1/ 17th, 2011 | Author: Ken |
パワースポット探訪記。
正月より風邪気味である。何か熱っぽく脳が揺らめいている。友人の岡噺氏が「そんな時はパワースポットへ行こう」!
「霊験あらたかである」と宣うではないか。そこでいそいそと出かける次第と相成った訳だ。かって城東線と呼ばれアパッチ族が跋扈していた地帯を過ぎ大阪は玉造に降り立った。冷気厳しきなかを歩く程に身体は恐ろしく寒いのに灼熱のプルコギのようなオーラを感じるではないか。病気で衰退した精神感覚が異常なまでに繊細になり沈鬱な魂が移ろいやすくも過敏症的に反応するのであろうか。
鼻腔粘膜にこびりつくようにテッチャン、ギョーザ、オコノミソースの微かなアストラル体が忍び込むのである。怪しげな一角に立つと強烈な霊気は増々昂りドアを漏れ来る圧倒的オーラの奔流である。大きく息を吸い込みドアを開けた。暗闇に眼が慣れるにつれ赤き馬、黒き馬、青ざめた馬が走り出、バスカビルの猛犬の爛々たる炎のような眼が射抜くように迫ってくる…..。ム、ムッ…。教祖、
霊媒、巫女、チャネラー、ヒーラー、呪術師、おばちゃん、おかん。何と呼ぼうと勝手だがこの圧倒的放射霊気は何だ!強烈なマニトゥだ!…パナ・ウィッチ・サリトゥーという言葉が思わず口をついた。心を落ち着け、まあとりあえず特殊な発酵菌作用の霊水を飲む。
ホメオパシーが五臓六腑に染み渡るの。大根に滲み込んだレメディ、ニラとニンニクの黒体輻射、タ二スの香りのするプレアデス星団風酵母菌の最強ホメオパシーを試す。何と!あの寒気に震えていた体が芯から暖まってくるではないか!これか!オーラか!眼が血走るのはキルリアン発光か!いやいやシータ波と宇宙波動である。信じるものは救われるのたとえ通り。俗世間を騒がすスピリチュアル系も真ッ青である。彼らスピ系の言葉を借りるなら(物理学用語を何の衒いもなく無邪気に使うネ)量子飛躍、いや魂のチェレンコフ発光であろう。タマツクリ解釈によると量子のタングルメント状態が意識による収斂であると….。ただしこのホメオパシーも過ぎると気分が悪くなりエクトプラズムを口中より発する(世間ではゲロというそうが)。……理性のゆらぎというより単なる酔っぱらっているのである。ほいほい、良い子は水に有難うと言いましょうね。心優しき大人は焼酎にゴッツアンですと感謝の気持ちをね。
★なーに、玉造・真田山公園の居酒屋「風まかせ」に酔狂にも飲みに行ったお話、それだけである。亭主寛子さんの歓待ぶり、他のお客様も心安く和気藹々、お値段も超リーズナブル。大阪に行ったらお薦めですよ。http://fanto.org/kazemakase.html
1/ 13th, 2011 | Author: Ken |
百億の昼と千億の夜
寄せてはかえし寄せてはかえし かえしては寄せる波の音は何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた…。
時というどうしようもない存在。それがあらゆるもの宇宙さえもすり減らし崩壊させてゆく。絶頂を極めた科学文明も宇宙都市も星間技術もあまりにも儚いものであった。ある種族はおのれを一片のデータとして乗り越えようとした(人を、DNAを、脳を、1000億のニューロンを、記憶を、それらをスキャニングしシュミレートすると10の17乗桁の二進法メモリーを必要とするというが……)。
デジタルの夢? これも生物か? これが生きていると言えるのか? 幸せなのか? 人間なのか? また仏教でいう三千大千世界、弥勒は56億7000万年後この世に下生し衆生をことごとく救済すると言うのだが….。その時は山や谷もなく鏡のように平坦であるという。これはエントロピーの無限の増大、すなわち宇宙の熱的死なのか。…..そして無窮の空間も絶対ではあり得ない。いや宇宙は永遠に生滅を繰り返し、それを司るが『シ』であると。滅ぼすもの『シ』と抗う「阿修羅王」。絶望という言葉さえ虚しく響く終わりの無い戦いに挑み続けるのだ。….
一切は流転し縁起即ち相対的関係の変化だけが存在を決定させる。固定的実体は無く変転そのものが実体であり相なのだ。
自我即空、色即是空なのだ。…おのれを空しゅうするところに思惟はあっても感覚はない、感覚のないところに認識はない。「だが解らぬ、すでに肉体に帰着するはなく、しかもなお眼前の非情は何ぞ!」。
….あの天平時代に名もなき仏師が作った興福寺の阿修羅像、少年を思わせる顔貌、その憂いをおびた眉、彼の眼は何を見つめているのだろうか。永劫の時の流れの向こうに存在するかもしれない何かのおぼろげな姿を見つめているのだろうか…….。
……『シ』はどこにあるのか、真の超越にいたる道はいったいどこにあるのか。とつぜんはげしい喪失感があしゅらおうをおそった。
進むもしりぞくもこれから先は一人だった。すでに還る道もなくあらたな百億の千億の月日があしゅらおうの前にあるだけだった。
●「百億の昼と千億の夜」光瀬龍の描く宇宙叙事詩は壮大だ。漠々渺々の時空を硬質の文体が構築していく。阿修羅王、悉達多太子、弥勒、ナザレのイエス、そしてプラトン(おりおなえ)が繰り広げる世界観は、東洋哲学的でありながら、世の東西を越え何かジョン・ミルトンの「失楽園」を彷彿させる。神々の超次元宇宙を統治するする創造神ヤハウェに反逆するルシファー。しかし反乱軍は敗れルシファーは宇宙の果ての星たちの墓場(光さえ失われたというからブラックホールか?)に堕される。漆黒の闇を漂いながら新たな叛乱を目論むのだ。そしてルシファーの人間に対する嫉妬、謀略により人間は楽園追放に至る。しかし人間はその罪を甘受し楽園を去る。
….それ以来、知恵、知識を持った人間、ここ百年足らずの間にも、おのれすら、人類すら絶滅させれる核兵器を作り上げた。同類への不信のために?おのれの過信のために?知恵は知識のなかに埋没し、絶対悪である核兵器すら誇示しているのだ。…..愚かさの極みである。
1/ 1st, 2011 | Author: Ken |
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
2011年/元旦
株式会社ケン・プロダクション
吉本 研作
12/ 26th, 2010 | Author: Ken |
回文
毎年気の効いた賀状をとは思うのですが難しいものですね。
俳句の一つでもと捻ってはみるのですが…。そこで日本語には素晴らしい”言葉遊び”がありますね。
そう、回文なんかもその一つ。つまり上から読んでも下から読んでも同じ言葉。
ン、これだ!と早速作りにかかったのですが、これは!というのはなかなか出来ないものです。
江戸時代に正月の七福神を詠んだ有名なのがあって
“長き夜のとうの眠りのみな目覚め波乗り舟の音のよきかな”
(ナガキヨノトウノネフリノミナメザメナミノリフネノオトノヨキカナ)
また素敵なのに ”月のもと清しといえば冬の夜の夕ばえいとしよき友のきつ”
(毛吹草追下、鈴木栄三編・ことば遊び辞典より)があります。格調高いですね。
とてもここまではと悪戦苦闘、難解はイカンナと思いつつ、なんとか作ってみたのですがお恥ずかしい。
“見よ逆さ回文は半分以下さかさ読み”(ミヨサカサカイブンハハンブイカサカサヨミ)
単身赴任の寂しさを….”秋刀魚焼く夜や泣くな子猫鳴くなやるよ悔やまんさ”
(サンマヤクヨルヤナクナコネコナクナヤルヨクヤマンサ)
報道写真展に行って…..”世界を見しな彼の児 写真家に感謝しこの哀しみを生かせ”
(セカイヲミシナカノコシャシンカニカンシャシコノカナシミヲイカセ)
”イラクも酷なとこよ夜ごと泣く子も暗い” (イラクモコクナトコヨヨゴトナクコモクライ)
忘年会で….”酔いなはれ それ聞けオラが唄うカラオケ 切れ それはないよ”
(ヨイナハレソレキケオラガウタウカラオケキレソレハナイヨ)
師走の街で…..”世話悪しき世の問いに言う、反省せんは有為に人の良き幸せ”
(セワアシキヨノトヒニイウハンセイセンハウイニヒトノヨキシアワセ)….何のこっちゃ、意味がわからん。
大晦日に朝まで飲んで…..”今朝の雪グラス安らぐ旧の酒”(ケサノユキグラスヤスラグキユノサケ)
….少しは雰囲気出てきたかしら。
エエイ面倒だ!正月行事を全部詠み込んでしまえ。….
”屠蘇は匂い粥美味いよ、新年年始、酔い舞う愉快、鬼は外”
(トソハニオイカユウマイヨシンネンネンシヨイマウユカイオニハソト)
お粗末さまでした。それではよいお年を。
12/ 23rd, 2010 | Author: Ken |
心をうつした画
「イエズス、我等とともに」イタリアのマリオ・バルベリスの画集は美しい。コンテで描かれ、装丁も簡潔であり、質素であであるがゆえに、敬虔な深情がにじみ出している。心をうつした画そのものである。
序には「神への奉仕に捧げ、同時に兄弟たる人間に奉仕することを、念願とした。彼は、福音書に書かれているイエズスの、超自然性と神秘の面だけでなく、人間の一人としての「彼」を描き出したかった。時々刻々、絶えることのない闘争、困苦、歓喜の中に、イエズスは、我々人間とと共に、我々の兄弟、友人として存し給う。その御声、その涙、その微笑は、そう考えることによって、よりよく理解される。とある。
群衆とともにあわれみ、電車の中で、貧しき人々と、みすてられた人々とともにのイエズスを描いている。直接的な表現だがセピア色のコンテのタッチが画家の純粋な心を表現して余すところがない。この画集は半世紀以上も前に貰ったものだ。わたしは信者じゃないけれどページを繰る毎に優しさと慈愛に満ちた画家の心情を感じてしまうのだ。
●「イエズス、我等とともに」画と文 マリオ・バルベリス 訳 緒方壽恵 ドン・ボスコ社 1951年
しかし必ず死すべき運命にある人間、生きる上での様々な苦悩、生をある自己存在の不安、死という絶対孤独….。それらを慰撫する存在として「神」の概念を創り出した人間、それは素晴らしい文化である。地球上に神のない文化は存在しない。しかし現代の自然科学とテクノロジーというものが「神」存在を脅かしている。この不安感…だからこそそれを超えた超自然や怪しげなことにハマるのだろうか。人間の根源的な心情が生み出した文化としての宗教、哲学としての神、それは認める。….けれど奇跡は信じない。
有神論、理神論、自然神論、不可知論、宇宙科学の人間原理も何か違和感が伴う。むしろ無神論だ。この辺は欧米のキリスト教が文化の根底にある世界と日本人の曖昧無宗教とでは根本的に違う。もちろん八百万の神は神話の類いだし新興宗教や現世利益の神々なんてとても考えられない。街はジングルベル一色である。そして大晦日は百八つの煩悩を払う除夜の鐘だ。一夜明けると「おめでとうございます」これは神道か、十日になると恵比寿さん。いやお稲荷さんも….。インターネットやハイテクが当たり前の現代、しかし人間そのものは数千年、いや五万年前から変わってはいない。この世に於けるうたかたの存在?これは尽きる事の無い人間の業なのだろうか?
12/ 16th, 2010 | Author: Ken |
モンクス・ミュージック…此の1枚。
不協和音的不思議なハーモニー、特異なリズム感覚、頻繁なテンポチェンジで不安定な繋がりのフレーズ、前衛を漂わす革新性…。
セロニアス・モンクを始めて聞いたときには決して耳慣れした心地よい音楽ではなかった。奇人、変人?ビバップの創始者の一人でありジャズの巨人であるのだが、ピアノという楽器がまるで打楽器のように聞こえた。そのユニークさを理解できなかったのだ。
ところが1963年のコンサートに行った。ライブで体感すると驚愕だった。恐ろしくスィングするのだ。聞いているこちらが足を踏み鳴らし体が揺れ動いてしまう躍動感がある。モンクもソロが終わると舞台を体をゆすりながら歩きまわる。ジャズとは体感の音楽であるとその時分かった。そしてヴォーカリストが現れた。超肥満体のニコニコ顔のオジさんだった。ジミー・ラッシング、それまで名前すら知らなかったのだが、そのスイングすること!ジャンピンテンポの軽快さとバラード、モンクとブルーズがこんなに合うなんて! それ以来モンクとラッシングのファンになった。ジャズをだんだん知るようになり古いレコードを聞き出した。
あの25歳で夭折した天才ジャズ・ギタリスト「ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン」(1941・5・12)太平洋戦争が始まる年だ。
「Swing To Bop」を聞いたときの悦びったら、なんて凄い!ぐいぐいドライブし牽引するのだ。若き日のディジー・ガレスピー、ケニー・クラーク、セロニアス・モンク、ドン・バイアス等、後の巨人達が演奏しているのだ。録音状態を悪く、途中から入るのだがこんな演奏なら一晩中聞いていたい….。そしてモンクが来日する度に行った。サインももらったのだがどこへ行ったやら….。
“Brilliant Corners“ (1957)この太いサウンドを聞いてみろ。 “Monk’s Music” (1957)最初の曲Abide with Meから何で賛美歌なんだ?
そしてWell You Needn’t Rubyあの有名なモンクのコルトレーン、コルトレーンという叫び。驚いたブレイキーのドラム・ロール。コルトレーンのソロ。この緊張感、破れかぶれにも取れる大胆さ。奇妙な喧騒感に満ちシリアスで迫力ある演奏….。「Epistrophy」重厚なアンサンブルの異様な迫力、ぼくの一番好きなモンクがある。これぞモンクス・ミュージックなのだ。モンク作曲あの「panonika」。比類ない美しさをたたえた「Round About Midnight」それだけで彼の偉大さがわかる。とあるバーの片隅でカウンターにもたれて一人で浸りたいものだ。
おっと、ぼくは酒に弱いので「Straight No Chaser」とはいかないが…..。思い出す「真夏の夜のジャズ」(1958)バート・スターンのキラキラするヨットの映像とモンクの音の重なり「blue monk」だ。
●Monk’s Music (Riverside)
Thelonious Monk (p) Ray Copeland (tp) Gigi Gryce (as) Coleman Hawkins (ts) John Coltrane (ts) Wilbur Ware (b) Art Blakey (ds) Jun. 26, 1957, NYC
12/ 13th, 2010 | Author: Ken |
静かなるケニー……此の1枚。
マイルスのように創造性と革新性に満ち、時代を画したトランぺッターではない。ブラウニーのように輝ける音色と華麗な旋律があるわけではない。ガレスピーのような超絶技巧とユーモアがあるわけでもない。実力はあるのだが何故か地味であり花に欠けるのだ。しかし彼がいたからこそジャズシーンが幅広く豊かになり、その機微に触れることはこの上ない悦びになるのだ。そしてケニー・ドーハムの切々と訴える叙情には聴くものを捕えて離さないものがある。ビバップの創成期から活躍しマイルスも自伝で「駆け出しのころジャムセッションに出た。吹き負けたけどな、ケニー・ドーハムに」と語っている。
クワイエット・ケニー「ブルー・フライデイ」(1959)恋人が去っていったのだろうか、大都会の夜に孤独を噛み締めているのだろうか、暗い金曜日を哀切に唄うのだ。ほら何か胸が重くて眠れない夜、人恋しさに叫びそうになるとき、哀しいのに、そんな自分がなぜか可笑しい。そんな気分に陥ったことはありませんか?それがブルーに取り憑かれたときです。色で言えば様々な青、カインド・オブ・ブルーなのです。そう、ブルーな心の歌がブルーズである。ひしひしと心にせまる憂いである。続いてトミー・フラナガンもリリカルに唄う。こんなに曲に浸ることができる。これぞジャズなのだ。ベースはポール・チェンバース、ドラムスはアート・テイラー、当時を代表するミュージシャンである。
またジャッキー・マクリーンを加えた「エル・マタドール」も必聴のレコードである。マクリーン作曲、彼の娘に捧げた「メラニー・フォー・メドレー」、二人の掛け合いがすばらしい。そしてレコードでしか味わえなかったケニーのトランペットが日本にやって来たのだ「ジャム・セッション」(1964)と銘打ち、またそのメンバーの素晴らしいこと!
ケニー・ドーハム(tp)、フレディ・ハーバート(tp)、ジャッキー・マクリーン(as)、ベニー・ゴルソン(ts)シダー・ウオルトン(p)、レジー・ワークマン(b)、ロイ・ヘインズ(ds)。
何と!なんて贅沢な!舞い上がりましたね。下の写真がその時のプログラムである。
★ケニー・ドーハムの怪演?がある。何と!彼のヴォーカルがあるのだ。曲は「枯葉」、ウーム、何と評価すればいいのか。
12/ 10th, 2010 | Author: Ken |
ソラリス、至高のSF。
真紅と激青の光を放つ二つの太陽、その連星に惑星ソラリスがある。二重星の複雑な重力による不安定なはずの惑星軌道が何故か安定しているのだ。どうやらソラリスの海は一つの生命体であり高度の知性を有しているらしい。交互に訪れる赤い日と青く鮮烈な夜明け。菫色の大気、海からフレアのように吹き上がる想像を絶する巨大で不可解なオブジェ、海が擬態形成を行い実態化させているのだ。
いったい何が目的か、果たして意思があるのだろうか。何十年にも亘る観察も様々な仮説も何ら答えを得られない。ソラリスの知性とは何なのか?未知の生命とのファースト・コンタクトを描いているのだが、人間という基準尺度からは理解の片鱗さえ窺えない隔絶した生命体である。プラズマ状の“海”はひたすら変貌し人間を嘲笑するかのように擬態を繰り返す。
観測ステーションに男が降り立った。荒廃した内部、先任科学者たちの異常な行動。やがて男の前に十年前に自殺した恋人が現れる。そんなことはあり得ない。男は恋人の形をしたものをロケットで宇宙空間に放出する。ところが何事も無かったかのようにまた恋人が現れるのだ。どうも海は人間の最も奥深い潜在意識と記憶の奥津城をスキャニングし擬態化しているらしい。海は脳に秘められた希望や心の傷を読み取りその処方箋だけ作り出しているのか。
人間の脳、本来そこには言葉や感情といったものは一切ない。記憶とは分子の不同時性結晶の上に核酸で書き込まれた一種の絵なのだ。思い出も心の痛みも脳内の科学的・電位的変化でありわれわれはその幻想を実態と思っているのだろうか。…….恋人は激しく自己存在の意味を問う。「私はあなたにとって何?本当に私を愛しているの?」男は過去の罪の意識、悔恨に対峙し贖罪を求める…。彼女は液体酸素を飲み自殺を図る。しかし眼前で再生し復活するのだ。
男の心のなかに彼女への愛が強まり無くてはならない存在となっていく….。そして一連の実験の結果、彼女は消えた。しかし待ち続ける自分がある。….私は驚くべき奇跡の時代はまだ永遠に過去のものとなってしまった訳ではないということを固く信じていた。完
レムは解説でこう述べる「未知のものとの出会いは人間に対して、一連の意識的、哲学的、心理的、倫理的性格の問題を提起するに違いない」と。….人間と隔絶した異次元の存在。結局、人間は人間の思考を超えられない。それは鏡に映った自己を追いかけ続けているのだろうか。…..寄せては返し、寄せては返し、たゆたうソラリスの海………..。
● 「Solaris・ソラリスの陽のもとに」原作:スタニスワフ・レム 飯田 規和/訳 早川書房 いま読み返してみると宇宙科学やハードなツールなどは古めかしいが、それを超えてコンセプトが重い輝きを放つ。至上のSFである。
● 「ソラリス」アンドレイ・タルコフスキー監督(1972年)原作の意図とは違うタルコフスキーの映画だ。レムは「タルコフスキーが作ったのはソラリスではなくて罪と罰だった」と言ったそうだ。しかしエンディングの美しさは圧巻である。
● 「惑星ソラリス」スティーヴン・ソダーバーグ監督(2002年)これは恋愛映画か?
12/ 4th, 2010 | Author: Ken |
正史 vs. 乱歩
横溝正史と江戸川乱歩。この二人の対決は金田一耕助対 VS.明智小五郎とも言える。二人とも戦前戦後にわたってライバルであった。
金田一は雀の巣みたいな頭にお釜帽、褪せたセルの袴に下駄履きといっただらしない出で立ちで、推理に集中すると頭をグシャグシャかき回す。……方や明智は最初はダサイ書生スタイルであったが洋行してからS・ホームズの影響かスーツ姿の紳士になった。サヴィルローで作ったのか?探偵を比較するのも楽しいがやはり両者とも日本生まれであるから西欧的合理主義と帰納的かつ演繹的推理は泰西の探偵に比べれば甘い気がしますね。だって状況証拠じゃ裁判に勝てないもの…。
そして怪人二十面相はリュパンのイメージそのもだし、少年探偵団はベイカーストリート・イレギュラーズからのいただきだ。まあ文句はこれくらいにして乱歩の面白さは発想・アイディアの斬新さである。思いつくままに「人間椅子」暗闇で厭な感触のものに触れたような不快感と何か生理的にザワザワさせますね。「屋根裏の散歩者」覗きの世界と快楽。「火星の運河」深閑とした暗い森の奥に黒く重い池、その真ん中の島にいる私。体を切りさむ運河のような傷口から鮮血の赤。この妖しき耽美的自虐美。「虫」ウェーッ!」「芋虫」陰残、最近の映画の予告編を見ただけでげんなり、何か制作意図がポルノでたぶんに反戦なんてクサいものを持ち込んだんだろう。見ていないので偉そうには言えないが映画の金を払うのは俺だぜ。……「鏡地獄」いまならCG、3Dでもっと凄い。
「押し絵と旅する男」蜃気楼のような異次元とフェティシズム。「パノラマ島奇談」今のテーマパークに乱歩が行ったとしたらこりゃパノラマ島以上だ?「防空壕」東京の夜間空襲下、ネロ皇帝が見たような都市の炎上、その興奮と美。逃げ込んだ防空壕での出来事、奇妙な味の短編である。ああ切りがない…..乱歩の功績として海外ミステリーのアンソロジーが素晴らしい。「世界短編傑作集・1〜5」世界の珠玉の短編セレクトの眼、さすが乱歩。ウォルポール「銀の仮面」なんてこれで知った。
そしてミステリー歴代20傑(エラリー・クイーン編20傑もいいですね)納得です。横溝正史となると「本陣殺人事件」「獄門島」「八墓村」「真珠朗」….その他短編も結構読んでみたのだが何か記憶に留まらないのですね。やはり正史には生真面目さがあって乱歩のような奔放な飛躍がないのですね。でも日本の田舎の因習や人間の欲望とおどろおどろ感、ネクロサディズムと極彩色の美、…..仮面に隠れた本当の顔は?….映像的ですね。
このあいだ「乱歩と正史」の講演会に行った。…..もうぼくは乱読の楽しみだけにしておこう。あの人たちの詳しさと豊富な資料、作品の読み込みには所詮敵いっこないんだから。
11/ 30th, 2010 | Author: Ken |
乱歩と正史
横溝正史生誕地碑建立6周年記念イベントがあった。主宰は神戸探偵小説愛好曾、代表の野村恒彦氏、講師として名張市から探偵小説研究家の中相作氏が「横溝正史と江戸川乱歩」について語った。まあ、その詳しい事!よくそんなことまで調べましたね!ぼくも自称探偵推理小説なら少しはと身を乗り出すのだが、とてもとても…。
乱歩と正史、読んで字のごとく乱歩の作品は揺れが大きくて乱れている。方や正史は正当派探偵推理小説を目指していた。乱歩の方が一回り年長で、お互いが友人でありライバルであり批判家であり戦前・戦後に亘り巨頭であった。乱歩はアイディアにすぐれ独特のエロティシズム、サディズム、マゾヒズムと異端の美意識や不気味な味を狙った。それは大正から昭和初期にかけてのエログロナンセンス、モボモガの時代風潮、戦争の足音が近づく束の間の享楽の時であった。正史も時代の児である。ネクロサディズムや腐乱死体、屍体愛好癖の犯人など残虐嗜虐趣味の作品が多い。両者とも屍体、義眼、奇形、異常人格など人間に潜む異様性を好んだ。
正史は特に日本の地方田舎にまつわる因習やおどろおどろした不気味さを背景に、日本的陰残さと美意識を根底とし独自の世界を創り上げた……。
また明智小五郎と金田一耕助、この二人の探偵もS・ホームズを始めとする欧米の合理的で怜悧な脳細胞探偵とは少し趣きが違う。それは背景としての文化の違いで、日本では密室なんて設定は難しいし、論理より情緒、普遍性より因習、乾より湿、洋服より和服、靴より下駄の時代であったから「日本的あいまいさの文化」にスタイルを載せたのである。また欧米の推理小説自体がほとんど翻訳されていなかったし、洋行なんてホンの一部の人しか出来なかった。しかし乱歩や正史は洋物を翻訳し読んでいたからこそ、日本風土にあわせた独特の推理探偵小説世界に遊ぶ事ができたのだろう……。誰か戦前に於ける探偵文化論を書いていないだろうか?
写真の二銭銅貨煎餅は乱歩誕生の地名張のお土産である。講演の後みんなで横溝正史生誕地碑を見にいった。夕闇迫るなかメヴィウスの輪からヌエのような怪鳥の叫び、サーカスのジンタの響きが聞こえた気がしたが、気のせいか、果たして……。