8/ 21st, 2010 | Author: Ken |
健康のためなら死んだっていい!
癒しがブームである。そして健康のためと称するグッズやヒーラーたちが「効く!」と大宣伝である。健康食品やら体にいい事ずくめ、メタボに、血がサラサラに、肩こりがと、磁気ネックレスから呪術師まで満艦飾である。全部試したら不死身になりそうだ。誰だって健康でいたい。長生きもしたい。髪の毛もほしい。健康願望には限りがない。未だにゲルマニュウムとかラドン温泉なんて自然放射能浴びていいのだろうか。そして怪しげで面妖な健康法って肉体的にも精神的にも不健康極まるんじゃないか?
また日本人の腸は西欧人より長い?。…根拠の無い孫引き大会。短いというデータもあり個体差でしょう。明確なデータが欲しいものです(そんな研究者いますか?)。こういう都市伝説を吹聴するのはいかがなものか?というより無知と偏見を曝すだけだ。
さるメーリングリストで最近「波動」やら「ヒーリング」なんぞがホンモノだインチキだとかまびすしい。前にも「六本脚の鶏」なんて話で騒いでいたから僕の飼っている14本脚の鶏を見せてあげたら静かになった。こんな話はお酒の席では大好きなので参加したいのは山々なのだが、あまりの馬鹿々さに白けてしまうのだ。こんな論議をいくら繰り返しても無駄でしかない。
疑似科学や迷信のたぐいはアホくさいからこそ面白いのだ。要は「信じるか」「信じないか」それだけである。
「イワシの頭も信心から」それはそれで結構なのだが押し売りは止めてほしいね。….奇術師のジェームス・ランディは「科学的に実証できる超能力者に、100万ドルを進呈する」という趣旨で、世界中から挑戦を募っているから自信があるんだったらチャレンジしてみたら。http://www.skepdic.com/randi.html 簡単なことじゃないか。
あの権威が言ったから正しい。….それが間違い。学歴や教授、医者、弁護士、パイロット、議員バッジなどの権威とユニフォームに騙される(結婚詐欺師は必ずこんな職業を使うね)。数学者や物理学者だって神を信じている人もあれば、学校を出ていなくてもクールにトンデモ系を喝破する人もいる。可笑しいのは「信じる系の人たち」何で科学用語を使うのだろう。「θ波」「コズミックエネルギー」「超低周波磁気」「波動」云々、それを厳密に科学的に使うのではなく、抽象的・形而上学的に使うのですね。訳が分からないから便宜上ですか?権威付けですか?まあ磁気なんて古くはメスメルの動物磁気からなんでしょう。
ホメオパシー(思考の希釈)、水にありがとう(これは躾けの問題、わたしも御飯を頂く時合掌する)、手かざし(赤外線と発汗はある、膝なんかぶっつけたらイテーッ!そりゃさするわな、おふくろもよく癒してくれました。これヒーリングですよね)。そりゃ、優しくマッサージしたりおだやかな言葉をかければ患者さんは落ち着くし痛みも治まる。ヒーリングとはそのようなものなのに科学用語で権威付けしたり、再現性、検証性のないデータをちらつかせるからおかしいのだ。まして金儲けのネタにまで…。
真面目に言えば「科学」とは自然を数学で表したものでしょう。音楽が楽譜で表せるように。でも音楽の持つ感性とかソウルとかは楽譜じゃ表記できませんね。そして音楽はレコードの溝から磁気になりデジタルですね。これって数学じゃないの?….ITからBITでしょうか。でも音楽って心に響きますね。こんなジョークもありますよ。「失恋した。たいしたことはないサ、脳の微量の化学物質と微弱電流が少し変化しただけサ、でもどうして涙が流れるのだろう…」。そう、理性と心の問題という厄介な感性があるから人間なんですよ。科学は失敗の積み重ねで成立してきたものであり、「再現性」と「実験による実証性」が根源でしょう。科学では分からないこと一杯あるし間違いもおかす。しかし間違いを正すのも科学なのですから。….そんな態度で生きたいものですね。
8/ 17th, 2010 | Author: Ken |
直立猿人… 此の一枚。
ベースが重く暗いピッツイカートを刻む。深い原初の森を歩く足音のようだ。低くホーンがユニゾンで高まり、突如ホーンが咆哮する。
マクリーンのアルト、引き攣ったようなソロ、ホーンがアブストラクトに交錯する。「ピテカントロプス・エレクトス/直立猿人」だ。1956年録音とあるからその頃だろう。初めて聞いたとき驚愕した。なんてパワーだ、極太いのだ、激しいのだ、破壊的なのだ。
チャールズ・ミンガスのベースが吠え、フリージャズの熱気と激しいコントラストと高らかに歌いあげるソウルがあるのだ。そしてマクリーンの即興演奏には哀切がある。…ミンガスの解説によれば、Evolution(進化)→ Superiority Complex(優越感)→ Decline(衰退)→ Destruction(滅亡)の4部構成の組曲である。人類の歴史と文明社会を風刺し、黒人の社会意識の高まりとブラックパワーの宣言とも感じた。そして1971年に来日したのだ。ぼくは大阪サンケイホールで聴いた。メンバーは変わっていたがミンガスの力強いベースが牽引するサウンドは分厚く凄みがあった。あの頃はジャズに真摯に向っていた。レコードとジャズ喫茶とコンサートと。
….熱い年齢だった。それより「ハイチ人戦闘の歌」「水曜の夜の祈りの集い」「フォーブス知事のおとぎ話」とミンガスサウンドに打ちのめされたものだ。
●「PITHECANTHROPUS ERECTUS」チャールズ・ミンガス(b) ジャッキー・マクリーン(as) モンテローズ(ts)マル・ウォルドロン(p) ウィリー・ジョーンズ(d)
8/ 13th, 2010 | Author: Ken |
一枚の写真
1枚の写真がある。一人の裸足の少年が幼児を負い直立不動で立つ、ただそれだけのモノクローム写真である。初めて見た時、背筋に戦慄が走った。
慄然とし、そして涙を禁じ得なかった。写真が持つ力とは何なんだろう? どうしてこんなに心に迫ってくるのだろう?
…..僕は時空を越えてカメラマンの立つ場所に立ち、彼の視点で見ている。そして自分を少年に同化させ、また死んだ幼児にも自分を重ね合わせてしまう。少年の負った過酷なドラマも想像してしまうのだ。彼の両親は原爆で亡くなったのだろうか、背の児はたぶん弟なのだろう…。時代の風潮として軍国少年で育った彼は、男なら決して涙を流してはならないし、大和男の子として身じろぎもしない姿勢こそが少国民の誇りと教えられたのであろう。
…僕は戦争の記憶は全くないが背の幼児が生きてていればおそらく同い年のはずだ…。
撮影者ジョー・オダネル氏は…。長崎で死体を燃える穴の中に次々と入れている焼き場に10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まった。おんぶ紐を襷にかけて、幼子を背中に背負っていた。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしていた。
「少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶ紐を解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました」。「写真が語る20世紀 目撃者」(1999年・朝日新聞社)より
Joe O’donnell (ジョー・オダネル): 1923年、アメリカ・ペンシルベニア州に生まれ、海兵隊に入隊、米軍調査団カメラマンとして被爆直後の長崎を撮影。戦後ホワイトハウス付カメラマンとして、歴代の大統領の写真を撮影。 上記写真のネガは長らく自宅の鞄にしまい込まれていたが89年に米国内の反核運動に触発され鞄を開け、90年米国で原爆写真展を開催。日本では写真集「トランクの中の日本」(小学館 )。 2003年に長崎を再訪問し、撮影した当時の少年・少女と再会。07年8月9日没。
8/ 7th, 2010 | Author: Ken |
The Road
垂れ込める暗雲、草木は枯れ果て、雨、雪、寒さ、飢え、すべてが灰に被われ、荒涼と廃墟の世界、襤褸の防寒着を纏いショッピングカートを押しながら父と子が行く。核戦争か小惑星の衝突か、天変地異が起った後の核の冬を彷彿させる死の世界だ。
その災厄の日に産まれた息子、10年が過ぎ母は自ら死を選んだ。一緒に死んで欲しいという母の言葉を拒絶し、少年と父親は生き延びるため南を目指す。道には人を獲物とする「人狩り」食人集団。父は1発だけ残った拳銃を少年に渡し「食われる前に銃口を口に入れ引き金を引け」と教える。そして自分たちは「善きもの」であり「魂の火を運ぶもの」であるから決して人肉は口にしないと…。
この神さえ死んだ絶望の世界で子どもの純真さだけが救いなのか?
ストーリーやドラマ性もさることながら、必見は映像である。CGを極力控え押さえることでドキュメンタリー的リアリズムを持たし、灰色に汚れ荒廃した世界が、優れた報道写真のような美しさへと転化される。今まで原作を超える映像の映画は無い「風とともに去りぬ」が唯一越えた映画だ。との伝説があるが、それは小説という文字の配列、読みから喚起され想像し、作り上げる自分だけの幻想と映像だからだ。だから他人が作ったものには違和感があって当然だ。しかし「ザ・ロード」は原作に忠実であるとともに、私の場合はデジャヴュのように共感でき再現された映像だった。それは規模は局地的かもしれないが「神戸大震災」で実感したからか?…
そして思わず前に読んだ「天明の飢饉」を想像してしまった。火山の降灰と寒い夏に、荒廃した土地を捨て人肉を食し彷徨する飢えた人間を….。飢渇、人間最大のタブーである食人、想像するだけで悍さに身震いするが、一線を超えれば常体と成りうるのも人間だ。
また少年があまりにも無垢に描き過ぎではないかと少し不満を感じたが。
あの「方丈記」にある養和の飢饉では「その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれる事にて、親ぞ先立ちける」。とある。
愛し合う夫婦は、その愛情が深いほうが必ず先に死んだ。なぜなら、わが身より相手をいたわるので、ごくまれに手に入った食べ物も相手に譲るからだ。だから、親子となると、決まって親が先に死んだ。…確かにこれが「善きもの」であり「魂の火を運ぶもの」である人間の人間たる崇高さなのだろう。
愛する者のための自己犠牲は変わらないが、理解としてはキリスト教文化の欧米人と私たちは微妙に異なるとこだ。
●原作「The Road」コーマック・マッカーシー(2006年)ピューリッツァー賞を受賞。早川書房。
●映画「The Road」John Hillcoat 監督 ヴィゴ・モーテンセン、コディ・スミット=マクフィー、ロバート・デュバルほか出演。
★よくある終末物テーマで、「マッドマックス2」それをヒントに「北斗神拳」、父と子とショッピングカートで冥府魔道を彷徨うのは「子連れ狼」そのものじゃないか。関東地獄地震後の「ヴァイオレンス・ジャック」とか、他にも「オメガマン」等など…。
8/ 3rd, 2010 | Author: Ken |
Beautiful Islands
映画「ビューティフル・アイランズ」監督・プロデューサー・編集 – 海南友子を観た。気候変動による海面上昇や高潮の影響で水没の危機にある島々を描いたものだ。南太平洋の小国ツバル、イタリアのヴネチア、アラスカのベーリーング海峡を望むシシマレフ。
3年がかりの取材によるドキュメンタリーだ。人々の普通の暮らしに焦点を当て、音楽もナレーションも無く、自然の音や人々の会話を通してありのままの生活を見せる。伝統、祭り歌、狩り、文化気候も文化も異なる島で生きる人々。….それらがいま失われようとしている。「気候変動で、私たちが一体何を失うのか」と。その想いが詰まっているのだが….。
正直に映画は退屈だった。美しい映像もあるのだが何か訴えてくるものがない。「映してきました。どうぞご覧になってこの危機を感じてください」と言われても想いとは裏腹に「ああ、そうですか、こんな映像TVで見ましたよ」と。つい最近「不都合な真実」も映像や本で見たことだし、映画とは映像の説得性と深さの問題だ … 例えばコヤニスカッツィの映像の美意識、カット1つの完成度、凄い….。
(観客は15人、その半数は知ったひとだった。なんだ自主上映みたいじゃないかと。終了後、監督との懇談会があるので待っていたが、都合で来られなかった。お詫びとしてトートバッグを頂いた。だからあんまり辛口批判はよしておこう。いや、こういう映画をより多くの方々に見て欲しいから文句もいいたくなるのだ。シネコンにもかかりにくいマイナー映画だけれどぜひ見てほしい)
実は海面上昇についてもよく分かってはいない。紀元前1万6千年前に氷河期が終わり、その頃の海面は現在より100mも低かった。紀元前1万2千年前頃に上昇を始め、紀元前4千年前頃に最高に達し、現在より数メートルも高かった。また17〜18世紀は寒く小氷期であった。それから温暖化が始まり現在へと続く。地球規模の気候などまだまだ人間の知恵では計り知れない。
だからといって温暖化を放置するのではなく、その可能性を今から押さえておくのは重要だ。転ばぬ先の杖より沈まぬ先の予防だ。30年も前になるが「コヤニスカッツィ・平衡を失った世界」アメリカ大陸の原住民ホピ族の言葉でバランスを失った世界などを意味するを観た(最近またDVDで)。監督ゴッドフリー・レッジョ、撮影ロン・フリッケの高速度撮影と微速度撮影の映像が素晴らしい。
全篇をフィリップ・グラスの音楽が通奏低音となって響く。現代社会の現実、物質文明の極限を音と映像だけで描いたドキュメンタリーだ。大地、雲、海。ゆったりとしたテンポでそれらが淡々と流れ、やがてテンポがアップし、ビルが建ち古びれば爆破し、車がレーザー光線のように走り、膨大な人々が超高速で行き交い、めまぐるしく展開する。気ちがいじみ、分離し、バランスを失いつつある文明都市に巨大な月が昇る。エンディングにはコヤニスカッティの示す5つの意味が象徴的に提示される。私たちはそろそろ生活や生き方を変える必要があるのではないか?と自分が問われているのだ。
続編として1988年の「ポアカッツィ」、人間とは?労働とは?ガリンペイロを執拗に追うオープニング…。そして「ナコイカッツィ」。人間・自然・テクノロジーの関係を違った視点・観点から追っていく。地球に、環境に、人間に、伝統に関心ある方はぜひ見て欲しい。
7/ 30th, 2010 | Author: Ken |
パノラマ島?パラノイア?キッチュ?
嗚呼…..!夢、狂気、妄想、幻想、妖美、サディズム、エロティシズム、グロテスク….。江戸川乱歩の「パノラマ島奇談」(1926)はパノラマと言うよりパラノイアだ。主人公人見広介を現代のディズニーランドやラスベガスに連れて来たら何と言うだろう…。
このお話を読んでいると何かボッシュの「悦楽の園」を彷彿させるね。まあ、公共という名の下に日本列島がパノラマ化しているが。かって神戸六甲にも「二楽荘」(写真右上)なる西本願寺22世法主・大谷光瑞が建てた白亜殿があった。インドのアクバル皇帝時代の建物やタジマハールを模し、英国室、支那室、アラビア室、インド室、エジプト室、などがあり、大谷探検隊の収集品も展示されていたそうだ。
明治41年から大正3年までの短い命でありその後売却され昭和7年(1932)焼失した。建築からわずか25年のことであった。ケーブルカーや冷気を六甲山から引くパイプなど、贅の限りを尽くしても1〜2年で建てたというから張りぼて臭いが…。
いま「歎異抄」がブームだそうだが親鸞が見たとしたら何と言っただろう。その顔を見たいものだ。….ボクも他力本願で行こ…狂王ルートヴィッヒ2世のノイシュバンシュタイン城、バブルに沸くドバイの建築群、規模は姑息だが我が国のバブル期にも全国にバブルの塔が現れた。人間は金力と権力さえあれば、古今東西この手のワンパターンの人になる。利己的な遺伝子が己の種を残すためというより、顕示欲と執拗な不安に苛まれるんだろう。己を顕現させる永遠の象徴が欲しいんだ。ヒットラーなんて陥落寸前のベルリンの壕のなかでゲルマニアの夢を見ていたし、ファシズムの独裁者は巨大な建築物を欲しがる。スターリンも、チャウセスクも北朝鮮も…。
キッチュというか俗悪というか一つ間違えば悪趣味のオンパレードだ。ギトギト、ゴテゴテ、これでもか!これでもか!….。
我が国の政治家もお役人さんも負けてはいないですよ。田舎に突如バッハホールだとか美術館とか、公共物と称する巨大建築物…。それがステロタイプのガラスと打ち放しのコンクリート。ポストモダンだってさ。H鋼に梅干し色や青リンゴ色塗っちゃって…。
悪口になてしまったが、この「シュヴァルの理想宮」は特別だ。1879年フランス南部は片田舎オートリーブにおいて郵便配達夫であるフェルディナン・シュバルは奇妙な形の石に躓いた。インスピレーションだ!それから石を拾い、庭先に積み上げ、1912年まで33年間宮殿を作り続けた。奇ッ怪でユーモラスで執拗。夢に取り憑かれた一人の男の人生。凄い迫力だ。(写真左下)
後にシュールレアリスムのアンドレ・ブルトンが絶賛。私が知ったのは栗田勇の「現代の空間」という本だった。その異様な写真に見とれたものだ。サンボリスムという言葉もガウディのサグラダファミリアもロスにあるサムの塔もね。…いつかその前に立ちたいものだ。
7/ 26th, 2010 | Author: Ken |
うつろ船ふたたび。
最初にお断りしておくのだが、私は神秘主義、疑似科学、占い、予言、霊、血液型、UFO云々は全く信用しないし迷信であり唾棄すべきものと考えている。ただし、映画や酒の上のお遊びとしての話題なら大歓迎だ。その中でも子どもの頃に読んだ「空飛ぶ円盤」の面白さは抜群だった。宇宙人だ、いや新兵器だ、いやタイムマシンだと小松崎茂の空想科学イラストには感激したものだ。そして何かの本で「うつろ船」の伝説やその円盤形の乗り物について知った。不思議だ、江戸末期にこんな形を誰が想像できただろう。人間とは必ず先例にプロトタイプを求めそれから発展さすのが思考のプロセスだ。飛行機は鳥に習い潜水艦は鯨だ。長い進化の果ての姿は合理的で美しい。
じゃ「うつろ船」の空飛ぶ円盤はどこから…?これは世界で初めて描かれたの円盤形乗りものだ。ヨーロッパにもどこにもこんな形は見た事がない。余談だがフリスビーは40年代後半にイェール大学の学生がパイ皿を投げ合って遊んだのが発祥というが、そんなもの日本では古くから「かわらけ投げ」が多くの寺や名所遊山に伝わるのだ。誰もパテントを取る事を考えなかった。少し悔しい。
「うつろ船」の形は何から想像したのだろう。まあ、一寸法師のお椀の船もあることだし蓋付きお椀として、その頃には黒船が日本近海に出没していたから、窓にはビードロを嵌め南蛮鉄にチャン(タール)を塗る。そして蛮女なのだが、異国人を意識したのだろう。
ところが異人を見た事がないので何だか中国風になってしまった。文献では「鶯宿雑記」「常陸国うつろ船流れし事」駒井乗邨,1815年頃?「兎園小説」「うつろ舟の蛮女」曲亭馬琴1825年、「弘賢随筆」八代弘賢1825年、「梅の塵」「空船の事」長橋亦次郎1844年、「漂流紀集」「小笠原越中守知行所着舟」1835年以降?とあるが、これは面白いと噂が噂を呼び広がったのだろう。どうも馬琴のSFだとの説が強いが…。
ここまではいいんだ。私としてはこんなことで終わらしたくない。徹底的に解明したいところだが何しろ過去のことだ。
早速、空想時航機を駆って飛んでみた。過去を変化させては現在が狂うので、時空間の隙間から覗き見た。怪しい燐光を発しながら稲妻とともに現れた。電離した空気、微かなイオンの匂い。どうです美人で魅力的でしょう。ファッションがちょっと古い気もするが…。そして不思議な宇宙文字。新しく解明したところでは、どうもワームホールを通って来るワープ図らしい。
そういえば、パイオニアの銘版やボイジャーにはディスクを積んでいた。地球人の男女の姿、水素原子超微細遷移の概念図や太陽系、パルサーの位置なんか…..。楽しいでしょう。
7/ 22nd, 2010 | Author: Ken |
太陽がいっぱい
Plain Soleil ….最高の気分サ….。メロディーの美しさ故に胸が締め付けられるような哀愁と切ななさ、ニノ・ロータの音楽に美貌のトム(アラン・ドロン)。ルネ・クレマンのサスペンス満ち冴えわたる演出、あまりにも青く眩しいアンリ・ドカエの地中海と太陽・・・。
マルジェ(マリー・ラフォレ)の倦怠感と神秘性を漂わした風貌、金持ちの傲慢と尊大さフィリップ(モーリス・ロネ)。映画「太陽がいっぱい」1960年。あのころはフランス、イタリア、ヨーロッパ映画が輝いていた。ハリウッドにない洗練と皮肉、成熟した文化や芸術性とも言っていい魅力があった。小さいプロットにもそれらが散りばめられている。マルジェの論文テーマは修道士フラ・アンジェリコの絵画だ。そしてあのヨットの食事シーン。「フォークとナイフは金持ちに見せたければこう持つんだ」…..屈辱から殺意が芽生える…。
原作はパトリシア・ハイスミス「The Talented Mr. Ripley」。これにも金持ちを象徴するのにフィリップの父親がトム託す物、それはブルックス・ブラザーズの製品だ。これだけでその時代、その階級が分かる。
(余談だが同時代の軽妙さで鳴らしたヘンリー・スレッサーの短編「怪盗ルビー・マーチンスン」赤毛でドジな犯罪者なんだが、やはり宝石泥棒ではブルックス・ブラザーズのスーツにピンクのピンナップ・カラーで決めている。ウン、分かるよワカル…。貧しい日本の高校生としてはB・ブラザーズなんて遠い国の夢と憧れでしかなかった。ましてフィリップのクローゼットにあるストライプのブレザーなんてね…エスクアイヤーの世界そのものなんだから…)。
閑話休題、1999年にはマット・ディロンで「リプリー」が作られた。原作が同じというだけで別の映画だから比較するのもおかしいが、どうしても比べてしまうんだ。そりゃ、ドロンには憧れや卑しさも秘めた水も滴る美貌がある。ディロンの猿面じゃ勝負あり!
こちらの方が原作に忠実だし、時代性を考慮してモダンジャズをフィーチャー。でもね、悲しみがないんだよ。せつない青春がないんだよ。嫌らしい面が出過ぎるんだよ(アイラ・レヴィンの「死の接吻・赤い崖)1956年、1991年にはマット・ディロンでリメイク。これも最初のロバート・ワグナーの方がはるかによかったね。つまり、ラスコーリニコフやジュリアン・ソレルなんだよ観客が期待しているのは。
セオドア・ドレイサーの小説「アメリカの悲劇」の映画化、モンゴメリー・クリフトの「陽の当たる場所」。これも貧しい若者がはい上がるために…似ているね。まあ、大藪春彦の「野獣死すべし」伊達邦彦も同じ人種なんだ。時代ですよ。第二次大戦で価値観を喪失したり、また死をたくさん見てしまった人たちなんだ。年齢的にはバロウズ、ギンズバーグ、ケアラックなんかと同じビート・ゼネレーションなんだ。マイク・ハマーだってあのサディズムは戦争が作ったんじゃないかな。..ああ、話が横へそれてしまった。
お許しを。…それにしても今年の暑さはどうだ? 太陽がいっぱい過ぎるから、毎夕生ビールがいっぱいだ。
7/ 17th, 2010 | Author: Ken |
すべては太陽のせいだ!
梅雨が開けた。太陽の季節である。太陽がいっぱい、こんなに暑いのも、やる気が起らないのも、すべては太陽のせいだ!
強烈なコントラストに目眩がしそうだ。別に山や海に行きたい訳ではなし、休暇を取りたいとも旅行に行きたいとも思わない。無感動人間になってしまったのだろうか。
…..子どもの頃は違った。夏休みを待ちかね日がな遊びに没頭した。一日が、、一週間が一ヶ月が、恐ろしく短かった。そして生意気な高校生の頃だ。その時代の流行というのだろうか、ブームだったのだろう。
強烈に鮮烈にアルベール・カミュが「異邦人」で現れた。「今朝ママンが死んだ。昨日かも知れない…」。不条理という言葉を知った。「ペスト」「シジフォスの神話」「太陽の讃歌」「反抗的人間」等々、いま思い出すと恥ずかしいのだが、分かりもしないくせに分かったような顔をして浸りこんだ。
…人にはそれぞれ運命があるにしても人間を越えた運命はない。…..人間は日々の主人は自分であると知っている。この行為の連続を凝視し、彼の運命は彼によって創り出されるのだ。……頂上にむかう闘争、そのものが人間の心を満たすのだ。幸福なシジフォスを思い描かねばならない。「すべてよし」と。
…でも、人生は不条理だ!と言われても何が不条理か高校生の頭には理解できなかった。そして西欧人の抱く「神」の概念、文化、絶対性。そんなものは日本人には根本として希薄だから理解が違うのだ。….久々に読み直してみようと思う。
…そしてルキノ・ヴィスコンティの映画「異邦人」1968が来た。マストロヤンニとアンナ・カリーナだった。また60年代にはアルジェ独立を舞台とする映画の秀作があった。アルジェなんて古くはデュヴィヴィエ「望郷」のペペルモコくらいしか知らなかったけれど。
「アルジェの戦い」監督:シロ・ポンテコルボ。徹底したドキュメンタリー手法で、目撃者の証言、記録、写真から、ニュース映画のただ一コマも使わず、実写以上のリアルさを再現した。
「ロスト・コマンド/ 名誉と栄光のためでなく」監督:マーク・ロブソン 原作:ジャン・ラルテギー アンソニー・クイン/アラン・ドロンほか、なんて映画も見た。フォーサイスの「ジャッカルの日」、ドゴール暗殺未遂に続いていく訳だ。
7/ 13th, 2010 | Author: Ken |
実在・リアリティって何だろう?
毎日、朝から晩までPCにへばりついていると、オイオイ、現実って何だ?…と詰まらないことを考えてしまう。こんなのデータだけじゃないか!ということはこんなもの「存在の耐えられない軽さ」じゃないか。…いや現に見ているじゃないか、触っているじゃないか、ここにあるじゃないか!ン!あるよね。
でも見るというのは電磁輻射の可視光線という範囲のスペクトルだし、聞こえるということは鼓膜にかかる空気の圧力だし、匂いは鼻の粘膜による空気の化学分析で、味は舌に乗った物質の化学組成じゃないか。
分かっているよ、クオリアとか愛とか情とか歴史とか人生とかサ…..。人間はそれ以上のものだって言いたいんダロ?…じゃ実在(リアリティ)って何だ?….ぼくたちは近似値までは迫れるけれど、真の姿を捕えることが出来るのかね?……完璧に理解できたと思っても、それは君の脳内の微弱電流の作用と化学変化、ニューロンやシナプスの作用なんだろう?…..ぼくたちの身体はタンパク質や水、それは炭素や水素などの原子で、陽子と中性子と電子でできていて、それはクオークとグルーオンで、いや超弦理論という弦の震えで、そしてE=mc2乗、すなわち物質とはすべて光だ。….と言われてもね。
本当に宇宙の真理があって、ぼくたちその影絵とか一部をかいま見ているのだろうか? 二千年以上前の人間も同じ事を考えていた。プラトン先生、実在って何だ? もしかしたら氷河期の洞窟でご先祖さんたちも、なぜマンモスがいるんだ? 俺とは何だ?…と。
ウーン、この季節なら生ジョッキを傾ける最初の一口、たまらんね。喉と身体に実在感があふれますね。