2/ 14th, 2010 | Author: Ken |
Toy Box … Sports Figure-2
釣りなんてまともにしたことがないが、イメージだけは追っかけていた。まずジャケットはバーブアだ。フィッシング・バッグはリーズデールがいい。ブーツはシムスかハーディか、リールはアブだとか…。
そして帽子はミラーのアイリッシュ・カントリー・ハットにしょうなんて。…それだけでリバー・ツイードの冷たい水とかヘンリーフォークにライズするブラウンやレインボーなんか想像してしまうのだ。ニンフが舞う河面に手首を2時から10時にスナップを利かせて、リードはラインは…。
全然出来ないくせにね。つまり偽物フィッシャーマン、格好つけてアームチェア・フィッシャーマンだ。釣狂の友人にいつも笑われている。
ゴルフは少しはやった。まあスコアは70台まではいかなかったが、震災を機会に止めてしまった。昨年は日本最古のゴルフ倶楽部がある六甲山頂には2回行った。ゴルフじゃないよ。春と秋にバーが開かれるのだ。フェアウェイ越しに輝く大阪湾を見ながら飲るハイボールやソルティドッグなんて、そりゃ、何とも…。
2/ 12th, 2010 | Author: Ken |
ギブ・ミー・チョコレート!
バレンタインデーが近づくとチョコレートという響きが記憶を蘇らせる。それは恥ずかしくもあり軽い嫌悪感でもある。
忘れてしまいたのだが残夢としてこびりついているのだ。そう、進駐軍のジープに跨がったGIに ”ギミー・チャコレー!” と叫んだ自分があるからだ。ギブミーチョコレート!ホロ苦く鮮烈に甘く、DDTの匂いと栄養不良のチビがジープを追いかけるシーンを見てしまうのだ。
”カムカムエブリバディ・ハウデユー・ユーデユ・アンド・ハワユー” しょうじょう寺の狸囃子のメロディーでこんな歌を歌ってね。今でも歌えるところが少し悲しい…。
ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を読んでいると、なんだ全部知っていることばかりじゃないか!と。
親父に連れられ親戚のお家に行くときなんか、大阪の城東線の廻りは焼け跡で錆びた鉄骨がむき出しで並んでいた。大阪駅の地下道には手風琴(アコーディオン)の傷痍軍人が「異国の丘」を奏で、子ども心に恐ろしさ、哀しさが映った。戦災孤児(浮浪児)、リュックを担いだ買い出しのドタ靴、地上にはGIにぶら下がった毒々しい化粧のパンパン、GIのカーキに包んだ栄養たっぷりの巨大な尻、黒人兵、キャメルとラッキーストライクの匂い。チューインガムとチョコレートに文明の香りを嗅いだ。
…いまハーシーを食べても特別にウマイとも思わないが、あの頃は涙が出るほど美味しかった。そうだ、あの頃から半世紀以上もバレンタインデーになると女性にギブミーチョコレートと言い続けているのだが、いまだにお当たりがない。モテない男の悲哀だ。一人寂しくチェット・ベーカーのマイ・ファニー・ヴァレンタインデイも聞くか。
ずっと前に彼のコンサートに行ったことがある。歳以上に老いさらぼうた亡霊のような男が歌う、だが、声だけ聞くと甘く切なく青春の輝きだ。中性的な少年のような声、彼の歌声もこの日には一際胸に沁みる。
~Stay, little val – en – tine, stay! Each day is val – en – tine’s day.
2/ 11th, 2010 | Author: Ken |
Toy Box … Sports Figure -1
こんな人形を何故持っているかって? 今は昔ロンドンでウィンドウショッピングなんぞしていたら、カッコいいスポーツ人形があるじゃないか。古び具合といい、そのスタイルといい、ディスプレイに何とも収まっている。ところが値段を聞いたらトンデモない金額を言う。アンティークじゃないジャンクのくせして…。とてもそんなお金は出せないし悩んだ末に諦めた…。
帰国してからもあの人形が気になってしょうがない。目の前にチラツキ、買った方がよかったんじゃないかと。ヨシ!自分で作ってやれと決心した。早速材料を揃え、粘土細工なんて学生時代よりしたこともないが、まず古い雑誌や資料からデッサンしてポーズやウェアを決め作り始めた。そりゃ最初だから凝りますよ。ところがリアルに作れば作るほど、我が貧弱な造形力が問われ面白くない。
ウーン、何故なんだ?その時30年代のエスクアイヤー誌のルイス・フェローズのファッション・イラストが眼に留まった。決して高度な絵画技術で描いたのじゃない。だが、その雰囲気、気品、背景が素晴らしいのだ。
そうだ!リアリズムじゃないんだ。ヘタウマというより人形っぽく作ったらいいんじゃないか。基より腕は稚拙だから雰囲気だけ出そうと考えた。テーマはホワイトスポーツ。クリケット、テニス、ポロ。これで行こう。少し恥ずかしかったが展示会やお店のウィンドウに飾ってみた。まあこんなもんダロ。それからはあれもこれもと…。
2/ 9th, 2010 | Author: Ken |
トンデモなく楽しい。
トンデモ本はトンデモなく楽しい。最初にオオ!と声を上げたのは、そうあれですよ。フォン・デニケンの「未来の記憶」だった。半ば信じたくなりましたね。でも考えれば、何も宇宙人を出さなくても、ピラミッドにしろイースター島のモアイにしろ、人間が作ったのが一番の早道だよね。その作りかけの遺跡や道具もある訳だし。
物事はシンプルであるほど正解に近いとは「オッカムの剃刀」ですね。「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」と。でも「ある事柄が、3つの要素で説明できないのならば、4つ目の要素を加えよ」という格言もある。これも頷ける。
そして、あの五島勉の「ノストラダムスの大予言」だ。これはベストセラーになった。その中でこりゃダメだという写真があった。ヨーロッパで海岸に打ち上げられた半身半魚という写真。あれルネ・マグリットの絵じゃないの(時代がノンビリしてたのかな)。
1999年もとっくに過ぎたけれど恐怖の大王はどこへいったのか!中には素敵な本もあるんだよ。NASAの技術者が著した「円盤製造法」、エゼキエルの書を分析し設計したら円盤が出来た。その合理性と知的お遊び。大好きだ!「第三の眼」ロブサン・ランパ、これは英国人がチベットで超能力の秘法を授かったなんてホラ話の傑作だ。世界的ベストセラーになった。他にも「バミューダ・トライアングル」「雪男」「ネッシー」と限りもない。でもホラ話はエンターテインメントとしていいんだ。どこかの占い師や超能力と称する疑似宗教家、先祖の霊を慰めると称して金を巻き上げる輩。コ奴らには嘘という罪がある。眉にツバをべったり塗ってトンデモ本を楽しむ。これでいいんじゃないかな。
そして馬鹿にするんじゃなく真面目に考えて見るのも必要じゃないかな。
★「トンデモ科学の見破り方」ロバート・アーリック著 垂水雄二・坂本芳久訳 草思社:「トンデモ説」は沢山あるが、その中には真剣な学説があるかも知れない。 かってウェゲナーの大陸移動説は「トンデモ説」と思われていたが 現在は定説になっている。未知の理論が「トンデモ」なのか、 それとも「マトモ」な考えのなのか。その辺をマトモにトンデモ度を考察する本だ。
1「銃を普及すれば犯罪率は低下する」 2「エイズの原因がHIVというのは嘘」 3「紫外線は体にいいことの方が多い」 4「放射線も微量なら浴びた方がいい」 5「太陽系には遠くにもう一つ太陽がある」 6「石油、石炭、天然ガス生物起源ではない」 7「未来へも過去へも時間旅行は可能である」 8「光より速い粒子「タキオン」は存在する」 6「宇宙のはじまりはビッグバンは間違い」
彼は多くの説や統計で検証し彼なりの判断を下し、トンデモ度で採点している。
★「怪しい科学の見抜き方」ロバート・アーリック著 垂水雄二・坂本芳久訳 草思社:
1「地球温暖化はいいこと?」 2「人間はどんどんバカになってる?」 3「コレステロールは気にする必要はない?」 4「ゲイは遺伝か?」 5「宇宙に複雑な性はまれか?」 6「ニセ薬で病気は治せるか?」 7「念力でモノは動かせるか?」 8「インテリジェント・デザイン説は科学か?」
以上の仮説について、賛否両論を詳細に検討し判定する。…….さて、あなたはどう考えますか?
★「トンデモ現象99の真相」と学会 著 洋泉社:面白いの何のって!
2/ 6th, 2010 | Author: Ken |
トリノの聖骸布
不思議という気持ちが心に浮かぶことが不思議である。いぶかしい物を知りたいと思う好奇心である。なぜこんなものが人間の心に組み
込まれているのかが不思議である。ご存知だろうか「トリノの聖骸布」いう布を。シンドン、聖ベロニカのベール、マンデリオン、オソ
ニア、スダリュウムなどとも混同されて呼ばれるが、これにはイエス・キリストの遺骸を包み込んだ布であると伝えられ、その風貌、身
体全体の前後が写されているのである。それが不思議なことに描いたのではなく、写真の陰画(ネガ)としてあり絵具や染料のように生
地に染み込んでいないのである。1353年に始めて文献に表れ、これまでおよそ700年にわたり真偽が問われてきた。ある者はキリスト存
在の紛れもないもない証拠であるとし、そして懐疑派は誰かが捏造した偽造物であるとして無視してきた。
….この布の由来を追求すれば表の歴史に現れる以前はどうであったのか。年代記録者ロベル・ドゥ・クラリが1203年に十字軍に関して
書いている。「ブルケルネの聖母という修道院があり、そこには我等の主を包んだ布があった。…その後、その市が陥落した後は布の行
方は誰も知らない」。これが果たして聖骸布だったのだろうか。そしてオット・ドゥ・ラ・ロッシが第四次十字軍(1201〜1204年)に
聖骸布をコンスタンチノーブルから東南フランスのブザンソンに持ち帰り、1353年にシャルニ伯爵・シャンパーニュ貴族のジョフロウが
フランスのリレーの聖堂にこの遺物を贈った。1503年にシャンベリー市で火災に合い、その焼けこげが残っている。そしてサヴォア公が
1578年にトリノに持って来、現在は聖ヨハネ大聖堂に保管されている。これが簡単な聖骸布の沿革である。
事態が一変したのは1898年のことである。その年、セコンド・ピアという人が初めて聖骸布の写真を撮影すると、その写真のネガに驚嘆
する映像が映し出されていたのだ。それはキリストの姿だったのである。聖骸布はポジ・ネガの反転だったのだ。ネガにして初めて実像
として表れたのだ。それも二次元に三次元の映像として。それは聖書の記述にある通りの姿だったのである。手首と足に釘打たれ、肩に
は十字架を担いだ傷があり、背には鞭痕、額には茨の冠から流れた血、右脇腹には槍傷、血は本物である。偽物であれば聖書に基づいて
制作したのだろう。だがどうやってネガで描いたのか。写真術の概念は古くはアリストテレス、中世にはダ・ヴィンチなどが暗い部屋か
らに針穴からの光が倒立画像が写る原理は知っていた。16世紀にカメラ・オブスキュラの原理が作られ、1826年にニエプスが世界初の感
光版で撮影に成功した。それが14世紀にどうして写真が写せたのだろう。
現代の科学を使った最新の調査は1988年に行われた。科学者らは聖骸布の一部分を切り取り、布片を考古学調査などで用いられるC14・
炭素年代測定にかけた。オックスフォード大学、アリゾナ大学、スイス連邦工科大学の3機関においての結果は、この布自体の織布期は
1260年から1390年の間であると推定された。 しかし、これらの調査結果については異論も多い。過去の修復作業時に付け足された部分
をサンプルとした測定ではないか?、布はバクテリアによって生成されたバイオプラスティックで覆われていて、大きな誤差が出たな
ど、検査方法の有効性や信憑性を疑う批判がされている。…..それにしても不思議である。ぼくは科学信奉者だから人工物と思うのだが
割り切れないものが残る。次のトリノ(チューリン)の聖骸布公開は2025年という。その頃の未来技術では果たして…。
●「キリストの遺影」マッケヴォイ/小田部胤明 中央出版社/1948:ぼくが15歳頃、姉が教会から頂いてきた本だと思う。きわめて真面
目に取り組んでいる。キリストが鞭打たれた鞭は先端に亜鈴のついたフルグラムという鞭だったとか。…..衝撃だった。
●「トリノの聖骸布の謎」リン ピクネット、クライブ プリンス 新井 雅代 訳 白水社:これはレオナルド・ダ・ヴィンチが写真術で
作ったものだという。それを実験で証明した。….でもねえ、そうとう無理があるよねー。
●「聖骸布の陰謀」ホルガー ケルシュテン, エルマー・R. グルーバー 宇佐 和通 訳 徳間書店:これはローマ・カトリックの陰謀で科学
調査の結果、キリストが生きていれば復活劇が破綻する。そうすると信仰の根本が変わる。だから布サンプルをすり替えた。陰謀説。
●「最後の奇跡 トリノ聖骸布の謎」イアン・ウィルソン著 木原武一訳 文藝春秋:「聖骸布=マンデリオン」説を主張。確信派。
このドキュメンタリー・ヴィデオもある。 ….何しろ二千年前のことだ。解らないからミステリーなのだ。その他「イエスのDNA」
「イエスの棺」など、たくさんの本がある(怪しい本も多いがそれも楽しい)。謎は深まるばかりだ。
2/ 4th, 2010 | Author: Ken |
審判
「The Trial・審判」1963 原作:フランツ・カフカ 監督:オーソン・ウェルズ 出演:アンソーニー・パーキンス、ジャンヌ・モロー、ロミー・シュナイダー、エルザ・マルチネリ。奇才、異才、鬼才、怪優、怪演、オーソン・ウェルズがカフカの世界にトライした。画期的な「市民ケーン」以来、「偉大なるアンバソン家の人々」「上海から来た女」など細部には眼を見張るところがあるが映画としては失敗作だ。しかし「審判」は彼の才能が遺憾なく発揮されている。カフカ的悪夢の世界だが、オープニングは「城」から始まる。法という城門に男が入ろうとする。彼は入ろうとするのだが堂々巡りするだけだ。そこには誰も来なかった。そこは彼のための法の城門だったからである…。ジョゼフ・Kは普通の男である。ある朝検察官が刑事とともにやって来た。Kは罪に問われたと言う。何の罪かは検察官にも解らない。法廷、インチキ裁判、叔父、弁護士、女、裁判所所属の画家。誰もKを救う事ができない。夜明けにKは逮捕され、荒野のような空き地で犬のように殺された。
不条理、ナンセンス、蛇が自分の尻尾を飲み込むウロボロスのような終わりのない苛立ち。Kは何故、不条理にも殺されなければならないのか。…. 近づく全体主義の不安か?ナチスの軍靴の音か? 官僚機構のがんじがらめの社会か?
映画はモノクロームのコントラストを強調して美しい。廃駅ガール・ドルセー(現オルセー美術館を使ったセットなど驚くほどの凝り方だ)。音楽は自らを音楽貴族と呼んだディレッタント、トマゾ・アルビノーニのソナタ(アダージョ)が効果をあげている。
しかし、バロック音楽というと必ず取り上げられる名曲だが、アルビノーニの作ではない。レモ・ジャゼットという音楽研究家が、ザクセン国立図書館から受け取ったアルビノーニの自筆譜の断片をもとに編曲したというが、アルビノーニの証拠はどこにもなく、「ト短調のアダージョ」は完全なジャゾットの作である。でも、99%の人がアルビノーニと信じている。(僕もそうだった)
(松田優作の「野獣死すべし」にも使われていたがひどいものだった。アルビノーニに失礼だろう)。
このカフカの不可思議な小説を巡って様々な論があるであろう。しかし、この映画はオーソン・ウェルズの「審判」だ。理解しようとするほど理解できない仕組みである。彼の最終作「フェイク」は現実かマジックかが混在し解らないのがフェイクという、人を食ったやり方。そこがウェルズだ。彼の哄笑が聞こえてくるようだ。
2/ 3rd, 2010 | Author: Ken |
鬼が笑う
節分である。鬼は外である。なぜ豆を撒くか? それは豆は「魔滅」に通じ、鬼に豆を投げつけることで邪気を追い払うことである。
…と。友人に全国津々浦々、祭りの鬼を追いかけている写真家がいる。彼曰く鬼とは決して魔物だけではない。優しい鬼もいるんだよ。と柔和な眼で語ってくれる。
そうだ、そこには民族の、土着の、人間の、魂の奥深いところから発する熱いエネルギーがある。強力無比な力、時には恐鬼となり、時には邪鬼になり、怒鬼になり、善鬼となる。大地を鎮め、五穀豊穣の守り神となり、無病息災を願う。それでいてどこかユーモラスであり憎めない鬼。
そんな鬼たちを、これまでも、これからも彼は追い続けるだろう。まあ魑魅魍魎という鬼が並んだ言葉もあるが、世間にはそんな奇っ怪な輩が跳梁跋扈している。特に永田町、霞ヶ関、虎ノ門付近に出没が多いようだ。奴らは虎の褌どころか税金という名で、庶民の虎の子までふんだくるのだから…。まあ豆くらいで退散するような玉じゃなし、一票という豆鉄砲で撃つしかないのだろう。(上記は鬼の写真家 T・D氏の作品…鬼の個展より)
2/ 2nd, 2010 | Author: Ken |
火星人の解剖学
レオナルド・ダ・ヴィンチはエイリアンの解剖図を描いていた?…これは嘘。この絵はアイザック・アシモフの科学エッセイ「生命と非生命のあいだ」早川書房、「IS ANYONE THERE?」1967にある「火星人の解剖学」だ。仮に「火星には知的生物がおり、その形はだいたい人間の格好をしている」という前提に基づいて空想の翼を広げた楽しい話だ。火星の重力は地球の五分の二、地球の百分の一の希薄な大気、昼夜の温度差、循環器は乾燥に耐え、紫外線をエネルギーの糧とするために折畳み式光線吸収ケープを背に持ち、それは輝き…..。空想の結末は天使か悪魔の姿とあまり変わらなくなった。(アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」もエイリアンは悪魔の姿だったね)…実に楽しい知的お遊びだ。それを当時一流の男性誌エスクアイヤーがニコラス・ソロヴィオフ描くイラストレーションで掲載したのだ。ダ・ヴィンチ風にするところが何とも心憎い。その巧みさとエンターテインメント、惚れぼれしますね。ぼくもいつか空想生物解剖図鑑(嘘八百の)なんか作ってみたい。
1/ 31st, 2010 | Author: Ken |
拳銃無宿
「銃はただの道具です。斧やスコップと同じように使う人間次第で良くも悪くもなる」シェーン。マリアン「銃なんて一丁も無ければみんなが幸せに暮らせるのに…あなたの銃も含めて」。シェーンにこんな台詞が出てくる。マイケル・ムーアの「ボーリング・フォー・コロンバイン」じゃないが、この台詞は現在のアメリカ社会においても切実な問題だ。アメリカに行ったらスポーツ店で拳銃やライフルがゴロゴロ置いてあってひどく違和感を感じたものだ。
男の子は拳銃が好きだ。ぼくも肥後の守(懐かしいね)で木切を削って拳銃をこしらえた。ガンベルトも作って随分と抜き打ちの練習をしたもんだ。手製拳銃を作って紙火薬で撃ったり(今なら警察ものだ)危険な遊をした事もある。戦後、西部のガンマン、ケニー・ダンカンなんて妙な芸人が日本に出稼ぎに来て曲撃ちを劇場で披露した。考えてみると、映画館の舞台でぶっ放したら危なくてしょうがないよね。空砲と手品みたいなもんだったんだろう。ぼくは見に行きたいと痛切に願ったがかなわなかった。
そして大藪春彦大先生が「野獣死すべし」「凶銃ワルサーP38」「ルガーP08」と、やたらと銃器に詳しいんだ。その頃ヒッチコック・マガジンというお洒落な雑誌があって「拳銃特集」、これにハマったね。ホローポイント、ショートリコイルやブローバック、9mmパラベラムという有名な弾丸なんて言葉をこれで憶えた。このパラベラムとはラテン語の格言から来ている。Si vis pacem,para bellum.(汝平和を欲するなら戦争に備えよ)だとサ。
……まあ、アメ横・中田商店のモデルガンなんか持っていたけどいつのまにか他人にあげちゃった。人を撃つ以外に使い道のない殺人道具に興味がある訳でも好きなわけでもない。その形態とメカニズムに憧れているだけなんだ。
最後に「ダーティー・ハリー」だ。また台詞もいい Go ahead. Make my day.(やってみな。楽しませてくれよ) you’ve got toask one question:”Do I feel lucky?” Well do ya, punk!(賭けてみな、“ 今日はツイてるか? ”どうなんだクズ野郎!)」。
特に2作目は拳銃ファンにとって垂涎ものだ。題名から凄い「マグナム・フォース」だ。廃棄空母での戦いで、殺し屋が暗い艦内ではイェローのレイバンに替え、357マグナムで迫るシーンは涙ものだネ。そうだ44オートマグは何作目だったっけ?
1/ 29th, 2010 | Author: Ken |
奇妙な味の映画
観終わったあと奇妙な感触が残り忘れられない映画がある。「泳ぐ人」もその一つだ。導入部から奇妙なのだ。夏の午後アッパーミドルクラスのプールサイドで人々が談笑している。林をかき分け水泳パンツ一つの男が入ってくる。筋骨の逞しさを誇る肉体の持ち主だ。
皆が噂する「ぜんぜん変わらないね」「元気かい、娘さんたちは?」「ああテニスをね」。彼は眩しそうに空を見上げ「そうだ!泳いで帰ろう」。友人たちのプールを泳ぎ巡って家まで…。
かって彼に彼に憧れていた少女が、両親がかまってくれない裕福で孤独な少年、空のプールを泳ぐ真似をして渡る、ヌーディスト主義の夫婦、成金のパーティ真っ盛りのプール、プチブルたちの虚栄。….だんだん男のヴェールが剥がされてゆく、ウェイターも邪険に扱う、昔の愛人のプール….相手にされない、嘲笑される。男の裏面と過去が暴露されるにつれ内面が浮かび上がってくる。ハイウェイを渡り公営プールにたどり着く、入場料がない。出入りの食料品屋が蔑んだ眼で出してくれた。「脚を洗え!」監視員が命令する。屈辱的だが言葉に従いプールに入る。
食料品屋が毒を含んだ嘲笑を浴びせる「なんだ偉そうに!ジャムはフランス製でないとなんて言ってやがったくせに…」。人混みのプールを泳ぎ渡り、裏山の岩壁を登り家にたどり着いた。そこは荒廃し庭もテニスコートも寂れ放題だ。廃屋の匂い。嵐がやって来た。深閑とした家には人の気配もない。「寒い」… 雨に打たれながらドアにすがりつき呆然とうずくまる…。奇妙な味が後を引く映画だ。
「泳ぐ人」THE SWIMMER(1968) 監督:フランク・ペリー、主演:バート・ランカスター 原作:ジョン・チーヴァー(1964)