ビールを飲み過ぎたせいだろう。
10/ 17th, 2011 | Author: Ken |
Duster Coat…世間という塵、人生という寒風に…。
世紀の塵を払って、いま蘇るダスターコート。
時は1930年代、当時のダンディ達はドライブに出かけるのも大変だった。
ダスターコートにゴーグルの重装備、ピクニックバスケットには、まあワインとサンドウィッチ。
それだけに夢もあった、ロマンもあった。時間もゆっくりと流れた。
ダスターコートには軽く機能的で防塵、防寒、最新の知恵が込められていた。
そして「これは素敵だ」と街でもビジネスにも着るようになった。
時代が忙しくなり、エアーコンディションが当り前になると忘れさられていった・・・。
だが、そんなコートが今あれば!という男が、どこかの蚤の市(たぶんポートベロー、
いやクリニャンクールか)で見つけてきた。そこで細部まで当時そのままに復活させた。
…祖父が残していてくれたらという人に、屋根裏の古いトランクに入っていたらという人に。
半世紀以上前そのままの姿で、洗いをかけた、まっさらの古着だ。
….だなんて。昔こんなコピーでコートを作ったのです。
実はポートベローで古着を物色していたら妙なコートがあった。無双仕立て(リバーシブル)、スカーフを止めるタブだの、ボタンを外しても前が広がらない仕掛けだの、コートの裾の内側に脚を通すベルトだの不思議なパーツがいっぱいついている。こんな汚い古着のくせに値段を聞くとトンでもなく高い。たぶん熱心にさわりまくっていたから足元を見られたんだろう。….一体なぜこんな仕掛けが?それを着て、とあるカフェで一杯飲っていたら、人の良さそうな爺さんがコートを指差し「ダスター・コート!あれは30年代だったぞよ。わしが若い頃このコートを着てマイバッハ・ツェッペリンやデユッセンバーグ、トライアンフ、ノートンに跨がってウェールズやノルマンディーの海岸を走り回ったもんじゃ」。とのたまう。ふーん、それでか!閃きましたね。ダスターコートか!日本に帰ったら早速…。爺さんに一杯奢ってやったら、お若いの「これは世間という塵、人生という冷たい風を防ぎ、愉しみを包むコートだ。大事に着なされ」。と詩人のような言葉でワイングラスを差し上げた。やるじゃない!…このアイディアを生かしてプロダクトした。なかなかでしたよ。何着ももっていたのだが、かろうじて一着だけいまも大事に取ってあるんだ。 ブランドはDunwood・Dunlop Masters製だ。
10/ 11th, 2011 | Author: Ken |
Box Art / Oldies and Goodies アメリカン・ドリーム
パックス・アメリカーナ…第二次大戦に勝利し超大国としてアメリカの全てが輝いていた時代。オールディーズ&グッディーズ、そこには人種問題も?貧困も?格差も?エネルギー問題も?核の脅威も?なく、楽天的陽気と機械文明礼賛とハリウッド的能天気が充溢していた。
敗戦国の少年としてGI(進駐軍)が捨てていった古本の「LIFE」「Seventeen」「McCall’s」「Esquire」「New Yorker」「TIME」などの雑誌は目眩く夢の世界だった。そのカラー刷りの広告にはシズル感たっぷりのステーキや輝くばかりの新車が妍を競って艶やか此の上なかった。まだ日本では木炭車や三輪のバタバタさえ珍しかったのだ。そして「スチュードベーカー」、この響きにはカルフォルニアの陽光とラッキーストライクとバーベキューの香りが立ち上るのだった。やがて冷戦の影が忍び寄り、朝鮮戦争、キューバ危機、ヴェトナム戦争、繁栄の裏側も知られるようになった。60年代、まだ雑誌はきらびやかな広告に溢れていた。
いまは無きPONTIAC・ポンティアック車の広告なんて!AF/VK、アート・フィリッツパトリック(自動車描写)とヴァン・カウフマン(背景描写)のコラボレーションによる イラストレーションはあまりにもカッコ良過ぎた。
http://www.fitz-art.com/home.htm …こんなの見ると僕の絵なんてとても恥ずかしいけれど。Studebaker champion 1950だ。それはアメリカのライフスタイルの理想なんですね。ぼくもこんなイラスト(レンダリングやパース:当時は筆による手描きだった。いまやレンダリングといえばPCの3Dだ)が描きたくって水張りケント紙にポスターカラーで随分努力したのだが…..。とてもとても描きゃしない。だって背景の生活感なんて未知の世界だものね。またDBBによるVW・カブトムシの広告もそのアイディアに脱帽したものだ。日本にもアドバタイジングという言葉が定着してきて広告業界の仕事は憧れの的だった。
…いまは半分後悔しているけどね……いつしかネット時代になり全てはPC作業、デジタルが空中を飛び交う世界だ。ぼくも毎日PCお相手にイラストレーションも大部分はPCで描くが、マニュアルを決して忘れないつもりだ。だってそうでしょう。手や指先で描けない人がどうしてモニターやタブレットやキーボードで描ける?….ぼくって古いのかしら
10/ 4th, 2011 | Author: Ken |
赤い帽子の娘
●
光と影、そしてパースペクティブ。不思議な事に日本の伝統絵画にはこの手法が見当たらない。水墨画による山水に遠近法は感じていたはずだし、また日本画家も花鳥風月には質感や立体感を持っていたはずだ。あの伊藤若冲のリアリズムにも影はない。
ところが幕末に西洋画法が輸入され知った途端、北斎や広重は極端なまでにデイープフォーカスを駆使しまくった。そして光と影の技法は明治期まで無かったのだ。この「陰翳礼賛」の繊細な美意識の国が…。…..知らなかったはずはないのだが…どうしてだろう?
まあ、現代は広角レンズや望遠レンズ、3Dからデジタル画像合成まで何でもありだ。
そこで光と影の画家、フェルメールだ。静謐で柔らかい光線は一瞬が凍りついたかのようだ。もの静かではあるが凛とした緊張感があり、まるで光と影が絵のために存在している。だから彼はカメラ・オブスクラを使ったのではないかと言われている。オブスクラとはラテン語で「暗い部屋」の意味。ピンホールカメラ、すなわち針穴写真機だ。また絵のフォーカスにピンの穴があり、それに糸を張りパースペクティブを求めたと言われている。
…TVで写真家・篠山紀信が「真珠の耳飾りの少女」の秘密を写真で解き明かすという番組があった。モデルをオーディションしオランダと日本のハーフのモデルを選び、当時の服装・小道具を用意し、古い洋館の北向きの部屋で撮影。でも瞳に窓の四角が映り込んだり、この角度では真珠に光は入らないから「これは嘘だ!」の絶叫など結構楽しめた。
そこでぼくもパスティーシュを試みることにした。モデルを雇う訳にも服装を用意する訳にもいかないから、わが娘に頼んだ。「恥ずかしいわ、遊んどらんと仕事しい」「まあ、そう言わんと….ターバンの代わりにこれ被って」。撮影、ペインターとアクリルカラーと面相筆で…。
安易ですね。恥を知りなさい!でも楽しいですね。フェルメールの贋作者、ハン・フォン・メーヘレンになった気分だ。
彼は何とあのゲーリングに贋作を売ったことでも有名だ。いや、贋作では無く作風を真似たのだ。だから彼の創作じゃないのか?
http://www.mystudios.com/gallery/han/forgeries.html
と、言っても有名な「エマオの晩餐」は緻密じゃないし、あんまりフェルメールには見えない。むしろ下手だ。「楽譜を読む婦人」と「音楽を奏でる婦人」はあまりにもフェルメールが過ぎる言うか!いやいやどうしての筆力である。
フェルメールの絵には何か安らぎを感じるものがあるんですね。同時代のレンブラントには人間の本質が見え過ぎるから恐いのです。自画像には老い痴らい零落した自分を冷酷に見つめる自分があるんだ。それをまた見る自分、この客観視が凄いのだが…。
●映画「真珠の耳飾りの少女」2003年イギリス、小説はトレイシー・シュヴァリエ、木下哲夫/訳:白水社、はベストセラーになった。また「ヒヤシンスブルーの少女」スーザン・ヴリーランド/長野きみよ/訳:早川書房。
そうそう「ターバンを巻いた娘」マルタ・モラッツォーニ/千種堅/訳:文藝春秋、これが秀逸なのだ。イタリアの女流作家の短篇集なのだが、芳醇でミステリーが絵画的で女性作家らしい微かな不安と心理、そして微妙な味わいがある。お話はデンマークの貴族にあるオランダ商人が小さな絵を売る。時は過ぎ貴族は亡くなりその娘から手紙が来る。「….少女が振り向いた顔を見せ、頭はターバンで、耳に真珠をつけております」。お洒落なオチですね。
9/ 26th, 2011 | Author: Ken |
Nose Art/「フライヤーたちのヴィーナス」。
飛行機乗りのヴィーナス。そう、主に第二次大戦のアメリカ軍用機に描かれた美神たちだ。殺し合いの道具にピンナップガールや様々なアイコンを描いたのをノーズアート・Nose Artという。いかにもアメリカ人らしい発想でエスクアイア誌なんかの折り込みページのアルバート・バーガスやピーター・ドライベンが描いたセクシーなバーガス・ガールの絵をみて、ちょいと絵心のあるやつが、そいじゃオイラが描いてやろうと故郷の恋人や女優を機体の愛称にしたのだ。もちろんA-I、A-2やB-3ボマージャックにもド派手なのを描いている。
その下手さ加減が何ともいいんだ。わが帝国陸海軍は「かしこくも陛下よりお預かりした…..」で、とてもそんなものは描けなかったけれど、しかし末期には勇気を鼓舞するために稲妻や矢印、虎の絵なんかを描いている。
古くは第一次大戦のレッド・バロンことリヒトフォーヘンの真っ赤に塗られたフォッカーDr1やギンヌメールのコウノトリが始まりだろう。日本では加藤隼戦闘隊で有名な胸に描きし赤鷲の…か。そしてフライングタイガースの機首に描かれたシャークマウス、これはヴェトナム戦争のF4ファントム、現代ではゴツい地上攻撃機A-10まで続いている。
まあ、殺戮道具に陽気な絵を描く神経は日本人の考えとは相当に隔たりがある。アメリカのエスクアイア誌の初号(1934年)から戦前戦後のバックナンバーの殆ど見た事があるのだが、あの30〜40年代にその贅沢さ、ファッションのカッコ良さといったら…、華麗なるギャッビーを彷彿させるのだ。戦前に豪華な車、冷蔵庫、テレビ、ゴルフ、テニス、イブニングパーティ、カクテル….。フェローズの描くファッション・ページを見ただけで「ああ、こんな国ととても戦争なんてできゃしない」と思ってしまう。当時の日本人のホンの一部を除いてエスクアイア誌なんて知らなかったし(20年代からのモボモガ新青年も30年代になると戦時色に塗りつぶされていく)、たとえ見たとしても「アメリカは贅沢に慣れ怠惰である。色情に溺れ困難に打ち勝つことができない弱兵である…」。
硬直したこんな科白を本当に吐いていたのだから、その世界観たるや。だからB29のノーズアートを見ても、戦争に真面目さが足らん!と怒ったのじゃないだろうか。いまじゃもう、アメリカでSUSIなんか食ってる連中ね、SUSIはヘルシーでオシャレでインテリジェンスがあるなどと宣う。またN.Y.の街や地下鉄は一頃、落書きだらけで恐ろしく汚かった。それもアートだとさ。隔世の感がありますね。
9/ 17th, 2011 | Author: Ken |
Box Art 「空飛ぶホテル」
あれは僕が小学校に行く前だった。朧げで遠い微かな記憶を手繰っていくと、デザインの原点に行き着くように思える。男の子の通例として機械のメカニズムやダイナミックなものが好き。好きだから絵に描いたり模型を作ってみたい。それは到底手が届かないものを現実に引き寄せ、たとえ絵であって模型であっても所有することによって憧れの飢えを満たす行為なのだろう。当時は満足な紙や鉛筆さえ無かった。親が不憫に思ったんだろうね。安物のハトロン紙全版を与えてくれてそれに絵ばかり描いていた。
そして西宮で開かれた「アメリカ博覧会」1950年 http://www.youtube.com/watch?v=M42FSkgK6OI に連れて行ってくれた。ああ、目くるめくとはこのようなものだ。まるでパノラマ島奇談だ。驚異!感動!好奇!かっこイイーッ!目をパチクリ!オシッコが漏れそうだった。かすかな記憶の底にナイアガラ瀑布だのブロンディの家なんかがあったように思う。そしてカラフルなスチュードベーカーやポンティアックがあって、運ぶ時にぶつけたのだろうかフロントが滅茶苦茶になった車が飾ってあった。夢の夢の車がもったいない….。もう一つB29のライトR-3350サイクロトン・エンジンのカットモデルが。ふーん、星形エンジンとはこんなふうに….。
極めつけは原型がB29のボーイング 377 ストラトクルーザーだ。超空の巡航機「空飛ぶホテル」その名にふさわしく超豪華で、2階構造、ベッドがあり(当時の言葉で寝台と言いたいね)、男女別の洗面室、また、1階客室にはバーやソファ付きの豪華なラウンジがあったのだ。そうだ、1954年にM・モンローと元大リーガーのJ・ディマジオが米兵の慰問をかねてハネムーンで来日した際の飛行機だ。
ああ、アメリカ博覧会、ストラトクルーザー、なんて、なんて、カッコいい!アメリカ万歳!まだデザイン(日本では図案と言っていた)という言葉も知らなかったけれど、なんて贅沢で豪奢で、カッコいい(デザイン)なんだ。ぼくも大人になったらこんなカッコいい仕事をしヨ!….そうしたらレイモンド・ローウィが日本の煙草「ピース」のデザインをしてね。濃紺に金の鳩だ。(ノアの箱船をイメージしたのでしょうね。戦後復興を鳩とオリーブの枝に)当時ギャラが150万円!信じられない!たった箱一個パッケージがだよ!敗戦後の国民が食うや食わずの生活に追われていたニコヨン(失対事業として1日の労賃が240円)時だ。今だったら数千万円?…いやこの平成窮塞のPCで形だけのデザインならせいぜい15万ってとこか!!…嘆息。
…子ども心に思ったものだ。デザインだ!(果たしてこの道が正しかったのだろうか?)何となく後悔もありますね。
そんな古い事をなぜそこまで憶えているかというと、あまりの衝撃にボーッと夢見てたんでしょうね。今思えば帰りに今津駅の乗り換えでぼくは迷子になってしまったのだ。メソメソしていると駅員さんが剣玉で遊んでくれた。小一時間くらいして慌ててお袋が迎えに来てくれた。……いつか飛行機に乗りたいなーッ!そうしてやっと海外旅行に行けるようになった。もう時代はジェット機でボーイング707やダグラスDC-8だった。でもその原点には夢のストラトクルーザーがあった。それを描いてみた。機体は絶対にパンナムでなければならないんだ。PANAM…その響きは憧れの言葉。みなさんも覚えがあるでしょう。昔、航空会社がくれるフライトバッグ。ビニールの安物なんだが輝いていましたね。そうそう、アメリカから帰る時、日付変更線を超えるとスチュワーデスが振り袖に着替えて、お寿司とお蕎麦なんかが出ましたね。洋モクや洋酒を限度いっぱいまで買い込んでね。それにしても現代の空の旅は味気ないね。
「空飛ぶホテル」なら「エコノミークラス症候群」なんか知った事か!ですね。