6/ 25th, 2010 | Author: Ken |
北北西はスリルの方位。
「北北西に進路をとれ」これは何を意味しているのだ? たぶんヒッチ独特のオトボケで意味なんてないのだろう。サウスダコタのラシュモア山はニューヨークやシカゴからは西で北北西じゃない。ノースウェスト航空だとかハムレットが気の狂った振りをして言う台詞 I am but mad north-by north-west.(私の気が狂うのは北北西の方から風が吹くときだけだ)とか諸説紛々である。
まあ、お固いことは言いっこなし。まずソール・バスのタイトルから素敵だ。斜めの線が交差してタイトルが映り、それがビルのガラスの壁面に変わる。プラザホテルのラグジュアリーな雰囲気(当時ケイリー・グラントはプラザに住んでいたので演技じゃないそうだ)。そしてあの見渡す限り真っ平のプレアリーというバス停留所でのシーン、飛行機に追いかけられ真昼の大空間が密室化するわけだ。冒険に次ぐ冒険でラシュモア山の大統領の顔の上でのアクション。巨大なモニュメントと小さい人間の対比がより緊張感をそそる。「逃走迷路」の自由の女神と同じ発想だね。ああもう墜落する….ロジャーがイブを引上げたと思ったら、それは寝台車の上段ベッド、列車がトンネルに入りエンドマーク。実際にこんなドラマは現実にある訳はないし、荒唐無稽のホラ話なんだが「嘘でいいんだよ!…映画なんだから」と大人の童話なんだ。上品でウィットが利いて、皮肉でユーモラスで、贅沢で美しく、
そして観客をハラハラ、ドキドキさせて喜ばす。ヒッチコック先生、あんたも人が悪すぎる…。
6/ 22nd, 2010 | Author: Ken |
さあ、気狂いになりなさい。
ヒッチコックほど観客を手玉にとる人はいない。計算し尽くしているのだ。プロットの中に巧みに地雷を潜ませておいて、観客の苛立ちと不気味さが頂点に達する時に爆発さすのだ。突発的ショックである。
会社の金を持ち逃げしたマリオンが、執拗にパトカーに追け回されたり、母親の話になるとにわかに目つきが変わるノーマン。剥製、雨、不気味な家から女性のわめき声。突如、シャワー、カーテンに影、顔、シャワー、ナイフ、悲鳴、足、排水口、血が吸い込まれていく。恐怖、ショック、エロティシズム、残酷、このカット割りの見事さ!おまけに主人公であると思わせていた人物が死んでしまうから観客は宙ぶらりんになってしまう。つまりサスペンスなんですね。
このシャワーシーンはタイトルデザイナーのソール・バスの絵コンテに基づくそうだ。そういえばアメリカ映画の制作背景には徹底した絵コンテ(まるで劇画そのもの)があるのだ。「間違えられた男」の絵コンテなんてそれはもう!ヒッチコックはシナリオにいっぱい書き込み、光と影と表情まで計算され尽くされ、映画を作る前に「絵」「カット」「演技」「流れ」によって紙の上で出来上がっているのだ。わが国では黒澤明監督の絵ぐらいしか知らないが、この辺が違うのだ。
最近の邦画やTVはレンズの性能が上がりデジタルなのでベタ光線、何ともツマラない陰翳の表情のない平面的画面ばかりだ。制作者の美意識の劣化は眼を背けたくなる。見ていてこちらが恥ずかしくなるから、まず映画館には足を運ばないし、こんなものに金を出したくない! あの黒澤明、小林正樹、木下恵介の素晴らしいシナリオと映像は何処へ行ってしまったのだ。くたばれ!頭の悪いお子様ランチ日本映画め!…..スマン、スマン、つい激昂して。
…..閑話休題、そして映画には感情同化作用があるので、ついノーマンに同化してしまい、あの車を沼に沈めるシーン。沈んでいくと途中で止まる。オイオイと観客に思わせて一呼吸おいてまた沈む。心憎いね。そして探偵が突如襲われ顔のアップから階段を転げ落ちるショッキングさ。….最後のシーン、ノーマンの気味悪い顔に母親の木乃伊、骸骨の歯が重ねられる。恐さが余韻を引くのですね。
ヒッチコック先生、ここまで観客を嬉しくも、いたぶり、なぶりものにするのか! 裏でおとぼけヒッチの顔が浮かびますね。
6/ 19th, 2010 | Author: Ken |
ヒッチ賛。
サスペンス神様、スリラーの巨匠、プロットの天才、映像の魔術師、スリラーの帝王、おとぼけとマクガフィン…。
いくら賞賛の言葉を羅列しても映画を見りゃ納得する。大統領の顔の上を逃げ回り、鳥の群が襲い、裏窓から覗き見をし、列車から貴婦人が消え、高所恐怖症にさいなまれ、間違えられて危機一髪!…。ハラハラ、ドキドキ、イライラ、ゾクゾク、ワクワクなど、心理的オノマトペアが盛りだくさん。
そう、サスペンスとはズボン吊りのサスペンダーと語源は同じ。宙ぶらりんの状態に置くと言う事。ヒッチコック先生、あんたはエンターテインメントの王様だ!イギリス時代の古い作品は別として何回繰り返して見ただろう。「独断と偏見」という思い上がった厭な常套句を使わせていただくとして、そこで私なりの順位をつけてみる。
1.「サイコ」1960:ロバート・ブロック原作、結末は喋るな!と箝口令。シャワーシーンのゾクゾク感、たまりませんね。
2.「北北西に進路をとれ」1959:完成度は一番。タイトルはあのソール・バス。突如飛行機に襲われ、これは007の「ロシヤから愛を
こめて」が頂いていた。そしてラシュモア山の大統領の顔の上で…。恐いですねー。カッコいいですねー。お洒落ですねー。
3.「鳥」1963:T・ヘドレンの背景のジャングルジムに烏が一匹、また一匹…。おい気がつけよ!カメラがパンすると真っ黒に。
4.「裏窓」1954:動けない。カメラの視点で裏窓を覗いていると。….アイディアの勝利。
5.「見知らぬ乗客」1957:あのライターが排水溝に落ちて拾おうとするシーン、イライラ、ゾクゾク、ヒッチの笑い顔が眼に浮かぶ…。
6.「めまい」1958:話は上手すぎるけれど、当時は精神分析が大流行だった。カウチに寝そべって催眠術なんか..。あの頃ヴァンス・パ
ッカードの「隠れた説得者」やスキンナーのネズミの実験、マズローの欲望の段階なんかの心理学が人気の時代でしたね。
7.「逃走迷路」1942:自由の女神のトーチでのアクション、高所恐怖症には刺激が強すぎる。「北北西に進路を取れ」の原点ですね。
8.「ロープ」1948:知的サスペンスそのもの。まるで舞台劇を見るような…。
9.「海外特派員」1940:あの、こうもり傘が群がるシーンだけでも必見。
10.「バルカン超特急」:これはジョディ・フォスターの「フライトプラン」がそのままパクっていましたね。
いや、「泥棒成金」も「白い恐怖」も「引き裂かれたカーテン」も「ダイヤルMを廻せ」も「レベッカ」も「救命艇」も、みんなみん
な…。品性があってユーモアとおとぼけ、シルバースクリーン(銀幕と言ったほうが)の中だけに存在する美女、映像の美しさ、カメ
ラワークの見事さ、そして光と影の絶妙さ!すっとぼけたヒッチのメタボのシルエットが何とも素敵だが、テリブル・シンドロームは
もっと素晴らしい。アルフレッド・ヒッチコック先生に乾杯!「ヒッチコック・マガジン」「ヒッチコック劇場」…ぼくの青春だった。
6/ 16th, 2010 | Author: Ken |
エゼキエルは何を見たか?
旧約聖書、エゼキエルはあのバビロンの捕囚であり、捕囚された者たちに希望をもたらすために神に召されたという予言者である。
紀元前593年、そのエゼキエル書第一章に、第三十年四月の五日に、われケバル河のほとりにて、かの捕えら移されたる者のなかにおりしに、天開けて、われ神の異象を見たり。… 烈しい北風に吹き来った輝く雲、燃ゆる火の玉から人の形をした者が現れ、四方に顔と四方に翼を持ち、電光のごとく動き、足は銅の輝きがあり車輪のうちに車輪あり、その首の上には固きなる蒼穹の上に、青玉のごとき王座の形があり、そのなかに人のごときものがあった。……
これをNASAのエンジニアであった著者が、自らの設計技術を活かし、エゼキエル書に述べられた通りに設計すると、何と!宇宙船が現れた。当時はあのフォン・デニケンのトンデモ本がブームであったので、それを否定しようと設計を始めたのだが、結果デニケン説を肯定することになったと…。こういう話は本当に楽しいものだ。悪戯心が騒ぎますね。
日本人にとって旧約聖書は神話・伝説のたぐいだし、とても人格神、創造論、インテリジェント・デザインなんか想像できない。でも海外にはダーウィンの進化論を否定し、世界は平面であり、旧約聖書の記述を真実と信じている人々もたくさんいるのだ。
この本は40年近くも前の本だし、当時は月面着陸の興奮が未だ醒めやらぬ頃で、NASAのコンピュータは最強最速、驚異だった。今の私のPCと比べてメモリー、CPU、HDD、演算速度とどんな性能だったのだろう。….何かハリウッド映画の劇的な場面を彷彿させますね。稲妻、閃光、轟音、天上から巨大な宇宙船が…。早速CGで作ってみた。何なら3Dだって。いかがかな?
●「円盤製造法」エゼキエルの宇宙船を復元する。ヨーゼフ・A・ブルームリヒ/松谷検事訳:角川文庫(1977)
6/ 13th, 2010 | Author: Ken |
時の過ぎゆくままに…。
なぜ時間は過去から未来へ流れるのか、なぜ過去は定まっているのに未来は未知なのか?H・G・ウェルスの「タイムマシーン」「浦島太朗」「リップ・ヴァン・ウィンクル」「バックトゥ・ザ・フューチャー」「果てしなき流れの果てに」…と時間旅行の種は尽きない。
「タイムマシーンができた!過去に戻ろうとスイッチを押した。一瞬前に戻った。タイムマシーンができた!」永遠の繰り返しだね。まあ、人間的時間について哲学者は訳のわからん事を長々と書くから割愛して、時間についての名言を拾い出してみよう。
●タイムマシーンは無い。未来から誰も来た者を見たことがかないからだ。….スティーヴン・ホーキング
●時間そのものを感じることは誰もできない。事物の飛翔と静止から時間を知るだけなのだ。…..ルクレティウス
●時間は君が作ったもの君の頭の中だけで時を刻む、考えることを止めた途端、時間もぱったり止まるのだ。…アンゲリス・シレシウス
●過去、現在と未来の区別は幻想に過ぎないが、頑強な幻想である。….A・アインシュタイン
●逃げて行く分を捕まえて、後の分の側に並べることはできない。….エドワード・ミルン
●物理学の基礎から時間が取り除かれるような新しい構造にいつの日にか出会う心構えを持つべきだろうか?
…そうだ、それは時間が厄介者だからだ。
●時間はわれわれの思考の中で演じる。一つ一つの役割ごとに異なる衣装をまとう。…..ジョン・ホイラー
●時間性の印象は人間の発明品に過ぎない。時間の概念はあまりのも矛盾が多く不可解なので、
時間が全然存在しないと見た方が筋が通る。…ジョン・マクダガード
●アウグスティヌスは神を時間の外に置き、神に時間そのもを創造させた。時間が宇宙とともに現れたという観念には適合する…。
時間はビッグバン以前には存在しなかったのである。….ポール・デヴィス
●できるうちにバラの蕾みを集めたまえ。懐かしい時はいまも飛び続けている。…ロバート・ヘリック
●この箱を決して開けてはなりませぬ。….乙姫
6/ 10th, 2010 | Author: Ken |
うつろ船はタイムマシンか?
時は享和三年(1803年)常陸国(茨城県)はらやどりという海岸に不思議な物体が出現した。未確認飛行物体・UFOなのか?
これを「うつろ船」という。中から箱を抱えた異様な服装の女性が出て来て人を寄せ付けなかった。また船内には不思議な文字が描かれていた…。これは単なるフィクションか、ホラ話か、それとも実際にあったことか?様々な説が現れたが、そのなかでもタイムマシーン説が最も興味深い。ちょうど同じ頃、フランスはヴェルサイユにサンジェルマン伯爵という奇天烈な人物が現れた。
錬金術に優れ、その記憶、知識は無尽蔵、あらゆる国の言葉を話し、年齢は二千歳とも四千歳とも語った。そしてチベットを始め各国を訪れ最近日本に行って来たと語ったという。ちょうど「うつろ船」の記録と時期が一致する。さて、サンジェルマン伯爵の言い伝えから察すると彼はタイムトラベラー・時間旅行者ではなかったか?そうすれば彼の言動は理解できるし「うつろ船」が「タイムマシーン」ならすべてが解決する。ここまでは楽しいお話としていいんだ。これからは眉にたっぷり唾をつけてね。
ぼくも子どものころから、この話には心を動かされ長年の資料収集と研究の結果、PSCS3というソフトで見事撮影に成功した!
そして奇妙な文字・図形の解明も科学者たちと進めている。現在までに判明したことは、
1)これはポテンシャル・エネルギーの記号である。 4)超伝導に於けるクーパーペアだ。 いや1)と4)は関連していて、これは障壁をすり抜けるトンネル効果の図形だと一致した 。2)は江戸時代の人が意味がわからないので写し間違えた。これは光子によって電子と陽電子が作りだされ(e2,p)、陽電子がbでe,e1によって消滅する時空ダイヤグラムである。時間tの観測者は同時に3つの粒子を見、ファインマンによればこの経路は時間を後ろ向きに伝える電子の軌跡だと見なす事ができる。3)は明らかにミンコフスキーの時空図であり、過去・現在・未来を図にしたものである。と小難しく楽しむのもいいが、どうも「うつろ船」はあの南総里見八犬伝の作者滝沢馬琴の「兎園小説」が出どころでSF小説が真相のようだ。こういう悪戯や人を食った話は本当に面白い。S・キングやSF作家、ハリウッドは大法螺吹きだね。
6/ 8th, 2010 | Author: Ken |
山頂の悦楽。
今年もまた六甲山頂のバーが開店した。
日本最古の「神戸ゴルフ倶楽部」で年2回開かれるバーだ。これは行かねばなるまい。
友人4人と和気あいあい。天気も良し、空気も清澄、言う事なしだ。
本日6月6日はこの倶楽部の創設者グルーム氏の記念日だ。
まずは爽やかにモヒート、グラスを持ってベランダに出る。18番グリーンを見ながら、ウーン美味い!
何しろ18番の愛称は「Doech & Douis・一杯飲んで帰ろう」だからね。
2杯目はジンリッキー…。メンバーが次々と上がってきてバーもにぎやかだ。さて、フェアウェイを渡ってチャンバーに向う。
この建物も年期の入ったなかなかのもの。会食も盛大、楽しい時間が流れる…..。
夕刻が近づき三宮に帰って来た。さて、どこか開いてるかな? まあ、とにかく行こ!
今日の余韻を肴にまた乾杯と行こう。
6/ 5th, 2010 | Author: Ken |
相対論的時間
宇宙の年齢は約137億年、地球の歴史は約46億年といわれるが、物理学から見た時間はどうなっているのだろう。かってニュートンの宇宙には絶対時間・絶対空間というわれわれから独立した存在として描かれていたが、アインシュタインの相対論によって否定された。
相対論によると真空中の光の速さ秒速約30万キロが絶対的な物理量となり光速に近づくほど時間は遅れ空間が縮まると。ン?ある慣性系から見て空間上の異なる地点で同時に起きた事象は、別の慣性系から見ると観測者に対して相対運動する時計は進みが遅れ、同時に起きてはいないって? また一般相対性理論によれば重力と加速度は等価であり、これらは空間と共に時間をも歪める。
重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる。つまり地球の表面では人工衛星よりも時間の進み方が遅い。だからGPSだってこの時間誤差を修正して位置を決めているそうだ。…まあ、ぼくの力ではこれ以上の説明は手に余るから、相対論やその辺の説明は物理学書を読んでいただくとして、時空が観測や実験から証明された真空中の光速が一定(光速度不変)であるに基づき、45度の世界線を持つ円錐形の時空図ができる。この光円錐の未来と過去の原点が「今現在の私」である。
じゃ、どうして時間は不可逆性で過去から未来に向う一方向の矢なんだ? 10億光年先から来る星の光は10億年前に発した光だ。ということは10億年前の過去を見ている? そして、そして不思議なのは仮にぼくが一個の光子としたらどんな世界を見るのだろう….。
相対論によると光速に近づくほど時間の遅れと空間の縮みは極限に達し、光速になると一瞬のうちに宇宙の果てに達する。光子にとっては宇宙の広さは0であり時間も0。ということは空間も時間も存在しない、つまり無だ。光子にとっては無である世界にぼくたちは悠久の時空を見ているというわけだ。相対論で見ると時間は「実」で空間は「虚」である。光速を超えることはできないから光円錐の外側は非因果的領域でうかがうことすらできないものだ。だから因果関係を持てる世界、つまり「時間」が「実」であり時間性の中かに
しか私はあり得ないのだ。ウーン、分かったような分からないような…。
●「時間について・About Time」ポール・デヴィス 林一訳:早川書房 アインシュタインの相対論を基盤として面白いの何の。
●「時間はどこで生まれる」橋元淳一郎:集英社新書 人間的時間と物理的時間の統合論、この一冊で分かった気になる?
6/ 3rd, 2010 | Author: Ken |
時と流れ。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」方丈記:鴨長明
果てしない時の流れのなかで、はかない人の命と崩壊してゆく時代、大火事、旋風、地震、都遷、飢饉、孤独、老い、自問……。
方丈記は時間の作品だ。移ろい行く時を捉えた名文中の名文である。できれば音読し声に出して読めば和漢混淆文のリズムに乗り一気に読み上げられる。言葉を極端に削ぎ取り凝結し時の流れのなかに置く。記憶というドキュメンタリーが蘇り人生という時間が見えてくるのだ。
長明の生涯は不遇だったという。ある才と眼を持って生まれたものは器用な故に恵まれないものである。見える以上何をさせても人並み以上にできてしまう器用貧乏さ。旺盛な好奇心と行動、世間から距離を置きながらどこかで繋がりを求める俗物性。己を見据える己がいる分離した精神による客観性と冷笑、それが金や出世から外れたアウトサイダー的生き方にさせてしまうのである。生き方が下手な男の悲哀である。
また長明は絃楽の達人であったという。音曲とは時間と空間の芸である。紡ぎ出される拍と節と調が次々と生まれては消えていき、その流れに感情が喚起され、音の美の漂いを味わうのだ。音楽が時間芸術と言われる所以である。
秘曲「流泉・啄木」とはどんな曲だったのだろう。ジャズのエリック・ドルフィーが死の間際に吹き込んだ「ラスト・デイト」。そのなかに彼の肉声が聞こえる。「音楽は終わると空中に消えてしまう。もう二度と取り戻すことはできない」と…。過ぎ去ったものは二度と帰ってはこないのだ。
生まれ、生き、去る、生の喜びと際限のない孤独、死とは究極の孤独だから不安なのだ。それを無常というのだろうか。
….知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか
目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。
のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。
枕頭の書とまでは言わないが毎夜寝る前に数章を読む。仕事とはいえ方丈ならぬ小さな事務所、キーボードとディスプレイの前で日がな過ごしている。その間にも時は流れて行く。三尺四方が私の人生の大半なのだが….。
●「方丈記」鴨長明:岩波文庫 ●「方丈記私記」堀田善衛:ちくま文庫 ●「方丈記を読む」馬場あき子・松田修:講談社
6/ 1st, 2010 | Author: Ken |
時間とは何だろう?
時間とは本当に不思議なものだ。過去、現在、未来と存在するように思える。しかし過去はあったのか?
人も街も自然の風景も変わり、子どもは大きくなり去って行った人もいる。昔し手に入れた物は古び散逸する。遺跡もあり化石もある。放射性物質の崩壊から過去の時間も計算できる。痕跡という事実から過去というものはあったのだと。生きている自分にとって、時間はいつも「今現在」である。
しかし、現在・今の一瞬・刹那の積み重ねだろうか? 一瞬・刹那は消え去るものであり「今」という自覚はない。「今」と感じたとしよう。しかし、その認識は肉体という広がりの中で脳で処理され行動に移すための時間がかかる。思った時は過去である。
時計があるじゃないか。1秒は「セシウム133原子の放射周期の 9,192,631,770回にかかる時間」空間は1mを「真空中の光が1/299792458秒の間に通過する距離」と定義されているが、これは単位という人間の取り決めである。時計とは単なる基準であって物差しにしか過ぎない。
…時間を考えた哲学者は多いが物理学でいう時間とはとんでもなく乖離している。疑問は増すばかりである…。誰か肉体的・心理的・人間時間と物理的時間の両方を的確に説明してくれないか? 老化という事実を取り上げてみても、どうも肉体のDNAには時計が組み込まれているようだし、産まれ死するのは人間の宿命である。まあ、子どもという分身を残しはするが…。
私もいつか生を終える。ファウストは言う「時よ止まれお前は美しい」…己はこの最高の刹那を味わうのだ。…..メフィストーフェレスが言う「過ぎ去った、それはどういう意味だ。過ぎ去ったとはもとから無かったことと同じじゃないか」。
わたしの過去とは記憶だけである。記憶は時間ではない。脳に作られた虚像である。いったい時間とは何なんだろうか?